3-2
「はぁ~」
屋上までの数段の階段。いつも昇っていて慣れているはずなのだが、今日に限ってはキツく感じられた。
しつこすぎるわ。
あれから結局チャイムがなるまで追いかけられ続け、五限の授業に間に合わなかった。そのせいで教師にこっぴどく叱られてしまったのは言うまでもない。
「歳かしら?」
やっとのことで屋上に辿り着いた流行を出迎えたのはそんな辛辣な言葉であった。
「五月蠅い」
重い身体を引き摺りながらようやっと手摺に腰を預けると、そうぼやく。
「鬼ごっこの方は楽しかったかしら?」
いえ、狩人と獲物と言った方がいいかしら、と訂正してくる。
「山を駆けるウサギじゃないわ」
「ふん、どうかしらね」
鼻を鳴らして都は疑いの視線を送ってくる。
「なんだよ、妙に突っかかるな」
「突っかかる? 何のことかしら?」
「むきになっているのかい?」
疲労でささくれていた気持ちが徐々に直ってきて、冷静になってきた。
こんこん。
と、ここで今までこの場所では聞いたことのない、扉を叩く音が聞こえた。
都を攻められるいいところで誰だ。
と、あくどいことを考えていると扉がゆっくりと開いた。
「失礼します」
と、そこから現れたのはほんの数時間前に見た女の子ではなく、先輩の戌居ミミであった。今日の昼に突然なったばかりの得体の知れぬ男子生徒の言葉だというのに来てくれたようだ。
「あっ、どうもです」
ゆったりと腰かけていた流行は顔が見えると、少し前のめりになりながら挨拶する。しかし、どうにもミミの姿が先輩には見えないので、中腰になって手を軽く挙げるような格好になってしまった。簡単に言えば、小さい子に対して同じ目線になって声をかけるような姿勢だ。腰を落としてしまったのはもう本能的な行動なのでしょうがないと思って欲しいが、どうにか手を振るのだけは理性で止めた。軽く手を挙げた挨拶になってしまったのはその名残だ。
「あっ、こちらこそどうもです」
そう言うと、ミミは慣れぬ感じでぺこりと頭を下げる。それはまるでインテリアである水飲み鳥のようであった。ジクロロメタンが反応したのかミミの頭はすぐに上がる。可愛い。
「なんだよ」
言っておくが、ミミに対して言った訳ではない。刺すような視線を送って
くる都に対して言ったのである。
「別に」
どこか聞いたことのあるような台詞を返してくる。都さまですか。わからなければ流してもらいたい。
「えっえっ?」
「いやいや違う、ますよ」
流行の先程の発言を聞いて、自分が言われたのではないかと勘違いしたミミがおろおろし始めたので、慌てて否定する。あと、もう説明しなくともいい気がするが、言葉が変になってしまったのはまだ本能がミミのことを先輩だと理解できていないからだ。
「あれに言ったんだ、すよ」
一応、説明するが……いや、もういいか。
「あれとは何なのかしら?」
「ならそれか?」
「それ。これごときが私のことをそれと言うのね」
「これって何だよ」
「これはこれ。三雲流行という形をしたこれでしょ? わからないの? まぁ、しょうがないわね、これだから」
「おい、それ」
「なによ、これ」
「それ」
「これ」
「それ!」「これ!」「それ!」「これ!」…………
餅つきか何かの掛け声のような雰囲気で流行と都は言い続ける。傍目から見るとあうんの呼吸にしか思えない。聞いているうちにあまりに単調で下手をしたら聞いている赤ちゃんなど寝てしまうのではないかと思われるほどだ。いや、それは言い過ぎか。
「あの……」
「それ」
「すいません……」
「これ」
「い、いいですか!?」
「なんだ、しょうか?」
「なにか?」
「はい!? ……はい!?」
ミミは勇気を振り絞って言ったというのに、この展開に何が何だかわからないといった風であった。声が、元から高いが、裏返ってさらにキーが高くなった。急に二人の掛け合いが終わったので驚いてしまったのかもしれない。流行としても都の声の調子が適当な感じになってきたのでそろそろ飽きてきたのだと感じたし、自分も言うのが疲れてきたのでちょうどよかった。ミミの勇気に感謝。
「すいません。驚かせちゃったようで」
おろおろとするミミを見ると、罪悪感がハンパなく出てきてしまったので素直に謝る。
「う、うん……」
「それでこの小学――」
