裂け目の風雷編 9
「【鉄槌】オオオォッ!!」
バンくんの拳が灰かぶりの宴の顔面に飛び込む。
この世のものとは思えないほど青白く澄んだ顔を刹那、迫り来る拳に向けた金髪の少女は回避らしい回避もせず、しかし宙を踊る紙きれのようにひらりと攻撃を避ける。
流れるようなその動きに、まるでバンくんの放った拳で生まれた僅かな風圧によって体が舞ったかのような錯覚を受ける。
『アナタ、ダレ?』
優雅に舞い、踊る少女の手足は細く脆そうだ。すぐにでも倒れてしまいそうなくらい不安定に揺れながら、けれど、次々に襲い掛かるバンくんの攻撃を全て躱す。焦点の合ってなさそうな瞳で世界を見つめる灰かぶりのお姫様は危なげに、けれど全ての打撃を確実にその身に届かせない。
バンくんは付かず離れず、程よい距離を保ったまま、けど必ずアマネちゃんと灰かぶりの宴に挟まれる位置に入る。一直線上にいることで、向こうの攻撃を誘導でもしようとしてるのかしら。
「【灰降らし】封じられたくらいじゃ、屁でもねぇってか」
「あんたの攻撃には期待してないっつの。とにかくあいつの意識逸らす!」
「わかってるって!」
引き続きバンくんが赤紫色の薄い光を拳に纏い、渾身の鉄槌を振るう。
あたしが【月の光】で灰かぶりお嬢様の魔法【灰降らし】を吸収したおかげで、今、この空間には心の底にずしんと圧し掛かるような冷たさはない。
目測直系百メートルちょいくらいの半円ドーム、その中心に構える灰かぶりの宴は再び歌い始める。思わずその声に聞き惚れてしまいそうになるけど、集中集中。
な、の、に、どうしてかしら。なんか、ずっと、歌声が耳から離れてくれないな……。
あーもぅ、集中できない!
「って、なにを馬鹿正直にあいつの声聞いてんのよ!?」
「うえぇっ!? 理不尽に叩かないでよぉっ!?」
っと、おおう?
アマネちゃんに背中をびしっ、ばしっと叩かれた途端に声が聞こえなくなった。聞こえなくっていうか、なんだろ、変に頭に残らなくなった。
「あいつの魔法に引っかかってる場合じゃないっての! さっさと髪、広げなさいよ!」
歌すら魔法だというアマネちゃんのご指摘。
そんなの注意するなって方が無理じゃないかしら。このまま戦闘を続ける上で大丈夫かなぁ。
少なくともあたし、自信ない。
なにか問題がある度にアマネちゃんが檄を飛ばしてくれるだろうと信じて、アマネちゃんの言葉には答えず、行動で応える。
「行こう、【精霊の杖】」
あたし、手にした杖に力を込める。
稲妻のようにギザギザとした形状の、大事な杖。あたしの世界を広げてくれる杖。あたし自身を広げてくれる杖。
さぁ、どこまでも広げて。
いつものように、あたしは願う。
どこまでも届く、あたし自身を。
「【杖罪】」
舞い上がる。
白銀の煌きが灰色の世界を貫くように迸る。
壁を這い、疾走するあたしの髪が束になり、質量の奔流となって灰かぶりの宴の頭上を捉える。
ひらりと避ける、なんてことは許さない大きさまで髪を編み込んで、即座に叩きつける。
「っとぉ!?」
「味方まで巻き込む勢いって、加減はしなさいよ!」
加減なんてしてられない、わけじゃないけど。バンくんのことは信じているし、アマネちゃんのことも信じているのだ。
信じているから巻き込んでいいわけじゃないだろうけどね。
うん、でも、ほら、なんとなく戦闘って手加減してる余裕がないことの方が多いと思うし。
このくらいやってようやくダメージが……っと、あれ、おぉ?
