第1話
ーータプン
まるで水中のようにゆらゆら揺れて重力を感じないそれは、ずっとここに居たくなるほど心地が良いと思えた。
突然、ズシンと体が何かに引っぱられる。揺り籠から這い出て、目を開けなければと本能が訴えかけてきた。もう少しこの気持ち良さを感じていたいと思ったけれど、せり上がってくる不安が、早く起きなければと何かに急かされるようだった。
「……?」
「……っ、……ま!」
「ん……?」
「お嬢様! お目覚めになられましたか!?」
「早くっ、早く旦那様と奥様へお知らせを!」
重い瞼を押し上げ、ようやく目を開けた私の視界を光の洪水が押し寄せる。その光量の多さに、くらりと目眩がした。
体を起こそうと腹筋へ力を入れるが、怠い体は言う事を聞かずにズキリと痛んだ頭へ気取られた。少しばかり浮いたはずの体はポスンとフカフカのベッドへ逆戻りした。
こんなにふかふかのベッドで寝たのは初めて。いつもはペラペラの布団を床へ直接敷いて寝ていたはずだから違和感を感じる。
「お嬢様、まだご無理はいけません!」
彫りが深く、赤茶色の髪で琥珀色の瞳をした体の大きな女性に現実へと引き戻された。思ったよりも近くで聞こえた大きな声に萎縮してしまう。
(……オジョウサマとは私の事……?)
キョロキョロ辺りを見回したベッドから見上げる天井は凄く高いように思えた。自分は畳の部屋で寝ていたはずで、一人暮らしの部屋にはこんな十八世紀のヨーロッパにありそうなロココ調の家具なんて無かったはずだ。
見た事もない広い部屋へ寝かされて、知らない人が自分に向かって親密そうに話す様は胸の内を燻っている不安を大いに掻き立てた。
ズキンズキンと脈に合わせて痛む頭を押さようと手を持ち上げ、自分の白い小さな手に唖然とした。
たしか……確かそう。私は三十路も過ぎた成人女性だったはず。それがどうして幼児と呼ばれる年頃の手が私の意思に合わせて動いているのだろうかと疑問が浮かんだ。それこそ、バタバタ慌ただしく走ってくる音にさえも気が付かないぐらいの衝撃を受けていたのだ。
「目を覚ましたのか、ローラ!?」
「ローラちゃん、あなたの顔をちゃんと見せてちょうだい!」
「旦那様、奥様お静かに。お嬢様が驚いていますよ」
血相を抱え駆け込んできたのはやはり彫りの深い、茶色の髪に翡翠の瞳をした大きな男性と、銀色の髪で蒼い瞳のこちらも彫りの深い大きな女性だった。
唖然としていて避ける間もなく抱きつかれ、目が覚めて良かったと泣かれた事に驚き体が硬直した。
「ローラ?」
「ローラちゃん、どうしたの?」
「……だぁれ? ここはドコでしゅ、か?」
口から出たのは、舌ったらずな幼くも可愛らしい声だった。それに自分ではきちんと言葉を発したつもりだったけれど、舌がうまく回らずに噛んでしまった。こんなにも可愛らしい声ではなかったと記憶している私は更に混乱した。
それだけなら直ぐに冷静になれたかもしれない。けれど、私が二人へ放った言葉で半ば半狂乱になった女性が倒れて、声を上げ泣き出した男性が床を叩きつける音で飛び上がり、近くで見守っていた女性も涙を零し、阿鼻叫喚の地獄絵図となったこの場から早々に意識を手放したのは致し方ないと思うのだった。
* * *
次に目を覚ました時には、ふっくらしていた頰はこそげ落ち、艶のあった髪はパサパサなほど憔悴しきっていて、今にも泣き出してしまいそうな二人の姿があった。
余りにも変わり過ぎたその変貌ぶりに、私は動揺を隠せなかった。
二人は私ことフローラル・ガーベル、今年五歳になる女児の実の両親だった。目が覚めた後は熱を出して五日も寝込んでいたと教えてもらった時にも、やはり戸惑いしかなかった。
(……そんな。じゃぁ、私は……この私はダレ?)
思い出せない申し訳なさと、幸福な家族を壊してしまったのかもしれないという思いと。三十歳までの記憶がきちんとあって、未だ状況が分からずにいる自身の不甲斐なさに涙がこぼれた。
高ぶる感情のまま勝手にポロポロ溢れる涙が止まらなくなって、二人へ「ごめんなさい」と謝り続けた。
「ローラ……」
「ローラちゃん、もう大丈夫ですからね。お父さまとお母さまがずっとついていますよ」
「……っ……ひっく……うわぁん」
声を上げ泣き続ける私を見兼ねた母親は、頭を梳きながらゆっくり撫でて優しい表情を浮かべながら見下ろしている。与えられる温もりに安堵した私は二人が肉親であると、突然ストンと収まった。
また、不安がる私が寝付くまでお母さまは色々な話をしてくれた。それは失った記憶を取り戻そうとしているようであり、記憶がなくても我が子を受け入れようとしているようでもあった。