「うぉちあいさん!」
都の不用意な発言に流行は慌ててその発言を遮る。危ない。でも、やっぱりミミを最初に見ればそう思わざるおえないということだ。
「わ、私……」
都の、次元的にも精神的にも見下した視線が突き刺さり、ミミはもう泣き出しそうになってしまっていた。
ヤバい。これはヤバい。
どうにか慰めようと何か対策を考えようとした瞬間であった。
「やはりここにいましたわね!」
ドン! と大きな音を立てて扉が開いたかと思うと現れたのは伶子であった。
また間の悪いったらありゃしない。
「あら? 何かしらこの小学生は?」
「がーん」
一人の少女の心が折れる音が青い空の下で響き渡った気がした。
「戌居さーーーーん!?」
「あわわわ……」
ショックでミミはどこか異なる世界へと旅立ってしまったようだ。
それからミミがしっかりとした言葉を喋ることができたのは五分ほどの時間を要した。その間、流行は「大丈夫ですよ~」「戌居ちゃ、さんはれっきとした女性ですよ~」「こんな人たちの言葉なんて信じちゃだめですよ~」などなど色々とフォローする羽目になってしまった。
「という訳でこの戌居ミミちゃ、さんは先輩だからね」
フォローの後は説明であった。都と伶子に対して、出会いと学年を伝えた。なぜ出会いも伝えなければならなかったかと言うと、両者になぜこんな子を知っているのか説明しなさいとどこか疑いの目で言われたからだ。流行からはまるで性犯罪者を見るかのような視線と感じた。説明の間、当の本人であるミミは「うんうん」と流行が話す一文一文に頷きを返してくれた。
「これでいいよね……いいですよね?」
「うん! ありがと!」
満足そうにミミは大きく頷く。
単純……いや、素直だ!
フォローのしがいがあったというものだ。これが都だったら「御苦労さま」ぐらいでもう終わりだろう。感謝を言われただけでも嬉しいというのにミミは「何かあったかな?」と制服のポケットをがさごそとしている。何かお礼でもしたいのだろうか。
「ごめんなさい……」
何もなかったようだ。また今にも泣きそうな表情に戻ってしまっていた。
「いえいえ、大丈夫だ、すよ」
ふりふりと手を振って宥める。また泣かれては困る。それになぜか他の二人がなに女の子を泣かそうとしているの、的な雰囲気でこちらを睨んでくる。自分たちのことなど棚に上げていい気なものだ。
「それでどういうことかしら?」
都がタイミングを見計らったかのようにそう言ってきた。「えぇ、何事かしら?」とそれに伶子も乗ってくる。当初の目的を忘れてしまっているようだ。流行としてはその方が助かる。
「それでなにか困ってることがあるのかな、ですか、戌居さん?」
改めて尋ねる。昼休みに会った時は確か何か困っているかのようであったはずだ。
「うん……でも、その前に」
「ん?」
「む、無理して敬語使わなくてもいいよ」
「えっ? いやいやそれは無理だ、ですよ。一応は先輩だ、すから」
一応なんだ、とがくりと肩を落とすミミ。思わずというか無意識にそう言
ってしまった。「すいまぜん」と申し訳なさそうな表情を浮かべて謝る。
「それでどうして?」
「うん。だって、なんだか言葉がおかしいもん。それだと、えっと……お名前は?」
「あぁ、流行です、三雲流行です。すいません、ずっと名乗らずに」
「いえいえ、そんな大丈夫だよぉ。流行君? がその、喋るのが大変そうだから」
流行君……
舌っ足らずの口調で名前、それも下の名前を呼ばれるとは。なんて甘美で妖艶な響きなのであろうか。そして、そこに入っているミミの優しさ。あ
ぁ、可愛い。
「三雲君」
「流行!」
都と伶子が同時に言う。両者とも流行の咽喉元に刃を突き付けるかのようであったが、特に都の方が静かな分、鋭さがあり、伶子が斬馬刀のように叩きつけてくる感じであったが、都の方は洗練された日本刀のようであった。
何だか最近、当たりが強い気がするのはなぜだろうか。
その理由を考えようとしたが、探るような視線でじっと見てくるミミを見て、その件は後回しにすることにした。
「でも、悪いよ、ですよ」
「ほらぁ」
と、朗らかに笑う。
「いいじゃないの、彼女が言うのだから」
そこに茶々を入れてきたのは都。
いや、落合さんが決めることじゃないからね!?
