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第7話 新床を飾るもの

 床入りのすべての支度が整った。また女達は無言のうちに房を出て、赤鳳殿内の洞房どうぼうに向かった。そこには寝台、卓と椅子、新床にいどこもしつらえられているはずだった。行列のほか、回廊の一柱ごとにも同じ雪洞を持つ女官が立っており、そこかしこに設けられた松明と相まって、あたりは存外に明るい。


 女官長一人のみを先導として、宝余は洞房の敷居をまたいだ。赤いかつぎのせいで視界は下方向にしか向けられなかったが、その緊張は頂点に達し、何かの当てつけかのようにきつく胴に締められた帯とともに、気分の悪さを引き起こした。冠や簪で重くなった頭も苦痛を増長させ、床に敷かれた陶板の無機質な模様がちらちらして、悪夢のように宝余の視界をさいなんでくる。彼女は女官長に手を引かれ、卓を挟んだ椅子の一つに座らされた。


 これから固めの杯を交わすのであるが、洞房に控えていた女官はみな退出し、入れ替わりにまた別の誰かが入ってきた。軽い足音をさせ、宝余の前に立ち止まる。かつぎの下から様子を窺うと、若草色の裳と黒い補服ほふくの裾、腰から下げた二つの玉佩などが見えた。


「お妃様。ご無事の洞房入り、慶賀の至りに存じます。私は光山弦朗君こうざんげんろうくんの妻でございます。ながの道中に加え一連のご婚礼の行事続き、さぞお疲れでございましょう。しばしお待ちくださいませ」


 少々拙い華語を話すその女性の声は柔らかく、細かった。宝余は謝意を示そうとわずかに会釈をした。何か食器の音――おそらく杯ごとの道具だろう――が触れ合う音がし、しばらくすると女性は去っていった。

 耳が痛くなるほどの沈黙が洞房を支配してどれほどの時が経ったのか、彼方からひたひたと迫る足音は、宝余の胸をぐっと締め付けさせた。足音は殿の角を曲がり、ためらいもせず洞房の敷居を越え、直進してくる。座す宝余の目の前で足音は止まり、男物の長靴が見えた。きっと夫となる人であろう。


 そして次は王が花嫁のかつぎをとって顔を合わせ、杯を交わすことになるはずだった。だが。


「――!」

 宝余は自分の身に何が起こったのかわからなかった。かつぎが一瞬にして取り払われ、不意に視界が広がったことに気がついた。彼女は上半身の均衡を崩して椅子の手すりにもたれかかり、だが顔はまっすぐ相手を見上げていた。


 部屋のうす赤い灯に照らされ、夫となる人間の顔はあった。痩身の上に、端正ではあるが神経質そうで、まなじりをつり上げた顔が乗っていた。噂に聞く紫色の瞳には怒りがゆらめき、宝余と一対となる衣装――ただし上着は黒色の――を身につけている。宝余は自分のかつぎを乱暴に取り払ったものの正体を知った。王の右手に握られた細身の剣、その凍っているかのような鋼の刃。しかしいずれにせよ、今起きたことは、通常の婚礼の作法ではあり得ない。


 混乱し、口もきけないままでいる宝余の首筋に、王はさらに剣を添わせた。

「あ…」

 王妃の身体を震えが走り抜けた。

「そなた――何者だ?」

 言われていることの意味がわからず、宝余は眼をしばたたいた。

「…え?」

 刃が首筋にぴたりと当たる感触がした。

「涼の間者か?そなた、九宝娘のふりをしているが、一体誰なのだ?」

 相手はその白皙のおもてを崩し、口の端をゆっくりと釣り上げた。

「随分と我が国舅どのはふざけた真似をしてくれるものだ、私が妃となる者の顔も知らぬとでも思っていたのか。……そなたも間者であるなら、抵抗するなり、反撃にかかるなりしたらどうだ。それともんまりで通すつもりか」

 挑発され、宝余は思わず相手をにらみつけて言った。我ながら驚くほどの勇気と、冷たい声音だった。

「…とにかく、私の首をうかがっているこの忌々しいはがねをどけていただけますか?話はそれからにいたしましょう」

 用心しいしいといった様子で、剣が引かれた。男は乗り出していた身を起こし、三歩ほど後ろに下がった。宝余も身をただして座りなおす。その間双方とも視線を互いから離すことはなかった。


