慣れの果、それは自信過剰。
久々にエッセーランキングを見る。
新鮮味の欠けたものは省き、つらつらと眺め、やっぱり気になる『レビュー』について。
書き方やら、気軽に書こうやらは飽きるほど見たが、読むことについてだった。そりゃ読んで初めて――は、小説しかり大事なことだと思い、うんうんと頷いて読んでいた。
感想は、一部の文を除いて可もなく不可もなく。……いや、というか一部の文――「最後の愚痴さえなけりゃ良かったのに」と思う。
慣れた人間の、成れの果て。
わかって書いてんのか、無意識、いやいや「自分がレビュー書いたその作品の実が結ばない、だからレビューはちゃんと読もう」なんて自信過剰以外のなにもんでもないだろう。
だって、読まれたかどうかすらわからないのに、誰もが読んでいるなど思わんだろう。もっと言えば「あなたのレビューを読んでも心惹かれなかった」、そういうことだって考えられるのだ。
何故、そこに至らないのか…?
お前がレビューを書くために、その作者は作品を書いているわけじゃないと思う。
しかしながら作者は貰えさえすれば嬉しいんだろう。
でも、そのレビューに中身はあるのかな……
貰った作者が随分、慣れきるまでにレビュアーを持ち上げたんだろうなあ、と思ってしまう。自分の書いたレビューが作品のお役に立てなかったというなら、作者作品に対する申し訳なさがうまれるならわかるが、
「レビューを読もう、私のレビュー(言葉)に“間違い”はないんだ」
そんな風な話では失礼ながら、引くことはあるが惹かれることはない。
ま、私ならの話です。