「そうね。ミミちゃんさんがそう言うのだからわたくしも許可致しますわ」
上から目線は伶子。もう既に伶子自身はミミを先輩だと思っていないようだ。そして、先輩であるミミに対するタメ口に伶子の許認可を必要とはしていない。何省だろうか。宮内院省か、あるいは宮内院庁か。いや、それ以前に例の省庁とは全く関連性がないのでどうでもいい。そんなことより必要なのは誰かしらの許認可ではなく、相手の広い心とそれを実践できるかどうかの己の心持ち次第である。
「みんなも言ってるから」
関係ない二人の意見もしっかりと受け入れる感じ……これこそ広い心の持ち主と言って過言ではないだろう。あとは流行の心持ち次第。
いやぁ~どうかなぁ~。
「無理だよぉ~、ミミちゃん」
流行の心に申し訳ない程度に建てられていた常識の壁が脆くも崩れ去った時であった。ガラガラと盛大な効果音すら必要としない、風化したと言った方が合っているような瓦解シーンであろう。盛り上がりもしない。
「う、うん」
ミミも許可したとはいえ、いきなりすぎたのか現状をうまく理解できていないようだった。その後ろでは「本当にやったわね」「驚いたわ。やはりわたくしの執事に適任ですわ」と両者各々の反応を見せている。焚きつけておいて本当は冗談でしたみたいな雰囲気だけはやめてほしい。それに伶子の発言の後半は聞かなかったことにする。
「えぇ~!?」
みんなに罠にかけられたような気分である。ミミと伶子はともかく都は完全にハメようとしていたのはわかっている。絶対こうなることを予期していたはずだ。
「でも、もういいかな。普通に話してって言ったのは私だし。どうせみんなちゃん付けで呼んでくるし。だから慣れてるし」
イジているような雰囲気は感じられるのだが、どうにも可愛く見えてしまうからフォローをしようとは思いたくなくなる。
「ん~、そっかぁ~」
ミミの拗ねた顔を眺めながら心の声が漏れる。もう常識なんて関係ない。誰か有名人がCMで言っていたが、常識なんてぶっ飛ばせ、だ。
「うん! いいよ」
自棄というべきか。もうどうにでもなれといった感じで笑顔を見せるミミ。
「うんうん」
どこか胸のつっかえが取れたような気がした。これが心の解放というのだろうか。清々しい。
「頭のネジでも取れたようね。元からの阿呆面がさらに酷くなっているわね」
「五月蠅いぞ」
「あら、全部が全部取れた訳ではないのね」
「まず元からネジなんてないからな。フランケンシュタインの造った人造人間じゃあるまいし」
「少しはまともなネジが残っていたようね」
人造人間の名がフランケンシュタインじゃないとわかるぐらいには、と都
は小馬鹿にしたような含み笑いを漏らす。
「そんなの常識――」
「えっ!? そうなの? 頭にネジが刺さっちゃってるのがフランケンシュタインじゃないの?」
じゃないな。
「あら、戌居先輩は知らなかったようね」
笑いを堪えた都がこちらを見てくる。
「実際の本を見たことない人はわからないだろ。大体、世間的には人造人間=フランケンシュタインていう構造が出来上がっている雰囲気は否めないし」
常識なんてぶっ飛ばせだ。
「そうかもしれないわね。でも、戌居先輩は読んでいる可能性もある上に、世間的と言うけれどそれはあなたの私的な目線で見ているだけで実はそうでないかもしれないわよ?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないだろ」
「またあなたお得意の屁理屈ね」
「じゃんじゃん捏ねてあげますよ」
「ちょっといいかしら」
いつものように言い合いがヒートアップし始めたところに冷や水がかけら
れた。
「何でしょうか宮内院さん?」
「水を差すのが好きなようね」
「また先程と同じようなことをしてどういうことかしら?」
御主人を無視して、と伶子はふくれっ面をしている。「それにミミちゃんさんがまた困っていらっしゃるわ」とその表情のまま視線だけを動かしてミミの方を見る。
「あわわわわ……」
あからさまな慌てようにどこか微笑ましい気分になってしまうが、このままではかわいそうなので「ミミちゃん大丈夫?」と声をかける。
「う、うん、たぶん大丈夫」
ポンポンと頭を叩くその下ではミミは心を落ち着かせようと深呼吸をしていた。巷ではこのような行為はセクハラに値するというが、決してやましい気持ちでやった訳ではない。そう、ミミを落ち着かせるためにはこうやった方がよいと判断したからだ。
「セクハラね」
「セクハラのようね」
二人の女性からそんなことを言われても断じてそういう訳ではないので大丈夫だ。うん、大丈夫。たぶん大丈夫。
「そ、それよりもさ。ミミちゃん何か相談したいことがあったんじゃないの?」
話を切り替えるために、というのはおかしいが、ミミが来た理由を聞かなくては可哀そうでしょうがない。というより長々とうちらのノリに巻き込んでしまって申し訳なさすぎる。