「問われた以上は、私から話したほうがよろしいでしょうね?」

 宝余が皮肉を込めた視線を相手に向けた。王がわずかに頷く。


「そうです、確かに私はあなたのご存じの九宝娘、すなわち第九公主の宝慧ではありません」

ここで、宝余は大きく息をついた。

「彼女は亡くなりました」

 男は眉根を寄せた。「亡くなった?」

「そうです、涼を発つ一月前に。急な病で倒れ、三日後にはもう黄泉へと旅立ちました。ことは内密にされ、涼でもごく限られた者しか知りません。私は彼女付きの女官でしたが、公主が急死したゆえにその身代わりとして仕立て上げられたのです」

「――何と」

 若い国君は相手から視線をそらし、宝余のものと対となっている、もう一つの椅子に座りこんだ。唇をかみしめ、膝がしらを強く掴んでいる。

「…彼女が、まさか――」

 宝余は彼の受けた衝撃を意外に思い、低く静かな声で問うた。

「…もしやあなたは、九宝娘をご存じでしたか」

 五年前、来州の反乱を口実に介入してきた涼に烏翠が負けた。その代償の一つとして、国君は自身が即位のため烏翠に呼び戻されるまでの三年間、涼に送られたのである。そのことは宝余も知っていた。彼は涼にあっては人質として監禁同然の身であったはずだが、どういうものか九宝娘と面識はあったのだろう――。

「…私は彼女によって命を救われたことがある」

 それだけを答え、国君は氷のような眼で妻となる者をみやった。

「では、そなたはただの身代わりの女官なのか」

「そうともいえますし、そうでないともいえますが」

 宝余もまた凍えるような、挑戦的な視線を相手に返した。

「どういうことだ?」


「私もまた、涼の公主なのです――半分だけ。父は確かに涼王ですが、生まれた直後に女官だった母を亡くして宮中を出され、ある老臣の養女として育てられました。ですが突然父王に呼ばれ、輿入れする九宝娘に一女官として付き添えと命じられたのです。そして今は、あなたの妻、妃としてこの洞房に座す次第。これでおわかりですか?」

 国君は嘲笑を浮かべた。

「それではそなた、自分を捨てた父に利用された訳か。簡単にものを手渡すように右から左に――気の毒なことだ」

「私が実父を恨むとでも?私の養父はかつて王からご勘気を蒙って以来、謹慎の身だったのです。ここで私が実父に否と一言でもいえば、きっと養父は勅勘では済まなくなりましょう」

かつ、こうも付け加えた。

「ああなるほど、私が女官となったのは、間諜として烏翠を探るためだとお疑いなのですね」

「違うのか」

 宝余は呆れた様子で首を横に振った。

「間諜を王宮に紛れ込ませるならば、このような手の込んだことをすることもないでしょう。涼に欺かれた形になり、国君にはお気の毒ですが仕方がありません。いかにも誇り高そうなあなたには、耐えられぬ侮辱でしょうが――全てを明らかにして私を涼にお返しになるほど、そしてたとえばこれを恥辱として涼に戦いを挑めるほど、いまの貴国には力が残されていましょうか?」

 痛いところを突かれたらしき国君は、唇を引き結んだ。

「我が父王ならきっとこう申すでありましょう。――肝要なのは誰が烏翠の王妃となったのかではなく、涼の公主が王妃となったことだと」


 その言葉を聞くや否や、国君は剣を納めた。しかし、子孫繁栄を願う百子図の帳が下る新床は一瞥もせず、洞房を出て行こうとする。

「…大旗?」

 妻たる人の呼びかけに、国君は振り向きもしなかった。

「そなたはそう申しても、新妻に寝首をかかれてはたまらぬ。今夜はここでは休まぬゆえ、そなた一人で眠るが良い。新床の冷たさこそ、私達を祝うに相応しいだろう」

 そう言い捨てると、王は足早に歩み去った。

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