2-3
それから数日。伶子からは何の音沙汰もなく、流行自身もけしかけておきながら特に気にもせず、忘れかけていた頃。
ん?
いつもの如く、屋上へと通じる扉を開けようかと思うと、外に何かしら人の気配があるように感じられた。自分としては別に何か物珍しい特殊能力を生まれつき持っているとか悪の組織に拉致られて改造手術を施されて新たな力を手に入れたという覚えはない。第六感というよりは肌で感じるといった具合だろうか。それを第六感というのだ、というツッコミは認められない。なぜならこれは五感の中の触感にあたるのではなかろうか。肌で感じるというのだから、うん。
と、自身の発言に適当な理由づけをしつつ、ドアノブを回した。
「ようやっと来ましたわね」
そこには先日来、会っていなかった伶子がいた。その表情は怒っているようでいて、どこか優しげだ。二律背反。反発しあう感情がそこには同居しているように見えた。
「はい、来ましたね」
後ろ手に扉を閉め、外に出る。雲一つない蒼穹が眼前に広がった。
いい天気だ。
じっと眺め見る。視界の隅で伶子も仰ぎ見ていた。
「――ましたわ」
「えっ?」
「その、だから、助かりましたわ!」
なぜか怒鳴られた。意識が完全に空へと向かってしまっていたせいで聞いていなかった。
「なにがですか?」
怒気が伶子の周りに渦を巻き始めたように見えた。あれ? これはヤバいかな。よくドラマなんかで見るような感じで平手打ちをいただくパターンかな。
「えぇっと、うまくいったのですか?」
慌てて取り繕う。別に意地悪をしていたわけではないといいたい。ただ忘れていただけなのだ。いや、忘れたわけではなく、少しは覚えていたのだけれども空を眺めていたらどうでもよく……いや、するっと記憶の杯から零れ落ちてしまったというか。そう、もう簡単に言えば覆水盆に返らずみたいな。いや、違うか。それでは叱られる流れになってしまう。まぁ、それはそれでどうにか切り抜けるだけだが、どうやら無駄な体力を使わず済みそうであった。
「えぇ」
意外とすんなり話が進んでしまった。変なところで運を使ってしまったような残念感が拭えない。だからサマージャンボやらロト6などが当たらないのだろう。まぁ、買ったことはないのだが。
「ならばよかったです」
「聞かないのですの?」
流行の反応に驚いた表情を浮かべる伶子。
「えっ? どうして?」
思わず素が出てしまう。別にあまり興味がないのだが。
「普通ならば尋ねるものよ?」
話したがりか。
「ならばお願い致します」
普通ならばと言うならば普通の人を自負する自分が尋ねなくて誰が尋ねようか。
「言い方が引っ掛かりますわね」
よく言うわ。自分から振っておいて。
「でも、そこまで言うのならば仕方がないですわね」
何だか物凄く引っ掛かる言い方である。仕返しだろうか。いや、たぶん素だろう。お嬢様体質を体現してくれているのだろう。ここは感謝すべきか。御馳走さまです。おっと、違った。ありがとうございます。
「――ということですわ」
話が急に飛んだような気がするのは気のせいだ。ただ快適にスマートに全てを済ますためにかいつまんで説明した方が早いのではないだろうか、という優しさである。なんて他人想いなのだろうか。自画自賛。
では、簡単に伶子の話を言うと、相手の気持ちを推し量るのは無理なので、なぜ休憩所がいいなどと言ったのかを聞き、その理由がどうやら面倒臭いという何とも共感できる、もとい何ともありきたりなものであったようでそれでは他の人たちが可哀そうだし、このクラスでやる文化祭は一度しかないのだからという感情論的な説得を試みたらしい。また喧嘩にでもなりそうな展開かと思ったら存外相手の方も良く言えば素直、悪く言えば単純だったようで伶子の言葉が心に響き、折れたようだ。
「ほ~」
「何ですのその反応は?」
ただ単純に感心しただけなのだが、伶子とっては馬鹿にでもされたかのように思ったようだ。
「いやいや、別にあれですよ。結局、何に決まったのですか?」
どうにか話を別の方向に持っていって誤魔化すことにする。また怒気にあてられるのは嫌である。
「縁日よ」
「ほ~、ん?」
「だから縁日よ」
聞き返した感じになってしまったようで二度も言ってくれた。縁日とは是何ぞや。
「射的やヨーヨー釣りなどお祭りの屋台で出ているようなことをやるわ」
ただ一年なので焼きそばなどの模擬店は出来ないのだけど、と補足説明。
「ほ~」
また面倒そうなものを。
「わたくしも少し大変なのではないのかと思ったのだけれども佐々さん、わたくしと口論になった方なのだけれども、彼女が強く推したので決まったのよ」
佐々さん……やはり彼女とは相容れないようである。似非物臭人だったようだ。残念。結局のところ彼女も口ではああでもないこうでもないと言っておきながら何か面白そうなことを提案されればすぐにでも乗っかるようなそんな今時の若者だったということか。
「それは、まぁ、僥倖と言うべきなのではないでしょうか」
「そうですわね」