何か聞いて欲しいことがあるなら屋上に来てと言ったのは自分だし。
「逃げかしら」
「なんとでも言えばいいだろ」
ふん、と鼻を鳴らす流行。
「まぁ、この二人のことは気にしないで話していよ。というかこの二人がいるのが嫌なら追い出すけど?」
二人のキツい視線を全身に浴びたが、気を張ってどうにか耐えた。
「ううん、いいよ」
やっぱり心が広いというか何というか。「当然ね」「なんで私が先にいたのにどこかに行かないといけないのかしら」などとぎゃあぎゃあ五月蠅いどこかの誰かさんたちとは違う。優しさから出来ているよ。
「そしたら本題に入ることにするけど――」
ぱちん、と指を鳴らす。安い芝居だが、これの方が次の話題に移りやすい。まただらだらと違う話がこの場を占領してしまう前に方向転換だ。
「確か昼の時は劇の主役をやるっていうところまで聞いたけど」
「うん」
「なにが嫌なの?」
ストレートに聞いてみる。
劇の主役である。幼稚園や保育園のお遊戯会でもそれは重要なポジションとなり、昨今では何人も主役が並び立つなどの状況になっているとかいないとか。大人の世界でだって舞台に立つからには主役を絶対勝ち取りたいというものだ。
目立つのが嫌なのか。
考えてみれば思春期真っただ中。日本の学生たちは他人との同一性を求める年頃である。一人だけ浮くというのはありえない。劇の主役となると主人公であるのでスポットライトだけでなく、人の視線も独り占めだ。そういった状況に陥り、他の人から「あの子はあんなに目立っていいわね」「あんなに笑顔を振りまいてなんて厭らしい」などの陰口をたたかれ、グループの輪から外れるのが嫌なのかもしれない。そんな昼ドラ展開はないか。
「うんうん」
「えっと……どうしてまだ答えてないのに納得しているの?」
自ら出した勝手な結論に納得していたらミミが困ったようにそう聞いてきた。
「彼は少し頭がおかしいのよ」
すかさず都がその答えをミミに伝える。
「いやいや、ちょっと。頭がおかしいんじゃなくてミミちゃんの思っていることを先読みしただけです!」
まさに超能力。超人なのかエスパーなのか。
「あら、ボストンバッグから飛び出してくるのかしら?」
「そっちのエスパーじゃないわ!?」
「流行そのようなこと出来るのね……」
「いやいや、宮内院さん! 頑張れば出来るかもしれないですけど、そういうわけではないですよ!?」
「ボストンバッグから……見てみたいなぁ……」
「ミミちゃんも想像しないで!?」
都一人でも面倒だというのにそこに伶子とミミが加わり、三人も相手するのは結構大変なものである。このままではまた話が逸れて無駄話で終わってしまう。
「で、話戻るけどどうしてなの?」
まぁ、その理由はもうわかっているけどね。
「うんと、私ホントは大人役やりたいの」
どうやら自分は超人でもエスパーでもないただの一般人だったようだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「えっ? どうしてみんな無言なの?」
「ま、まぁ、その、どうして大人役をしたいのかな?」
そっぽを向いて溜め息をつく都とどこか悲しそうな瞳でミミを見つめる伶
子の代わりに話を進める。二人ともあからさま過ぎる。自分はどうにか頭を抱えそうだったのを堪えたというのに。
「だって、その、私ってこういう劇とかやるといっつも子供役ばかりなんだもん」
幼稚園の時からそれは始まったらしい。
赤ずきんでは主人公の赤ずきん。頭巾のサイズが合わず頭巾なしとなったらしい。もう赤ずきんではない。題名に偽り有りだ。ヘンゼルとグレーテルでは当然のごとくグレーテル。ヘンゼル役が背の高い男子だったようで、傍目から見ると親と子だったらしい。ミミはあとで友達からそう聞いたようだ。オオカミと七匹の子山羊では間一髪オオカミの魔手から逃れた末っ子の子山羊。本当の子山羊と同じ大きさだと劇を見ていた畜産家の親御さんから絶賛されたらしい。
と、まぁ、挙げたらキリがないほど。いろんなエピソード付きでミミは教えてくれた。もう納得するしかない配役だ。当時の周囲の人たちに拍手だ。パチパチパチ。
「なんで拍手してるの?」
「何でだろうね」
はははっ、と苦笑い。都が「気味の悪い」と吐き捨てるのが聞こえたような気がしないでもなかった。気にしない、気にしない。
「合ってると思うけどなぁ~」
「昔はいいけど今はもう大人だよ!」
そう言うと、ミミは腕を組んで頬を膨らませる。まるでおもちゃを買ってもらえなかった子供のように拗ねている。
「だから子供じゃないよ!」
もう! と組んでいた腕をぶんと振る。なぜ、言葉に出していないのにわ
かったのだろうか。これはもしかして俗に言う以心伝心?
