評価点と応援点
とある評価をつける自分の心構え的なエッセーを読む。
いや、評価を付けるのもブクマするのも感想もレビューもその人がしたいときにすればいいと思うのだが、エッセー内で何度も出てきた
「応援したいから評価を付ける」
って疑問に思う。
まあ、ホントに個人的なことだけど、評価するのと応援するのは別じゃないのか?……なんてね。その作者さんも疑問を持っている風に書いていた。まあ、点数を何点付けるかって話らしいが…
私なら――
作品の応援するならブクマ。
作品を面白かったかどうかなら評価。
“応援したいから”が、自分にはわからない気持ちだった。応援したいから高得点を付けるんだろうけれども、そもそも“応援する”って心境になるのは、その作品が低評価、あるいは0ポイントに近しいってことだろう? 失礼ぶっこきますけどね。
なら、評価は本音じゃいかんのですか?
それで相互お気に入りユーザーなんだと気の遣う間柄だって文句いうなら、内訳を感想に書いて、一言「それでも続きが気になって更新されるたびに開くのがわくわくする」とかフォローでもしときゃいいじゃん。
って思う。
それでお気に入り外されたらそれまでだろうし、まだまだお気に入りユーザーいるだろうしね。
正直、自分がされたら嫌なことをやらなきゃいいだけの話。嫌ならやらない。嫌なことをされたらその人に何も気を遣うことなく文句を言えるだろうし、腹も立てられるだろう。勝手に嫌いにもなれる――けど、まあ、“優しい”人が多いよね、なろうって。
疲れ切ってたどり着いた場所なのかな? とも思うが人間関係に疲れ切ってたら何がなんでも避けるだろうとも思う。
やっぱり仲良しこよしなのは、そら良いことだ。場の雰囲気は和やかで過ごしやすいし、ほんわかした気分で執筆活動も出来る。困ったら相談相手にもなってくれるだろうし、執筆なり、生活なりの。
でも、そこまで苦になるほど、宣言するほどまでに悩むことかと思う。
誠心誠意と、全てを笑って誤魔化す“優しさ”は違うんじゃなかろうか……なんてさ、人付き合いが下手くその私がいうのも烏滸がましいだろうが、よく自分の首を自分でしめている人ってなろうで見掛けることが少なくない。
顔見えてないのにね。
作品が大事で、より上手い物書きさんになりたいってことに“優しさ”は必要かな?
優しくありたいっていうなら、気を遣いたいっていうなら、もっと別の評価表現があんだろうと思うのであります。
誰かが活動報告に書いていた『評価について』を読んでエッセーを書いたって作者さんはいってあったけど……
それを書いて相手方――もしも相互お気に入りのユーザーだったら、相手が気不味い思いするだろうね。
と、心配してみたり。
時々、思うのは、遠回しにもなってないある意味直接的に、仲いいのかは知らないけども、こう…悪者までいかないが、引き合いに出して『私』を曝け出していくわ!的な意気込みを綴る作者さんって見るね。
自分もそうだけども。
相互のお気に入りユーザーをつくってないから、わからん。つくってしまったらソッコー外される自信はある!
というか、自分と相互なんて逆に申し訳ない。毒吐くことしか出来ないから、なんのお役にも、暇つぶしにもきっとなれませんもん。
いやはや、人気者の悩みはわかりません。…人気者かは、知らんけど。




