第4話 高楼にとまる燕
異国の妃の行列は、都入りの前に石花亭で一泊して最後の支度を済ませ、翌日の早朝には王宮からの迎接使の先導で出立した。同日の中午には、王も自ら府の朱鳳門まで自ら花嫁を迎えるべく王宮を出た。すべては、夜に行われる婚儀のためである。
ぱさっと音を立てて、それは彼の手元に落ちた。目線をしたに向けると、自分の瞳と同じ色をした、花の塊がそこにあった。手綱を握る左手のうえに、そのふわふわした花は、まるでもとからあったように着地している。
周囲で男達が騒ぎ出し、近衛の幾人かが列から離れていった。おそらく捜索しているのだろう、藤の花房を王の行列に投げ込んだ犯人を。
「大旗――お怪我は?」
彼の隣で馬を進める夏玄章が問うてきた。王の近衛総管として常に傍らに従う彼も、主君に劣らず冷静さを保っていた。
「大事ない」
大旗、すなわち「王」と呼ばれた若い男はそう答え、用心深く上を仰ぎ見た。
彼の視界から遠くないところに、いくつか高楼が聳えている。王が通るということで、沿道の民は道に面した戸口を全て閉めなくてはならず、また二階以上に登ることも禁じられていたが、わざわざその戒めを破ったものがいるらしかった。
この道は大街ではなく、建物や楼が道に迫る、道の細い一角である。異国から王妃を迎える場合は、相手の国に敬意を払い、王みずから府において迎接することになっている。
しかし、宮城の崇孝門より外城の朱鳳門に至るまで、迎えの行列がまっすぐ龍鳳大路を南下せず、往復ともにわざと細い道を通って迂回するのは、異国の者に憑いてくると言われる禍々しい霊や妖物をまいて道を見失わせるためであり、それは取りも直さず迎える側の恐れと憎しみをも表していた。
馬上の主人は銀の握り手がついた鞭を握りなおした。歳は二十になったかならぬかといったところで、やや痩せて骨ばった体躯の持ち主である。その白皙の顔には何の表情も浮かんでいなかったが、もし彼の顔を見るならば、誰もがある一点に視線がひきつけられ、またそれを見た後は、再びは見るのを避けようとするだろう。
それは彼の瞳のなせるわざだった。常人と異なる、深い紫の虹彩。きわめて注意深い者であれば、彼の心情は表情ではなく、その瞳の色のわずかな揺らめきにこそ現れていると気づくであろう。この瞳を持つがゆえに、彼は畏怖あるいは侮蔑の響きをもってこう呼ばれるのであった――すなわち「紫瞳の国君」と。
「…何を投げつけられようとかまわぬが、わざわざ迂回することもなかったのだ。涼との間がまた気まずくなるだけのことなのに。母上も無体なことを仰せになる」
王の怒りを含んだ言葉に対し、すぐ後ろに従う宰領の呉一思は眉を上げた。
「とはいえ、まっすぐ大街を南下なされば、太妃のお怒りの種が増えましょう。ただでさえ、迎える妃の四柱の占いを大旗が拒まれたので、太妃さまは大いなるご不満と聞き及んでおりまする」
「妃と私の相性を星々に尋ねて、それで凶と出たところでどうしようもないではないか。まさか占いや運命を口実に我が国が涼からの納妃を拒めるとでも?徒事に過ぎぬばかりか、良からぬ噂になればやっかいだぞ」
「王がそうお考えになるのは無理からぬことですが――太妃さまだけではなく、臣僚も太妃さまに賛同の者が多いのですから、どうかそのことをお忘れにならぬよう。このところ巷に流布している謡言を御存じか?『白烏が死ぬとき、紫瞳の国君が立つとき、国君の剣が折れるとき、そして異国の女が納妃されるとき、この四つが揃うとき、烏翠は滅びに瀕するだろう』」
「…謡言にまともに取り合えば、かえって政は混乱する。ただ捨て置けばよい」