「二人とも気をつけてっ!!」
あたしが違和感を言葉にした直後、質量の塊となったあたしの髪が弾け飛ぶ。大切な大切なあたしの髪の毛、無残にも地面に散ってしまう。
あぁ、ごめんね、あたしの髪。
心の中で謝って、その姿を確認する。
当然の如く無傷で立つ灰かぶりのお姫様は、いまだぼんやりとしたまま、その場に立ち尽くしていた。ううん、違うな。一歩たりとも動くことなく、今のあたしの力を受けていたみたいだ。
ついには姫、自分の荒れた髪を手櫛ですき始めた。
好き放題伸ばして編んで、挙句中途からばっさり断裁されて塵と化しているあたしの髪の方がよっぽどケアが必要だと思うのに。
なんて、余裕をこいていたあたし、突如として湧き上がった殺意に背筋が凍り。凍った一瞬の間に、後衛を務めていたはずのあたしの背後に気配を感じて振り返る。
『……カエ、シ、テ?』
「え」
目に入ったのは、声が聞こえたのは、確かに先刻まで数メートルの先にいたはずの灰かぶりの宴で。
その彼女が、あたしに向けて手を突き刺す。
文字通りの意味で。
それはあたしの腹部を貫く。
あたしの中の何かを探るように蠢いて、引き抜く。
「ぅ、ぁ」
声になっていない声が息と共に漏れ出す。
視界が傾く、眩む。
薄暗いはずの部屋が途端にフラッシュを始める。
重力が嵐のごとく縦横無尽に走り回って、あたしの平衡感覚は麻痺してしまう。
近づく床。けど、体が反応してくれない。
地面に体がぶつかる。ぶつかってから数秒後に衝撃が体に伝わる感覚でようやくぶつかったことが、なんとなく、わかる。
脳の処理がレンズに映り流れる視覚に追いつかない。追いついてくれない。
倒れてうずくまるあたし。
白光とモザイクに汚染されてゆく視界の端に、灰色の滴りを確認する。
「――っ!!」
「――っ!!」
声が聞こえない。
けど、うん、わかるな。
アマネちゃんもバンくんも、あたしのこと心配してくれてるんだ。
でもあたしのこと気遣ってる隙を狙われちゃうもんね。いいんだよ、あたしのことは放っておいて。
大丈夫、ちゃんとすぐに戦う姿勢に戻ってくれてる。
きっとまだあたしのすぐ側にいるはずの灰かぶりの宴に向けて、アマネちゃんは日本刀を、バンくんは拳を構えてる、ような気がする。
あっはは、申し訳ないなぁ……あたし、まーったく何にもできないままだ。
でも、『カエシテ』って言われても、そうだね、そもそもあたしの魔法じゃないおかげか、吸収していた【灰降らし】の魔法を取り返されることはなかったみたい。良かった。具体的にどんな魔法なのかはわかってないんだけど、アマネちゃんが最優先で止めたがった魔法だからたぶん、危険なことで有名なんだと思う。それだけでも阻止できてるなら、いっか。
「ごめん、ね」
言葉にしようと思ったそれは、やっぱりヒューって音にしかならなかった。
その言葉をあたしの中で言い終えると、ようやく痛覚が表層に浮かび上がってきて、あたしの体が自分では制御が効かないくらい小刻みに震え始める。人生で初めて経験する度合いの痙攣に、さすがに苦笑する余裕もない。
具体的な場所、ってより、お腹全体が熱くて、痛みはどこからともなく湧き上がる。
そういえばあたし、大怪我なんてしたことなかったから、こんな激痛を感じるのは生まれて初めてかもしれない。
どうしようもない激痛に、否応なく涙も零れる。
うずくまるあたし、きっとすごく不細工な顔だろうなぁ。
あんまりにも痛すぎて、でも脳が痛みを遮断するほどじゃないみたいで、そのせいであたし、失神することもできない。こんな状態が続くくらいならいっそ眠ってしまいたいんだけど……そのときは永遠に眠ってしまうかもしれないな。
それは嫌ね。
あたし、全然引かない痛みを耐えることもできずに歯を食いしばって、せめて気を紛らわせるために必死でアマネちゃんとバンくんのことを見て、遠くなってしまいそうな思考を止めない。
あーあぁ……。
せっかくこんな世界に来てるのに、あたし自身の弱さをこんなにも痛感しちゃうなんてな。
わかってたはずなのにね。