伶子自身も少し腑に落ちないようであったが、それでも嬉しそうであった。
「まぁ、いいですわ」
そう言うと、ぱん、と話の流れを切るように伶子は両手を叩いた。
「その、ありがとう」
伶子はくるりと背を向けてしまう。何だこのシチュエーションは。安いメロドラマの一節のように感じてしまったのはただ単に憧れているからだろうか。絶対にそんなではないことなど重々理解しているのだが。
「感謝される身ではないですよ」
「いえ、あなたのおかげですわ」
「おかげなんておこがましいですよ。自分はちょっとしたきっかけを作ったと言いますか、まぁ、しかし、それこそおこがましいですかね。背中を押したというより背中に当たってしまったという表現の方がいいかもしれません。その不意の衝突の反動を自らうまく利用したのは宮内院さん自身ですから」
だからこそ感謝される立場ではない。ただ適当に言っただけで、実際こんなにうまくことが運ぶなど思ってもみなかった。流行としてはただ言いたいことを言ってみただけなのだから。
「いえ、でも――」
「結果良ければ良しとしましょう」
まだ納得しない伶子の言葉を遮るように流行はそう言う。意外と粘る。粘られてはこちらとしても面倒だ。なぜかって? 理由は簡単。堂々巡りで変に体力を使うのは御免被る。流行にそう言われてしまっては伶子も何も言い返せないようで不承不承といった感じで「わかったわ」と頷く。
「それにしてもよくやりますね」
「なにがかしら?」
怪訝な表情を伶子は浮かべる。
「先日の朝のことも然り、今回のことも然りでいろいろとお忙しいようで」
「馬鹿にしているのかしら?」
キッと睨まれる。すぐに「別にそういうわけで言ったのでは」と平謝り。言葉が足らなかった。
「いろいろと気遣いといったものでしょうかね。誰彼構わずするっていうのは凄いものですよ」
「気遣い?」
再び怪訝な表情に戻る。ころころと本当によく変わる。やはり少し面白くなってしまう。
「いえ、ね。なぜ宮内院さんがあれだけ叱ったのかというと、自分の為ではなかったのですよね?」
「どう、いうことかしら?」
「みんな叱るという行為にばかり目が行きがちですけれど、その中で言われていた言葉に真実が隠されていましたね。先日の校門の前での出来事を例に取ると『そこにいたのが、もし御老人や足の悪い人だったら』という言葉に」
そう先日の出来事の時に野次馬たちが言っていたのは、いつも通りまた宮内院伶子という生徒が他の生徒に当たっているという表層的なものであった。しかし、伶子自身の本意は当然そこではなかった。
「ただ物凄い速度で走っている生徒が誰かにぶつかり、その人が怪我するのが怖かっただけですよね? 自転車と言ってもそれは凶器にもなりえるのだ、というのを理解してほしかっただけですよね?」
他の人の為だったのだ。穿ってみればさらに自転車に乗っていた生徒本人のことすらも心配していたのだろう。もし引いてしまった相手が亡くなってしまったら。それはもう傷害致死という扱いになるだろう。そうなると前途有望な若者一人の人生がそこで終わってしまうかもしれない。だからこそ気を付けて欲しいという願いもあったのかもしれない。
「なんで……!?」
言うや否や、伶子の表情が怪訝なものから驚きへと変わっていた。
「わかりますって」
他の人たちはわからなかったみたいですけどね、と笑う流行。
「今回の件も何も言えない他のクラスメイトのことを慮って起こったものですし。せっかくの文化祭だからこそ皆が皆、楽しんで欲しいという想いもあったようですし」
「そう、なのかしらね……」
考えるように目を伏せる伶子。自分でも自分のことがわかっていないようだ。少し押しつけがましかったか。
「まぁ、結論から言うとあなたは周りが思うほど厳しくなく、優しさに溢れているということですよ」
両手をわざとらしく広げる。ほら、こんなにも優しさがありますよ的な。もうなにが言いたいのかわからなくなってきたので、そろそろ締め括りに入ることにした。
「そう……皆、あなたのように考えてくれればよいのですが……」
まぁ、難しいでしょうね。
「いいではないですか。そんなことは」
ぱちん、と指を鳴らす。落ち込みがちな伶子の意識を再び持ち上げるために。
「皆が皆、あなたのことを理解するなどどだい無理な話。しかし、一人でもあなたのことを理解してくれる人がいるとわかれば少しは気が楽になるでしょうよ」
まぁ、ほんの少しだけですが、と微笑む流行。何だか昔の無音映画の役者のような素振りをしてしまった。自分でやっておいて恥ずかしい。役者ではない上に、二枚目でもないのに。時折、暴走してしまう。
馬鹿にされるかな?
じっと反応を待ってみると、特に笑いも叱責も来ない。逆に伶子の頬がほんのり赤く見えるのは日が落ちてきたからだろうか。
「そ、そうね」
と言うと、伶子はくるりと流行に背を向けてしまう。あれ? この感じはもしかして。少しドキドキしてしまう。
「流行……」
初対面の時以来、二度目の呼び捨て。あれれ? いい雰囲気?
