第2話 白龍の琴
涼国と烏翠国の国界、すなわち玉衛関を越えて北東に五十華里ばかりいくと、涼魏大道は桟道となり、さらに烏翠の国都である瑞慶府へと伸びていく。桟道は、俗に「不見峡、不来谷」――見エザルノ峡、来タラザルノ谷と呼ばれる峡谷の中腹に穿たれ、息苦しいほど萌え出た緑には、ちらほらと藤の紫が混じっている。遠くには五山もおぼろな姿を見せ、山河を覆う天は硬く澄んで青い。
とはいえ、この峡谷を通る者で景色をめでる余裕をもつ者はまずいないだろう。古い桟道はところどころ木材が崩れ落ち、そうでなくても道の上は不安定で滑りやすい。いまもそこを、蟻のような行列がのろのろと這っているところであった。
彼等は荷駄の列を作り、黙々と歩を進めていた。一行は総勢百人ばかり、列の真ん中に輿が三つ、周りを徒歩や騎馬の群れにとり囲まれ、さらにその前後はさまざまな大きさや重さの荷によって占められる。三つの輿のうち、真ん中の一番大きなそれは黒漆の柱に白い天蓋、五色の組みひもを四方から下げ、前には紫の錦で縁取りした簾をかけており、ひとめで貴人が乗っていることが知られた。
そして、やはりこの一行のなかでも、他の旅人と同様、渓谷の眺めに眼をとめる者はいない。彼らが注意を払うべきは絶景ではなく荷駄であり、道は急な角度を描いて何度も折れ曲がり、驢馬や荷車をひくには大変な苦労を強いていたからである。道の下は垂直な崖となっており、陽の光がはるか下の蔡河を反射し、銀色の蛇のように見せていた。
「あっ…」
荷車のひとつが急な曲がり角に差し掛かったとき、それは起こった。
ふいにその荷車が角を曲がり損ねて傾いたのである。車輪のひとつは道からはみだしそうになっている。と思うと、積んでいた箱の留め金が緩んでいたとみえ、蓋がぱくりと開いた。荷を担当していた若い下吏が蒼白になって蓋を閉めようとしたが、さらに漆塗りの箱は平衡を失い、中から薄緑の錦の袋がすべり出た。大人が両腕を広げたくらいの長さの包みで、口を縛っていた濃緑の絹紐が荷車の車輪にひっかかり、袋は口を下にむけ、かろうじて止まった。すぐ後ろの荷車が前の車の後輪をかすめてとまる。
衝突は何とか回避されたものの、後ろの車から罵り声が上がった。引っかかった車を担当する下吏は舌打ちをし、早く紐をほどこうと荷に手をかける。そのとき、さかさまになっていた袋の口がふいに開いて、中身が見えた。
琴であった。
黒い漆塗りの胴を持ち、面に龍の白玉の象嵌をほどこした、見事な琴。それが一瞬にして袋から飛び出し、掴もうとする役人の手を一蹴し、あっと思うまもなく崖を垂直に落下していく。下吏の網膜には、紅玉でできた龍の眼が焼きついた。そして琴は幾度か崖に体当たりしながら河に吸い込まれ、ほどなく小さな水しぶきを上げるのが見えた。琴を逃がした男は、額に汗をにじませ、崖の淵で手をのばしたまま硬直している。
周りにいた数人の男が自分の荷を放り出し、傾いた荷の周りに集まってきた。そのうちの一人が男に近づき、手に縄をかけ、最後尾へと引き立てていった。さらに別の若い男は列の前方へ向けて走り出し、最も立派な輿に追いついた。輿が止まると、彼はその真正面に回って膝をついた。彼が身につけている黒い官服、その深い紺色の肩掛けは高位の文官であることを示している。
「公主にご報告申し上げます。先ほど荷駄の列にて大事が起こりました。琴が一面、荷崩れにより河に落下してございます。もはやとりかえす術もなく、恐れ多くも御物を失い、お詫びもしようもございませぬ。処分は瑞慶府についてのち、王のご判断を仰ぐことになりますれば、どうかお怒りであっても、ここはいましばらくご海容願いたてまつりたく、伏してお願い申し上げます」
震える声が輿の中に吸い込まれていき、しばらく無言ののち、簾の向こうから声が発せられた。若い女性、というより少女の声であった。
「…持参の琴は何面かありますが――してどの琴ですか?」
その言語は男達のものと同じだったが、ややたどたどしく、その女性が異国の者であることを示していた。跪いた男は、しかじかと問いに答える。
しばらく御簾のうちは静かであったが、ふっとため息が聞こえ、再び言葉があった。さほど大きくはないが、凛とした声だった。
「…それは我が父愛用の品、この婚儀に際し私に賜った琴です。しかし、かくいう事態になればいたし方なきこと。俗に龍は水を好み、雨を呼ぶと申します。きっと蔡河の神がご覧になって、あの琴を欲しいと思われ、お取り上げになったのでしょう。であれば、私はこのことを嘉すべきであり、嘆き悲しんではなりません。この件は不問に付すことにしますが、荷を担当した役人が罰せられたりはしないでしょうね?いえ、決して罰してはなりませぬ」
「公主の御慈悲に伏して感謝申し上げ、……御意のとおりに計らいまする」
男は一礼して列に戻っていった。御簾の内はさらに静かになる。その男が列の後尾に向かうと、すぐに部下らしき男が追いかけてきた。
「麴大人、大事ありませんか?」
問われても、麹と呼ばれたその高位の文官は首をかしげたまま、直接には答えなかった。
「およそ涼のものは烏翠を嫌う、人でも物でも全て。琴もまた烏翠を嫌って水中へ逃れ去った。……これは一体どういうことになるか」
怪訝な顔をする部下に、にやりと笑いかけて上司は命じた。薄い唇が微笑の形に曲げられる。
「さて、先ほど琴を流したあの男、早々に処分せねば」
その行列の最後尾では、魂の消えるような呻きが一声上げられ、またすぐに静かになった。時をおかずして、はっきりとした水音が、やはりこれも一度だけ聞こえた。だが、ずっと前をいく貴人の乗る輿はそれも知らず、ただ五色の房をゆらゆらと揺らしている――。