人の体は所詮、そういう風にはできてないんだよね。
この、魔法が当たり前に存在する世界の人の体が全くあたし達とおんなじなのか、それともだいぶ違う点があるのかどうか、詳しいことは勿論わかんないんだけど。
でもあたしの体は、強くない。脆い。弱い。
ちょっと杖の魔法を使えるようになったからって、あたし、勘違いをしていたのかもね。
あたしが魔法を使えるわけじゃないのに。あたしが強くなったわけじゃないのに。
いくら魔法をお借りできるご身分になったところで、さ。あたしは包丁の一突きで致命傷を負うし、鉄砲なんて持ち出されたら問答無用で死んでしまうし、僅か五メートルの高さからの落下だって打ち所が悪ければ平気で死んじゃう。今だってそうだ。感覚としてはちょっと緩んできたかもしれない脂肪を抉られた程度の攻撃だってのに、このまま処置がなければあっという間に死んじゃうんだろうな。
いかにあたしが過ごしてきた地球の環境が恵まれていて、いかにあたしが過ごしてきた社会の情勢が恵まれているか、知らなかったよね。ううん、違うな。知っていたんだよね。知ってて、知らなかったんだ。
この世界が恵まれてないわけじゃないの。ただ、魔法にあたしが追いついてない。
魔法がどんな殺傷能力を持つかは人によるし、シチュエーションによる。それはまったく、例えばナイフだとか車なんかは元々何か生活の中の行動を便利にするためのもののはずで。例えば拳銃や核兵器はきっと、人を殺すための道具なんだろう。拳銃や核兵器の起源となった技術が人殺しのためのものかどうかまであたしは知らないけどね。
魔法の歴史も知らないけど、きっと生活の役に立つ魔法もあれば何かの命を奪うための魔法もある。やっぱり魔法にも発展があるのなら、最初は誰かの役に立つための魔法が開発されて、いつの間にか殺傷性を有してしまったのかもしれないね。
ともあれあたしの体は、基本中の基本だって言われる【炎】一つで焼け焦げてしまうくらいなの。
この世に生まれたこと自体が奇跡で神秘だと言うのなら、どうしてあたしはこんなに弱く生まれてしまったんだろう。或いは、どうして人は自ら生み出すものに、自らが住まう環境に適応しきれていないんだろう。
だってさ、おかしいじゃない。
高い所から落ちれば人は死ぬ。誰だって知ってるよ。なら高層ビルはどうして建つんだろう。
人はどうして空を夢見るんだろう。
人はどうして宇宙を夢見るんだろう。
到達したところで、なんにもできやしないのに。
到達したって、そこには世界があるだけなのに。
アマネちゃんから覇気が溢れ出す。
凛としたアマネちゃんの表情……まではちょっと見えないんだけど、その立ち姿は勇敢な戦士の佇まいを想起させる格好良さ。
どこか高潔で上品なウェインリーさんとはまた違う、彼女の物語がそこにある強さを感じる。
そのアマネちゃんが手にする刀が、その刃の輪郭が、不意に曖昧になる。日中のアスファルトを覆う陽炎のように揺らめいて、ごく僅かな空間だけが湾曲する。
アマネちゃんがどんな魔法を使ったのかはわからないけれど、【風】が得意なアマネちゃんのことなので、きっとまた【風】と、そうだな、【熱】の二重魔法とかじゃないかな。ひょっとしたら【陽炎】みたいな魔法があるかもしれないけどね。や、さすがにそんな使いどころが微妙な魔法はないかも。
刀を流麗に一線、水平に振るったアマネちゃん。灰かぶりの宴までの距離はおよそ刀の攻撃範囲よりも離れていたけれど、一線の斬撃は衝撃波となって、形ある空気の刃は主の元を離れて宙を駆け抜け、灰かぶりのお姫様の胴体を切り裂き、威力の衰えぬまま、壁に大きな傷をつける。
一瞬お腹から上下に分断されたはずの灰かぶりのお姫様、けれど無表情のままグリン、と首を傾げてアマネちゃんを見る。
『ナニ、スル、ノ?』
たぶん、そう言った。
言ってまた、あたしを襲ったときのようにアマネちゃんの背後に瞬間移動する。あれも魔法なのかしら。