「そういうなんか優しげというか微笑ましげな目は大体みんなそう思ってる時だから」
経験則であったようだ。ずいぶんその視線を受けたのであろう。なんだか申し訳ない気持ちになる。一瞬だけ。
「もう一七歳だよ。そんな子供っぽいことなんか出来ないよぉ」
ぶんぶんぶん、と両腕を前後に動かす。
「あ~……そうだね、うん」
ツッコむべきか否か。
「あなた、そう言うのでしたら大人役をやってごらんなさいよ」
そこに助け舟……とは言い難い怜子の鶴の一声。
「そうね。そこまで言うのなら見せてもらおうかしら」
都まで同意を示す。おそらく面白い展開になると思ってそう言っているのだろうが。微かに笑みが漏れているのがわかる。
「いやいや、そんな、いきなり、ねぇ~?」
この二人の魔手、特に都の魔手にかかってはミミが可哀想だ。これはどうにかして助けてあげなければならない。己の父性本能にかけても。
「わかった! 私やる!」
決意を込めた瞳でミミはそう宣言する。
やるんだ……。
乗せられやすいというかなんというか。それにその宣言の仕方、どこぞの地下アイドル始めましたか。
「無理しなくてもいいんだよ?」
フォローを入れておく。
「ううん、やるよ」
しかし、一度決めたことはきちんとやるタイプのようだ。説得の余地なし。完全に都の思う壺だ。
「そうでしたら何をやってもらおうかしら?」
「赤ずきんのおばあさん役でいいんじゃないの?」
「そうね。それがいいわ」
「動きも少ないから演技力がモノをいうわね」
「そう言われますと存外に難しそうに聞こえますね」
「えぇ、でも、彼女は大人役をやりたいと言っているのだから大丈夫でしょう」
と、怜子と都は勝手に話を進めていく。どうして変なところでこの二人は息が合うのだろうか。普段は少しいがみ合う雰囲気が出るというのに。女子というものはよく分からない。
さすがにここまで言われて……
「わかった! おばあさん役だね!」
いや、やる気満々!?
待っていました、と言わんばかりの弾んだ声だった。初めて大人役を出来るのが相当嬉しいのかもしれない。舞台でも何でもない青空の下の上に観客は三人という状況下の中でも。
「あら、忘れていたわ」
急に都がそんなことを言う。
「何をだよ」
もうどうにでもなれ、と思っているところに都が何かを思い出したらしい。ろくなことではないとわかっているからどうにも口調が荒くなってしまった。
「戌居さん一人で役を演じるのは少し酷だと思うの。相手役が必要じゃないかしら?」
「そう、だわね……赤ずきん役が欲しいところですわね」
そこに再び怜子が乗ってくる。だから、どうして普通に乗っかってくるかね。
「へっ!?」
そうして、二人は頷き合うとなぜかこちらをじっと見てきたので、思わず奇声をあげてしまった。
「なんで?」
やるわけないでしょ。どうして自分が。完全に飛び火している。
「いいじゃないの。減るものでもないのに」
「見えない何かが減りますわ! 体力と並行して大いなる何かがぽろぽろと零れ落ちていきます!」
「そんなものあなたにあったかしら?」
「あります!」
「見えない何かとは何かしら?」
と、真剣に考え始めた怜子は無視しておく。
「というか二人のどっちかがやればいいでしょ。その方がやりやすいでしょ、赤ずきんって女の子だし」
「あら? それは女性蔑視かしら?」
「いやいや、飛躍しすぎ――」
「流行! そのようなことは執事としてしてはいけませんよ!」
「また、だから乗ってこないで……ミミちゃんもやるなら自分より女の人の方がやりやすいよね?」
埒が明かないからミミに逃げる。ここでウンと言ってくれれば万々歳だ。
「えっ……やってくれないの?」
上目遣いで心配そうにこちらを見てくる。
「うん、僕やります!」
断る理由が見つからない。
「馬鹿ね」
「そうらしいですわね」
二人に呆れられた。こちらにフっておいてその仕打ちは酷いものがある。しかし、ミミに頼まれてはしょうがない。この身に代えても守らなければならないものがそこにはある。
いや、少し待てよ。何か重要なことを忘れているような気がするけど……まぁ、いっか。
ふと、過ぎった疑問だが、その正体が何か分からなかったので流しておくことにした。
「では、赤ずきんがおばあさんの家に着いたところから始めましょう」
