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第61話 宇宙の広さを知る

 そう言った忠賢の顔を、出し抜けに赤いものが照らした。

 大庁から火の手が上がった。明らかに、油をまいて火をつけている。それほどの火勢であった。

「――まさか」

「曹国良は本気なのよ、本気でこの邸と心中する気と見える。きっと私達を黄泉への露払いにでもするつもりでしょう」

 宝余は低い声でつぶやいた。

「そんなことさせてたまるか……皆のいる正門に戻らなくては。大庁を抜けていこう、行くぞ。早く!」


 二人は大庁へ向けて走り出した。外では邸内の火事に気がついたのだろう、狂ったように銅鑼が鳴らされている。

 大庁が近づくにつれ、熱気が倍々に膨張する。二人は知らず知らず手を握り合い、呼吸を合わせて炎に近づいていく。幸い後庭から前庭に抜ける扉が半分開いており、二人は飛び込んだ。

 走っていくと、うしろのほうで木材が燃え、瓦がばらばらと降って来る音が聞こえる。後庭にもすでに火は回りかけており、宝余は熱風に息をつまらせそうになったが、何とかやりすごした。

「抜けた!」

忠賢の声が上ずった。二人はついに正門にたどりついたのだ。


 既に門は打ち壊されており、前庭には遺体がいくつか転がっているほかは無人だった。向こうから馬のいななきと金具の擦れる音が聞こえる。開け放たれた門を通り、宝余と忠賢が外に出ると、門から少し離れたところに邸内の者が集められており、生き残った曹側の兵が縛についていた。

 騎馬の集団の先頭に立つのはもちろん王で、弦朗君や宰領の呉一思以下が後に続く。顕錬は下馬すると臣下を従えて立った。その手には抜き身の「藍宝」が握られている。忠賢と宝余はそろって御前に進み出た。

 忠賢は膝をつき、だが宝余は一礼するも跪かず、立ったまま王と対する。誰も彫像のように動かなかった。ただ動いていたのは王と王妃の視線のみ、それらゆっくりと動き、互いをとらえて固定した。


「…大旗よ、旗妃をお連れいたしました」

 忠賢が啓上する。遠巻きに様子を見守っていた班の者達も、慌てて跪く。まさかいままで洗濯に食事にと働いてきた下働きが、王の傍らにいるべき女性などとは――。


「ここまでわが妃を守ってくれたこと、私より厚く礼を言う」

 顕錬は藍宝を鞘におさめ、静かな口調で答えた。紫瞳の国君は、夜とあって今はただ黒々としか見えない眼で、忠賢を見つめていた。

「…私は王妃だからお守りしたのではありません。座員である以上、誰であろうと班主として守るのは当然のこと」

 乾いた声が王を刺したが、王は怒りを見せなかった。

「それはわかっている。そなた――魯公理の息子か。公には息子が三人いた筈だが、魯の処死のおり、二位人は父と運命をともにし、一人は行方不明になった」

「ご明察恐れ入ります。私こそ行方不明になった者、次子の忠賢と申します」

「……報告を聞いてそうではないかと思っていたが、やはりな。そうだ、いつだったか一度馬場でそなたと弓を競ったことがあった。なかなか良い腕をしていた」

 顔を上げるがよい、と顕錬は相手に促した。


「魯の昭雪しょうせつ(注1)はすでに果たされた。そなたには私から詫びを申そう」

「もったいないことにございます」

「それで、遠からず趙の家門を復する手続きに入る手はずを整えるが、ただ一人の直系であるそなたがかつての位を襲うことになるだろう」

「そのお話ですが」

 忠賢の、王を見据えた目は鋭く力がこもっていた。


「王君、身に余る栄誉にはございますが、無礼を承知で申し上げます。実は、私は遊芸の大班主となる身。大班主はその死が訪れるまで大班主として生きねばなりませぬ。この世で最後の一人になるまで、朋輩を統べ、その行く末を見届ける義務がございます。それこそ、天よりもなお動かしがたき吾らの掟。したがって官位も家門も、すでに私には意味なきもの。吾らの主は天と、その命をうけた御方ご一人いちにんのみ。ほかの何人であろうと頭上に主人は戴きませぬ」

「……」

「私はこの烏翠で生を享け、人となったのでありますから、どうしてこの地をなおざりにできましょう。ただ、いま申し上げた理由により、もはや王君にお仕えすることはかないませぬ。王命に背く大罪にはなりますが、……どうかお許しくださいませ」

「そうか」

 王は怒りもせず、かえって瞳に優しげな光を浮かべた。


「こういう話があるな。そなた達が芸を演ずるときに敷くあの蓆は、広大無辺の宇宙を現しているのだと。一度宇宙の広さを経験してしまった者には、この烏翠はいかにも狭かろう。よろしい、ここを去りたければ去るがよい。ただし、そうなった場合、そなたは永劫に復籍が叶わぬことになるが、――それでかまわぬか?」

 忠賢は深く頭を垂れた。

「君におかれましては並々ならぬご寛容をお示しいただき、言葉もございませぬ」


「よろしい。そして――我が妻の希望も聞かねばなるまいな?」

 話を振られた宝余は顕錬を見据えた。

「いま希望を言わせてもらえるとするならば、それはただひとつだけ。大旗とお話がしたいのです――二人きりで」

 相手は顔色も変えなかったが、周囲の人間は呉一思を除き、一様に警戒の色を隠さない。だが、顕錬が重臣達の代わりに答えた。静かな口調だったが、それは臣下達の反論を許さぬ強いものだった。

「もとより私も望むところだ。――行こう」


***

注1「昭雪」…冤罪がすすがれること。


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