「は、はい……」
少し声が上擦る。ドラマやアニメの見過ぎかもしれないが、これはもうフラグが立っているとしか思えない。
「あなた……」
「な、なんでしょうか?」
ばっと、勢いよく伶子が身体をこちらに向けてくる。
「わたくしの執事になりなさい!」
ズビシッ、と人差し指を向けられてそう指名された。人様に対して指差しちゃいけませんって御両親から教わらなかったのですか! いや、そこではなかった。
「えっ!?」
そこは突き合って、もとい付き合ってください的な流れではないのですか!?
「いやいやいやいや……」
と、どこから訂正すればいいのか分からなくなっている時に、どこかの国
の行進曲的なものが聞こえてきた。
「誰かしら?」
スッ、とポケットの中から携帯電話を取り出し、出るや否や伶子はそう言う。画面見ようよ。たぶん登録してあれば名前が出るでしょうに。
と考えているうちに電話はもう終わっていた。
「迎えが来たらしいのでわたくしはこれで帰りますわ」
くるりと再び背を向ける伶子。
「ちょっ……」
まだいろいろとこちらの問題が解決していないのに。放ったまま置いていくのですか。まさに放置プレイ。
「明日からしっかりとお勤めいたしてね」
いや、イエスもノーも言っていないというか何も言っていないのに既に契
約完了のようである。
「では、御機嫌よう」
と言うと、伶子は颯爽と流行の前から消え去ってしまった。流行の頬を撫でる風と共に。
「ヘッ……」
……プバーン。
「また厄介なことになったわね」
がくりと項垂れる流行の頭上にいつもの如く事態を楽しんでいるかのような声が降り注ぐ。
「毎度毎度、お勤めご苦労様です。お嬢」
「あら、もう気持ちは執事になったのね」
気が早いようで、と都はクスクス笑う。
「五月蠅いわ」
これは執事じゃなくて組の下っ端だわ。いや、別に自分で自分のことを下っ端だとは思っていませんけど。なにか?
「やっぱりあのお嬢様の執事だから気を使ったのかしら?」
「ん?」
何のことやら。
「誤魔化すのね」
でも、私は気付いたけどね、と得意げ。へぇへぇ、そうですか。
「最後は人の為なんて素晴らしい言葉で締めくくったけどそれも付き詰めれば自分の為ですものね」
そうである。どんなに人の為だと言ったとしてもそこには己が介在する。その人を助ければ物が貰えるかもしれない、英雄になれるかもしれない、親密になれるかもしれない。ほとんどの人はそうだ。しかし、ほんの一握り、何十億もいればおそらくいるだろう純粋に他人を助けたいと願う者もいるだろうが、流行から言わせればそれだって結局のところ己の充足感を満たすためである。何とかしたいというもどかしさを払拭する為、何かしなければという焦りを消し去る為、見ていられないという哀しみを振り払う為に人は人を助けるのだ。どうしたって突き詰めればそうなってしまう。真の利他など自分にはわからない。
だが、それはまた流行のただの屁理屈。
「まぁ、少しでも誰かの、世界の気持ちが楽になればいいんだよ」
肩を竦める流行。助けてくれるのならそれに甘えましょう。助けてくれないのならそのまま流されましょう。
「世界とは大きく出たわね。小さな小さな三雲君?」
それにあと自分でどうにか打開することも考えなくては駄目よ、と釘を刺される。もうどこからツッコめばいいのやら。
「一応、一七〇ぐらいはあるわ」
「あら、普通」
「普通が一番です」
「普通なのかしらね?」
小首を傾げられてしまった。
「普通です!」
ほら、言われた通りちゃんと自分でこの状況を打開してみようとしていますよ。
「それは単なる強情を張っているだけで打開の糸口も掴めてないわね」
「それは仕方がない。なぜならもう手元を見るのもおぼつかないほどに闇が迫っているからね」
遠くを見ると、日は山向こうへと消えていき、暗くなり始めていた。
「いえ、単なる老眼なのではないのかしら?」
「まだそこまで衰えてはいないわ」
それに自分落合さんと同い年だからね、と付け足しておく。
「あら? そうだったかしら……一つ、九つ上だった気が……」
なにそれ、自分はもう社会というジャングルで生きていかないといけない
年齢なのですか。飛び級ですか? それともハンパない留年なんですか?
「そう言うなら先輩を敬いなさい」
ふん、と腰に手を当て、胸を反らす。TVで見るような上司と言えばこの
ポーズですよ。
「もう帰るわ」
「おい!?」
軽やかに都は飛び下りる。
「今日は面白かったわ」
次も期待しているわ、と言うと早々に屋上から消えた。先程の伶子といい、都といい退場が早い。
まぁ、でも既に緞帳は下りているのだから致し方ないか。
頭上を見上げると、そこには星が瞬いていた。自分もそろそろ退場の頃合いのようだ。