「しかり。ですが、国のなかでは宮城でも城市でも、このたびの国婚にはさまざまな感情が渦巻いているというのは事実です。舵取りを失敗するわけには参りません」
宰領の忠告を聞いているのかいないのか、若き王は藤を懐にそっとくるんだ。
「この枝を投げた人間は、もうわかっている」
王は、ぴんと張り詰めた弓弦のような表情を崩さなかった。
「女、無礼にも王の行列に枝を投げ込んだのはお前であろう!」
捕吏の怒声が部屋に響き渡る。妓女は蔡河を下に望む窓の桟に腰をかけ、両腕に琵琶を抱いていた。烏翠の人間でありながら自国のものではなく天朝の衣を身にまとい、羽織った若草色の上着には自分が投げ込んだものと同じ、蔓から乱れ落ちる藤の花が刺繍してあった。
彼女はこの部屋に押し寄せてきた者達――頭から湯気を立てている捕吏や、十人はくだらぬ兵士や、その後についてきた女将たち楼の者――を眺め渡して不敵な笑みを浮かべ、いかにも余裕しゃくしゃくといった態で琵琶を構えなおす。そして――
蓬山の神侍、頭を抱きて舟上に眠る
蔡河の酒楼、明月を留めて離さざりき
歌女の情一枝、公子の懐中に落つ
君は急いて怒るなかれ、其は全てを赦すしるしなれば
即興の詩を声も高らかに歌い上げ、一同が呆然とするなか、おもむろに琴を抱いて立ち上がった。
「よく私が投げたとおわかりになりましたこと」
その白い喉元に、三本の剣の切っ先が突きつけられる。だが彼女はそうやって詰め寄られてもおびえる様子は毛筋ほども見せず、むしろこの成り行きを面白がっているように見えた。補吏の一人がふんと鼻を鳴らした。
「吐いたぞ、あの通りに邸を構えるお前の贔屓の客がな。大方彼におねだりをして邸に入れてもらい、高楼にあがったのだろう?」
「ご名答ですね」
燕君は悪びれもせず、にっと唇の端をつりあげて補吏を見据えた。
「まさか鄭の坊ちゃんを捕えたりはしていないでしょうね?あら、捕えてしまったの?仕方がないわね。あなた方がおっしゃるように、私が彼に頼み込んだだけ、すぐ放免なさいな。可哀相に、肝っ玉の小さい人なんだからいまごろ獄でしゃくりあげて泣いているわよ。そのかわり、捕えるならばこの青黛楼の燕君を捕えなさいまし。たかがか弱き妓女ひとり、お役人様にとっては難しい仕事ではありませんでしょう?」
彼女は捕吏への仕返しのように、自分も鼻を鳴らして笑った。
「でも私の琴と命を賭けてもいい、王はこのことについて、決して私を罰したりはなさらないわ」
「この…」
あまりに不遜な物言いに、逆上した兵士の一人が彼女の掴みかかろうとしたが、後ろから兵士にしがみついた者がいる。その万力のような力の持ち主は、ここの女将だった。彼女はなりふりかまわず兵士に食って掛かる。
「何をするんですよ、うちの大事な燕児に!彼女に傷でもつけてごらんなさい、身請けに千金を払っても足りぬ烏翠一の妓女ですよ。あんたの年俸百年分だって間に合いやしない!それにこの妓は、兵曹のお偉方から何から、最高のご贔屓筋をいただいているのです。何かあって困るのはそちらのほうですからね、くれぐれもよくそこのところをお考えくださいよ」
女将が長広舌を振るっている間、兵士はその剣幕にあっけに取られ、燕君は涼しい顔をしてあさっての方角を向いていた。年若い妓女達や小者達はくすくすと笑い出し、扇や袖で口を隠していつもの内緒話を始めた。
「所詮無理な話よねえ、女将と渡りあおうっていっても」
「王様だって天子様だって、かあさんのがめつさにはかなわないのに」
妓女達の声がだんだん高くなっていったそこへ、
「――何をしているんだい?」
人垣の後ろから新手の者がひとり、ひょいと顔を覗かせた。年のころは二十代も半ばを過ぎた、温和な顔つきの男である。その者を見て、一同はそろってぎょっとなった。
「――弦朗君さま」