第16話 凶事
翌日の夕食時、顕錬は上啓文の処理に手間取っていたため、宝余は一人で卓についた。いつものように百桃が手ずから彼女に膳を進めたが、椀の蓋を取ってふと手を止め。眉間に皺を寄せた。
「お妃、どうか今しばらくお待ちください」
椀を持ち上げ、銀の匙を中に入れ仔細に検分している。
「何かおかしなことでも?」
匙を手にした宝余は首をかしげた。
百桃は、調理を総括する女官である尚食の方を向いた。その眦は吊り上り、手はわずかに震えている。尚食の女官は蒼白となった。
「尚食、これはなんとしたこと?」
椀が尚食に突きつけられた。
「色が濃すぎるではないか?臭いも常と違う。何か調味を誤ったのではないか。おまけに匙も変色している」
小肥りのその女官はあわてて両膝を床につけ、深く叩頭した。
「それを作ったとき、私も立ち会っておりました。すでに毒見も済ませてあります」
女官長はさらに眉を上げた。
「では、もう一度この場で毒見をしてもらおうか。そなただけではなく、これを運んだ者と作った者を呼びなさい。そして、人数分の匙も」
尚食はあたふたと出て行った。宝余はその場のただならぬ雰囲気に呑まれ、身動きもならず、じっと座っていた。その場の女官もみな塑像のようだった。なかで百桃だけが動き、「ご無礼いたします」と声をかけながら、宝余の固く握られた右手をそっと開き、手中の匙を外した。そこで宝余は、初めて自分が匙を握ったままであったことに気がついた。掌はじんわりと汗で湿っている。
やがて、調理を担当した女官三人と、毒見を担当した女官二人とが連れてこられ、百桃はまず五人に跪くように命じた。
「そなた達、王妃の食膳を作り、運んだ者に相違ないな。いまこの場でもう一度この御膳を食して見よ。訳は言わぬでもわかるな?」
そう言いざま、脇の女官から匙を五本差し出させた。跪いた女官達は青ざめる者、無言の叫びを上げる者、うなだれる者など、五者五様であった。
「さっさとせぬか!でなくば、王と王妃の御前で厳しい詮議にかけるぞ」
痩身の老女とは思えぬ大喝であった。五人とも唇をかみしめ、震える手で匙を受け取る。なお逡巡して誰も椀に手をつけようとしない。宝余も息が出来ぬくらいの緊張を強いられていた。
刹那、最も右側に控えた毒見役の女官が飛び出し、鷲掴みで汁の椀をつかむと一息に飲みほした。
「あっ…」
その場の一同は揃って息を呑んだ。
汁を全て飲んでしまった女官は、放心したように椀を持つ右手をだらりと垂らし、指から滑り落ちた椀が床に当たって砕け散った。そのまま彼女は動かず、他の者も身じろぎもしない。
「ぐっ…」
やがて、女官の身に変調が起こった。みるみる顔が蒼黒くなっていく。口からは飲み込んだ汁がこぼれ出したが、それに赤い血が混じり始めた。さらに彼女は胸元をかきむしりだす。女官達が悲鳴を上げだすと、凍り付いていた部屋の空気が、一気に地獄の紅蓮に染まる。
「助けて…」
胸元が掻き毟られ、はだけた襟から覗く肌には惨たらしい傷が増えていく。白目を向き、床に崩れ落ちた女官はなおも虫のように床を這い回ったが、最後は回廊のほうによろめき出で、右手をさし伸ばしてがくりと崩れ落ちた。回廊の磚の上に、彼女の剥がれ落ちた生爪が転がっている。宝余は眼前に繰り広げられた惨劇に吐き気を催したが、百桃にそっと脇を支えられ、飛びそうになった意識が戻った。
「旗妃、いかがいたしますか」
こうなった以上は、一刻も早く事態を収拾しなければ――しかし、どうやって?汗をしとどにかいた手を余人に見られぬよう、そっと卓の下に隠す。宝余は衝撃と恐怖で回らぬ頭を、無理に回さなくてはならなかった。彼女の口から、命令が切れ切れに漏れる。
「…海星は外朝に走り、大旗に事の次第を告げなさい。百桃は後宮の全ての殿門を封鎖するとともに、女官達をみなここの中庭に集め、かつ監察の女官達を私のもとに連れてくること。皆は我が命に従い、いささかも遺漏違犯のなきように」
しかし、部屋の誰もが動こうとしない。唯一、命を受けた海星だけは出て行こうとしたが、百桃に止められた。その女官長は表情を動かさず、宝余に向き直る。
「海星が外朝に行けば、事は王宮を揺るがす大事となります。後宮の封鎖も同じこと。これが謀反と見なされれば、外朝と後宮を巻き込み王宮全体を――ひいては国を揺るがす大事にもなりかねませぬ」
宝余はきっと百桃を睨んだ。
「これが大事でないなら、何をもって大事とみなすのです?なぜこのようなことが起きたのか、徹底的に追及する必要があります。第一、私は後宮の長、王妃として全ての責任を王に負っているのです。いささかたりともおろそかにできぬこと。まさか内済で良いと考えているわけでは?」
「……」
百桃は無言となった。
――まさか!
宝余は食膳に毒が盛られていたことよりも女官達のこの態度に、後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。これだけのことが起こっていながら、なぜ手をつかねている?なぜ誰も声を上げないのか?宝余は湧き上がる怒りと疑問をどうにか押さえつけ、低い声を出した。
「そもそもこの毒が、私を殺そうとしていたかどうか――何のために盛られたのかもわかりません。しかし重要なのは、私が殺されそうになったか否かではなく、王が施政のお疲れを癒し、子孫を養い育てるべきこの後宮で、もっともそれにふさわしからぬ黒いものが使われ、そして人が死んだことです」
「お妃さま、お気持ちはわかりますが、どうか王の御戻りまでお待ちくださいませ」
「待ってどうするのです?その遺体は?このままにして王にご覧頂くのですか?」
「御意にござります」
らちのあかぬ有様に、宝余は嘆息した。自分に対する敵意や冷たさだけならまだよかったのだが、何か――とてつもなく良くないもの、恐ろしいものが、この後宮に巣食っているような気がする。
ただ、その正体が宝余にはわからない。この死んだ女官――哀れな女性――は、きっと誰かに唆されたか買収されて犯行に及んだのだ。しかし誰に?何の目的で?やはり外朝の争いが後宮に持ち込まれたと見てよいのだろうか?
「――わかりました。では後宮は外朝への門を除いて封鎖しません。王のお帰りを待って沙汰するゆえ、それまで女官長は配下の女官を監督し、持ち場の殿ごとに待機させなさい。私はこの殿から東書房に移ることにしましょう。副女官長は、王が戻られたら東書房においで下さるよう伝えなさい」
ついに宝余は溜息混じりに二度めの命を下し、一同は跪いて受諾した。