バンくんが叫んで、振り向くことすらせずにアマネちゃん、全方位に烈風を放出する。人形のように無残な姿で地面に転がる灰かぶりのお姫様。その上半身を二本の腕で引き摺り、下半身を求めるように蠢く。不気味な光景なんだろうけど、ものの数秒の内に切断された半身がくっついて、再び立ち上がったので不気味よりもあたしの中で不思議が勝った。
距離をとったアマネちゃんに、バンくんが何かを話しかける。作戦だろうか。うまくいくといいけど。
ただ、何か作戦が思いついたところで、どうなのかしら。
体を真っ二つにされても問題なく復活してしまうような化け物相手に、今以上何が出来るって言うんだろう。そもそも、あれを倒すことは物理的に、魔法的に可能なんだろうか。
とてつもなく脅威だった時期があって、殲滅作戦が決行されたんなら、確かに倒すことは、うん、できるのかもしれない。それだって、選りすぐりの猛者を連れてようやくってニュアンスみたいだし、今ある戦力、つまりアマネちゃんの魔法とバンくんの魔法とで倒しきることが出来るのかどうかは不明だ。
ついでにあたしは、ただでさえ足手まといだったのが、事ここに来て地に伏している。
あたしはどうだっていいけれど、せめてアマネちゃんとバンくんが無事にこの場所を出ることができたらいいなって思う。
そのためならあたし、最後の力を振り絞ってでも魔法を使ってやる。
「ナニスルって、こっちの台詞だっての!」
アマネちゃん、悪態をついて、けれどしっかりその動きを見定める。バンくんの腕をぐいと引っ張ってこけさせると、それまでバンくんがいた場所を灰かぶりの宴の腕が通過する。
反応が一瞬遅れていればバンくんもまた、あたしみたいなダメージを負ってしまったかもしれない。
『深淵』レベルの絶望的な精霊を相手に一歩も引かないアマネちゃん、ひょっとしてもう十分にその実力があるんじゃないかしら。
っていうか、どうしてこれまで『風雷』の認定試験を受けなかったのか、そこから聞いてみたいな。聞く機会があれば、なんだけど。
「やっぱ長いこと持つわけねぇか……【水】!」
「ギリギリなのはもう仕方ない! 行くわよ、【風】っと、【幻影】」
天井から僅かばかりの水が滴る。あたしの頬にも触れて、いいのか悪いのかわからないけれど、熱くなりすぎた体が程よく冷えていく。
走るアマネちゃんの刀がまたぼんやりと曖昧に溶けていく。さっきの魔法だ。
風を纏った刀身はかまいたちのごとく、触れるもの全てを裂く堅さと密度を実現する。絶対的な鋭さを得た刀は、けれど空間の中の幻として消える。
避けようにも、目に見えないものを追うことは難しく、その得物の使い方や間合いをよく知らなければ感覚で避け続けることはできないはず。
音もなく瞬間移動を行う灰かぶりのお姫様。それを縦横無尽に振るう刀身で、決して逃がさないアマネちゃん。
その切っ先が掠り、それだけで両の腕を斬り落とす。
またしても再生するかもしれない腕の断端に、バンくんが生み出した水が付着する。と、同時にアマネちゃんが【氷】を発動、すぐさまその部位を氷結させる。その原理は魔法よりも、あたしのよく知る物理に従っているような気がしたけれど、どうやら何もない空間から氷を生み出すよりも、媒体となる水が先にあったほうが凍らせるまでの時間が早いみたい。
凍ったことを確認して、まだすぐにアマネちゃんは【風】と【幻影】に切り替える。そのアマネちゃんの額に、およそ尋常じゃない汗が見える。たぶん二重魔法はあたしが思っている以上に負荷が大きいのだろうし、今【氷】をわざわざ切り替えたことから、さすがに三つの魔法を同時に発動することは難しいんだろう。
それでも気丈に刀を構えて、すぐに次の一歩を大きく踏み込んでいく。あくまで補佐役しかできないバンくんと違い、アマネちゃんが撃破しなければこの戦闘に終わりが来ないことを理解しているが故に、自分を奮い立たせているのかもしれない。
「次、行くわよ!」
「おう!」
あたしは、なにをやってるんだろうな。
ほんとに。
ただ二人の姿を見ることしかできない自分の体を呪いつつ、あたしは自分の命が徐々に体から抜け出る感覚が、なんだかとっても心地良いな、なんて。
どうでもいいことを考えた。