なんだかすっかり監督気分のように聞こえなくはない都のこの言葉で始まった。
「うっ、ううん」
なんだか緊張してきた。咽喉がいがらっぽい。
「じゃあ、いくよ」
「うん」
ただちょっとした寸劇をするだけだというのに何かの階段を上るかのようだったが、それに匹敵するような心持ちであった。互いに意識しすぎなようだ。
「こ、こんにちは!」
「はい、カット」
「えっ!?」
「恥ずかしさが残っているわね」
「そこはしょうがないんだろ。てか、カットってそこまで本気でやるのかよ」
「やるからにはしっかりとやらないと戌居さんの役者力がわからないでしょ」
「なんだよ、それ!?」
「そうだわね……ここは本当の舞台というわけではないのだけれど、だからといって手を抜いていいわけではないわ。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすのだから」
怜子さん……その引用句は何かが違っているように思えます。
「そう、だね! しっかりとやらないと三雲君!」
ミミにまでダメ出しをされてしまった。
「はい! やります!」
心を入れ替えて誠心誠意頑張る所存であります!
「では、テイク2ね、はい」
締まりのない監督の言葉で再開する。
「こんにちは!」
「少し違う気がするけど、まぁ、いいわ」
監督の許しが出たので続けることにする。根本的に赤ずきんを男にやらせている時点で違うのだが。
ずいと小屋の中に入るような仕草をして次の演技に移る。
「あら、おばあさん――」
「ちょっと待ってほしいわ!」
今度は怜子だ。
「今度は何ですか、宮内院さん」
「おばあさんはベッドで横になっているはずではないのかしら?」
「まぁ、そうだと思いますけど」
「そうしたらなぜミミさんは横になっていないのかしら?」
「いや、ここにはベッドなんかないですから」
「あると思って演じるからこそ役者というものじゃないの?」
都がそんなことを言ってくる。
「ミミちゃんは役者じゃないし、ここで横になったら汚れちゃうでしょ」
何を馬鹿なことを、と思っていたら。
「そうだよね! 私わかってなかったよ!」
と言うと、制服を着たまま間に土が詰まっているようなタイル敷きの地面
に横たわった。
「そこまでやらなくてもいいんだよ!?」
「ううん、私甘く見てたよ。言葉だけいいって思ってた。でも、演じるって
全身で表わさないといけないってことなんだよね!」
何か悟りを開いたらしい。空を見上げながらあからさまに普通のことを言っているというのになぜか凄いことを言っているかのように思ってしまう。いや、考えたらこんな小さい子がこのことに気付くことは凄いと言わなければならない。そうだ、これは凄いことだ。
「よく気付いたね、ミミちゃん!」
「うん!」
嬉しそうに頷くミミを見て、表情が緩んでしまう。
「あなたたちってどこか抜けているのかしら?」
あるいは認めたくはないけど似た者同士ってわけなのかしら、と不服そうに都が呟く。
「さぁ、演じるということに気付いたあなたの演技をわたくしに見せて頂戴!」
場の空気を切り替えるかのように怜子がそう言う。言いながら片手をさぁーと広げる様はどこかの貴婦人のようであった。またその仕草が似合っているのが憎たらしい。
「はい!」
元気よくミミは答える。
頑張って!
流行は両拳を握りしめて応援する。
「流行、あなたもしっかりと演じなさいよ?」
怜子に釘を刺された。知らぬ間に怜子も本気の様相を呈してきた。何かスイッチが入ってしまったようだ。
「は、はい」
プレッシャーがハンパない。
「そうね。赤ずきんに見えるよう全力を見せなさいよ、三雲君」
さらに都は金づちで追撃をかましてくる。
「では、テイク3になるわね、はい」
ぱん、と都が手を叩く。
「こんにちは!」
中に入るような感じで流行はミミの傍まで寄る。
「あら、おばあさんの耳はずいぶん大きいのね」
頭の片隅に微かに残っていた台詞をどうにか引き出して言葉にする。十年以上も前に読んだ絵本の台詞などしっかりと覚えていられるわけがないのでところどころ抜け落ちていそうだ。しかし、そんなことなどどうでもいい。やっとだ。やっとこの寸劇の意義がわかる。
さぁ、ミミちゃん頑張って!
