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第33話 王妃流転

 盗賊を蹴散らした若い男は姓を名乗らず、ただ「忠賢ちゅうけん」と名のみを答えた。旅芸人は、およそどの班においても姓を名乗らぬことが不文律であり、それは実の家族から存在を抹消され、天下を家、所属する班を家族として生きることを意味している。


 旅芸人の一座といっても、およそ天下には雑技や各国の芝居、あるいはそれら数種の出し物を兼ねるものなどさまざまな座があり、一国の人間のみで構成されている一座を「国班」、複数の国の人間による混成一座を「雑班」あるいは「混班」などと称する。忠賢達は後者であり、出し物は主に天朝の華劇と烏翠の翠劇の二つ、ということだった。

 そして、彼等が真夜中に移動していたのは、一座に出てしまった急病人の処置のため当初の旅程が狂い、宿りを探しつつ廟まで至ったからだという。


 班主の忠賢は烏翠出身で、やはり同国の出身者が座の大半を占めるが、華や涼出身の者もちらほら見受けられる。各座員の前身をあれこれ詮索しないことは、これまた厳然たる不文律であった。したがって、流れ者や罪を負った人間がもぐり込む格好の場として、また他国に放たれる間諜の隠れ蓑として、多くの班は行く先々で問題を起こす。

 とはいえ、娯楽の持つ魔力にはあらがえないためと、天朝の御法においても戯班の移動は禁止されていないので、どの国も鑑札は出すものの班の取り締まりにはさほど熱が入らず――何しろ王族や高官たちからしてそれぞれ贔屓の班やお抱えの班を持っていたのだから――今に至るまで変わらず、多くの班が街道を往来し、国々を出入りしていた。


 忠賢達の班は総勢二十名弱で、地方をまわるときは主に翠劇を、瑞慶府に滞在するときは華劇を演じる。すなわち、夏から秋にかけては烏翠の方々を回って百姓ひゃくせいに親しみ深い土地の芝居を打ち、冬の足音が聞こえる時分には瑞慶府に入り、複数の、ひいきの高官宅にやっかいになって優雅な華劇を所望のままに演じ、そうして冬をやりすごすのである。


 瑞慶府。その名前を聞いたとき、宝余は眩暈がした。

「…瑞慶府に行かれるのですか?」

「ああ、毎年あの府で冬を過ごしている。寒いが、人々は温かい」

「…そうですか」

 瑞慶府で胆の冷える思いをしていた宝余には、忠賢の言葉がぴんとこなかった。

「もっとも、府に入る前にあちこち寄り道をせねばならん。ご贔屓様がお待ちかねだからな」

 宝余は息を呑んだ。そして立ち上がると、忠賢達に向かって拝礼をし、そのまま跪いて彼等を見上げた。


「何をしている?」

「お願いです。皆様と班主のお慈悲をもって、私を一座に加えてください。私はどうしても瑞慶府に行かねばならないのです」

「何の事情があるか知らんが、尋常ではないな。班に加わりたいなどと…」

「洗濯でも炊事でも何でもいたします、ですから…」


 宝余は顔を伏せた。忠賢は苦虫を噛み潰した表情で何も言わず、初めに宝余を助けた女形は興味なさそうにあさっての方角を向いて扇を弄っていたが、色をなして反対したのは、傀儡くぐつを持ち、髪を額で切り揃え若い女であった。他の者もざわつきだしたが、宝余に対し警戒の念を隠していない。無理もない、と宝余は思った。こんな、人気もない廟に一人で野宿している女が、尋常な事情の持ち主であるはずもない。


「あたしは嫌だね。こんな、出身もわからぬ怪しい女を一座に入れて……きっと騒動の種になるに決まっている」

 忠賢が振り返って、女傀儡師をたしなめた。

「おい、我等のうち出身が明らかな者がどれだけいると思う?たとえ天子さまであろうと、一介の農民漁人であろうと、出身や事情を問わず受け入れるのが我が班……いや、天下の全ての班の厳重な掟であることを忘れたか」


 そして、宝余に向き直る。

「そういうことだ。もし洗濯と雑事をこなしてくれるのであれば、瑞慶府に至るまでの間だけそなたに衣食を与えよう。それで良いか?ただし、辛いぞ。そなたに与えられる仕事もそうだが、我等は世の最下層にあって、人の称賛も得られる代わりに、蔑まれる運命だ」

 そう言って、忠賢は眼を細めた。


「いま出自は問わぬと言ったが――見れば、そなたは物腰からして貴顕の家の出ではないか?我らの生活に耐えられるとは思えないが」

「全て承知のうえです」

「では決まったな」

 宝余の顔が明るくなり、忠賢は座員のほうを振り返った。

「そういうことだ、この女は今から我が班に加わる。みな面倒を見てやるがよい」


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