第9話 坤寧殿の主人
坤寧殿に戻ると二人の朝餉が既に用意されていた。四角い卓が二つ向い合せに配置され、米飯は供されず、麦の粉を発酵させて蒸した主食と野菜、肉、魚の軽い副食、そして玉蜀黍の汁物という簡素なものであった。
顕錬と宝余は沈黙のうちに食事を続け、ただ給仕する者達の足音だけが高い天井まで響く。
それが終わると、顕錬は涼国使副との別れの儀式を行うため外朝に出御し、宝余はといえば、昨日と同じ正装をし、坤寧殿で女性達に対する謁見に望んだ。会うのは位階を持つ女子で、今のところ側室の類はおらぬので、宝余が会うのは王族および貴族の女性と、後宮の女官となる。
正装の重さに内心辟易しながらも、宝余は宝座にじっと座り、延々と続く女性達の挨拶を受けた。敵意か恐れか緊張か、あるいは全てが入り混じっているのか、みながみな硬い表情で宝余に拝礼するなかに、昨晩介添えを務めた洞房の女性、つまり光山弦朗君の妻もいて、その優しげな微笑に少し救われた思いがした。
王族や貴族に続き、女官長である百桃も女官達を従えて挨拶に臨んだ。外見でのみ判断するのではないが、いささか気難しげで高慢そうな百桃の顔つきに、宝余の心は沈んでいきそうだった。
――可愛らしい名前の割に、一筋縄ではいかなさそうな御仁らしい。
とはいえ、宝余はこれから女官長を含め、後宮の総ての女性を律していかなければならないのである。側妃がまだ存在しないとはいえ、後宮の統御がたやすいことだとは思えない。涼の「裏切り」により怒り心頭であろう夫、異国の王妃に白眼を向ける太妃と後宮――それらが宝余の前にある現実そのものである。輿入れに随従してきた涼の者は全て使節とともに帰国してしまうため、これから宝余はただ一人、この異国の地で生き抜いていかねばならない。
しかも、それも自分の秘密を知る王がそれをどう判断して処置を下すのか、全くは彼次第なのである。両国の関係悪化を覚悟のうえで涼王に何らかの申し入れをするのか、それとも騙されたふりをし、耐えてこの事態と王妃を受け入れるのか――宝余は夫の次の手を全く計りかねていた。
長い謁見が終わったときには、中午をとうに過ぎていた。点心と正式な膳のちょうど中間のような食事が供された後、坤寧殿でさらに百桃から後宮のしきたりなどを教授されたが、さすがに宝余も疲労を覚えた。
涼国出立から緊張は緩むこともなく、加えて言葉の問題も実は大きかった。王宮では烏翠語のみならず天朝の華語も併用され、自分に接する者もまた華語を使ってはくれるものの、宝余はまだ烏翠の言葉に習熟していない。慣れない環境と言葉は、思った以上の負荷を宝余に強いた。
さらに食事のこともあった。まだ二度しか膳についていないのだが、涼の料理よりも味が濃く塩分がきつく、そして主食は米でなく小麦である。宝余は海沿いで育ったため、肉よりも魚を摂るほうが圧倒的に多かったが、烏翠は海がなく川や沼沢しかないので、副菜は肉が多い。いつかはこの食事にもなじむのだろうが、宝余には死ぬまでこの後宮で生きていく実感が、目の前の食事からもまだわかないのであった。
――そのうち全てに慣れるのでしょうけど。いえ、慣れなければ。
それらの問題はいずれ時が解決してくれるだろう、おそらくは。しかし夫との初めからすれ違った関係はどうだろうか――その答えはたやすく現れてはくれなさそうだった。