心の中で応援する。
「そうだよ! キミの言ってることがちゃんと聞こえるようにね!」
元気に、笑顔を浮かべてミミは言う。
んんっ? んんんっ?
自分の台詞に自信はないのだが、それでもミミの台詞がどこかおかしいのはわかった。
「そ、それにおばあさんの目の大きくて光っているわ。なんだか怖い」
言いたいことは飲み込んで続ける。
「怖がらないで! かわいいキミを見るためだから!」
やはりというか元気に言う。
ん~……
なぜ言わないのだろうか。どうしてツッコミを入れないのだろうか。都も怜子もじっとミミのことを見て、黙っている。
「それにおばあさんの手の大きいこと。こんなに大きかったかしら?」
「そだよ! 大きくなくちゃキミを抱きしめてあげられないもん!」
「違わない!?」
あー、言ってしまった。我慢できずにとうとう言ってしまった。三度目の正直というのか、天丼は三回までと言うべきか。二回まではどうにか理性を保ってられるのだが、同じことが三回目となると、さすがに無理であった。
「な、何が違うのかな!?」
いきなり台詞とは違うことを言われて、ミミは元から裏返った声がさらに二オクターブ程高くなって返ってきた。思わず「あぁ、ごめんね」と謝ってしまった。こんないたいけな少女を驚かせてしまって本当に申し訳ないと思う。
「いいから早く芝居を続けなさいよ」
急に話の腰を折った演者に対して監督は続行を指示。
「いやいやちょっと待とうよ」
「どうして?」
「いやまぁ、ねぇ?」
ミミを傷つけたくないという思いが直接的な表現を避けてしまっていた。怜子は「どういうことかしら?」と全然気づいていないようだったが、おそらく都は気付いているはずだ。口元が微妙に緩んでいる。そんな微かな変化も流行は見逃さなかった。
「何がいけなかった?」
潤んだ瞳で心配そうに見上げてくるミミ。
「その、ね。少し元気すぎかなって」
「元気すぎるぅ?」
「元気な方がいいのではないの?」
二人とも冗談で言っているわけではないのだろうか。わからないわけがないと思ってしまうが、それは主観であるからして自分の持っている常識というものが全て他の人のそれと同一であるとは言い切れない。
「どうして元気なのがダメなのかしら?」
全てをわかっている都が聞いてくる。わかっているくせに。
「ミミちゃんはさぁ。おばあさん役をしているんだよね?」
「うん!」
「そのおばあさんっていうのはどうしておばあさんなんだろ?」
「う~ん……どうして……」
うんうん、唸るだけでわからないようだ。
「少しわかりにくい言い方だったかな。それならおばあさんて昔からおばあさんだったわけではないでしょ?」
「えっ? 違うの?」
そこからか。
「えっと、おばあちゃんもミミちゃんみたいに若かった時あったでしょうに。でも、今は年を取ってご高齢になったから赤ずきんからおばあちゃんて言われているんだよ?」
「うん……」
「ということはその分、そんなに元気はつらつってわけにはいかないでしょ?」
「それは偏見じゃないかしら?」
来ましたよ。来ると思っていましたよ。隣で怜子も「そこは流行の話に頷くわけにはいかないわね」と言ってくる。
「わかってる。わかってるから」
今はそこはツッコまないで欲しい。おそらく巷の幾人かのお年寄りが聞いたならば言葉という武器でタコ殴りにされてしまうだろう。だが、簡単な説明の仕方がなかったのだ。言葉のアヤというものだから気にせず続けさせてほしいと思う。
「ま、まぁ、それに言葉づかいっていう点でも元気良すぎるし、若者言葉っていうのかな。おばあさんがそんなフランクな喋り方っていうのも気になるから」
邪魔される前に捲し立てる。
「う~ん……」
「まぁ、自然体でいいと思うんだけどね。でも、それだと演技というよりは素の自分を出しちゃっているだけだから」
「うん……」
ミミは俯き加減にそう呟く。身長が低いので見えづらいが言葉尻から悲しい眼をしているのだけはわかる。
「そしたら違うのをやってみようか」
このまま叩いてばかりでは完全に流行が悪役である。別に自ら演じようとは思ってもいないというのに。「あなたの方が演技は上手なようね」などと皮肉を都が言ってくる。
「もう少しだけ若い役をさ」
ミミ自身の演技が役とかけ離れているというのなら役自体をミミに寄せるしかない。もう無理くりである。
「うん」
顔を上げて、ミミは頷いた。やる気はまだあるようだ。
「何がいいかな、宮内院さん?」
「そうね……おばあさん役から少し若いと言うとシンデレラの継母役っていうのはどうかしら?」
グリム流れのようだ。だが、適当だろう。他に思い付かないし。
「どうかしらね」
先が読めているのか。微笑をたたえ、都は茶々を入れる。
「まぁ、やってみようよ」
「そしたらあなたがシンデレラ役ね」
やっぱりですか。
やはりというか、当然というかシンデレラの継母役もまた元気すぎて意地の悪さは皆無であった。わかっていましたよ。ついでにさらに若い役ということで、美女と野獣のベル役もやってもらった。どうやらグリム流れではなく、某巨大アミューズメントパーク関連であったようだ。それはどうでもよいが、残念ながら色気も糞も……いや、ただの元気っ子がはしゃぐだけのものであった。当然、野獣は流行。ダンスシーンで吐き気を催すほど回されてしまった。
「やっぱりダメね」
都さまがバッサリ。項垂れるミミ。
「わたくしはいいと思うのですけど? 斬新で凄く元気の出るようなものですわね」
怜子は称賛のようだ。ぱっと顔を上げるミミ。
「子供っぽくてね」
返す刀がミミに襲いかかる。再び項垂れる。水飲み鳥のようであった。
「子供役の方がいいんじゃないかな?」
もうお手上げである。
「ううう……」
「ねっ?」
「でも……」
「でも?」
「劇の中では大人役がいい!」
頑なである。仕方がない。ここまで来るなら言い聞かせるしかないか。
「普段でも子供に見られてるのに――」
「それはまだ子供だからだよ」
「えっ?」
いきなりのことで言っている意味がわからないようだ。
「そうやって子供役がやりたくないって駄々をこねるミミちゃんの心が子供だからそう見られちゃうんだよ」
「心が子供……?」
「そう。だからそんな心のままで大人の役をしたって幼く見えちゃうし、それに見た目が幼いのならそれに拍車がかかって、もうその役は子供にしか見えなくなっちゃうんだよ」
「うん……」
「どんなことでも適材適所っていうものがあるんだから任された役を精一杯演じきるのが大人ってものだよ。本物の役者だって自分のやりたい役を出来るわけじゃなしに監督とかが最終的に決めるもので演者がわがまま言ったら即使ってもらえなくなっちゃうんじゃないかな」
「うん」
「今は子供役でもそれを演じ続けて、演技の技術とか身につけて、今度は自分で言うんじゃなくて他の人から大人役を任されるようなそんな人間になればいいんじゃないかな?」
いいこと言った。自分まさにいいことを言った。
「ミミちゃんわかったかな?」
自己陶酔に陥るのはいい気分だが、一番重要なことは忘れてはいない。言い逃げは良くない。
「うん、わかった!」
私、子供役でも頑張る! と言い切ってくれた。
そこにぱちぱちと拍手が聞こえてきた。
「よく言いましたわ。ミミちゃんさん」
感動したらしい。「あなたもよ、流行。よく頑張ったわ」とお褒めの言葉をいただいた。
「ありがとうございます」
軽く首だけを動かして礼を述べる。まさか称賛をいただけるとは思ってもみなかった。
「頑張ってね、ミミちゃんさん!」
「うん、ありがと宮内院さん!」
二人は手と手を取り合って喜び合う。舞台劇でも見ているかのようであった。怜子なら演技に対してうまく教えられたのではなかろうか。
「単純ね」
「単純さ」
嬉しそうにはしゃぐミミと一緒に喜びはしゃぐ怜子を横目に見ながら二人は言う。
「物事っていうのは何でも単純なのさ。ただ人の脳が発達しすぎてその物事に対して裏の裏の裏の果ての裏まで考え過ぎるから複雑になっていくのさ」
「それだと表ね」
「そう。実は裏を見ていたようで表を見ているだけなのさ、人は。ただ表に反した時に少しでも汚れを見つけてしまうと別のものだと誤認識しちゃうのさ」
「また適当なことを言うわね。ホント、調子のいいことばかりうまく並び立てるわね」
「絶賛売り出し中です」
「おだてられて木に登りすぎて落ちないでちょうだいよ」
「大丈夫。運動神経が芳しくなくて木なんてものなんかに登れた試しがないから」
「屁理屈を」
「本当の屁を出すのを我慢してるんだからそれぐらい言わせてもらうさ」
「汚い」
そりゃ、どうもすいませんね。
中空を彷徨っていた視線を前に向けると、まだ二人ははしゃいでいた。見た感じ、もう少しかかりそうだ。隣で都が溜め息をつくのが聞こえた。