2-1
初夏――というのだろうか。
いまいちよくわからないが、ところどころ春の薫りが残りながらも、日差しは夏の暑さになりつつある今日この頃。それはもう自分としては晩春というべきか初夏というべきかその使い方が合っているのかどうかさえよくわからないが、そんな微妙な季節。墨屋木高校までの道のりを歩いている流行の背もほんのり温かい光線に晒され、少し汗ばんできている。
「ふぅ」
少し休憩といった感じで足を止めると、目の前を黒塗りの車が優雅に走っていくのが見えた。いい御身分だ。たしかうちの学校にもいたはずだが、そんなことはどうでもいい。ただただ普通に乗せて欲しいというのが流行の率直な願望であった。いつものことだが、家から学校までが遠い。体力のない身としては徒歩で来るにはきついものがある。何度歩いても慣れというものが一向に来る気配がない。歳なのだろうか。いや、そのようなことを言ったら何十億人もいる諸先輩方に怒られてしまう。
「はぁ……」
羨ましい。
今度は隣を同じ制服を着た男子生徒が自転車で駆け抜けていった。自転車でもいいからどこからか自分を校門前まで送ってくれる優しい御仁は現れないだろうか、なんて思ってしまう。
というかスピード出し過ぎだろ。
と、自転車で悠々と登校していく生徒に憎まれ口を叩くが、こればかりはしょうがない。流行の少しでも楽な登校への道にはどうしようもない校則という壁があるのだから。悲しいかな、流行の家からではぎりぎり自転車通学を許してはくれないのである。学校から半径数十キロメートル以上でなければならないとか。両親たちよ、家を建てる時にもう少しだけ外側に建ててくれればこんな苦行をしなくて済んだというのに。いや、こんなこと言っていたらたぶん彼女にダメ出しを二、三時間くらってしまうだろう。反省します。というか何で反省しなくちゃならないんだ。特に何があるわけでもないのに。何を考えているんだ自分は。と、ぐるぐるとそんなことを考えていると、
キ、キィイィイィィィ――
という大きなブレーキ音が聞こえてきた。物凄い音で、電線や木々に留まっていたスズメたちが一斉に飛び立った。
「危ないではないの!」
次にはそんな甲高い声が響き渡り、それだけでは終わらずに続いて「お前こそちんたらしてるんじゃねぇよ!」という男の怒鳴り声までもが聞こえてきた。何事かと思い、野次馬精神丸出し、さっきの文句などどこ吹く風、少し早足で行ってみると、そこには先程、流行が羨望の眼差しを向けた自転車通学の男子生徒がおり、その前には金髪ツインテールの女子生徒が立っていた。隣にはこれまた先程見た黒塗りの車が控えている。
やはり思った通りであった。
その女子生徒、名前を宮内院伶子というのだが、学校では有名人だった。その顔は端整で彫が深く日本人離れしたもので、どこかの国の貴族ではないかと見紛うばかりであった。ただ、それもあながちウソではなく、宮内院家というのは由緒ある家で歴史があり、また経済界にも力を持っており、宮内院グループと言えば、つまようじから兵器まで作る大複合企業であった。簡単に言えば金持ちのお姫様である。だからこそ黒塗りの車でここらを走っていると言えば彼女しかいないのである。そして、日本人離れしているのはスタイルもそうで、細いのだが出るとこは出ているという都が見たらたぶん嫌味の一つでも溢しそうなくらいである。あっちはあっちで綺麗だけど、まぁ、上半身のある部分が残念と言えば残念だからなぁ。
「お、お嬢さま、落ち着いてください」
そこにまた違う声が聞こえてきた。
「お黙りなさい! 紙子!」
と、怒鳴られているのは伶子と同い年ぐらいだが制服は着ておらず、代わりにきっちりとしたパンツスーツを着ていた。名前は朽野紙子といい、ショートの髪の下にある顔はどこか中性的で最初に見かけた時は男かと思ったのだが、柔らかい声色と都とどっこいどっこいの申し訳程度な胸の膨らみで女性だとわかった。スタイルは金髪ツインテールよりは引き締まっており、健康的な感じであった。先程のやり取りで何となくはわかると思っただろうが、宮内院家の、それも伶子専属の執事ということである。以前、四谷から聞いたことがあったので覚えていた。
「また宮内院さんよ」
「調子に乗ってるわね」
これだけ派手にやれば流行だけでなく、他の生徒も足を止める。少し離れたところにいた今の女子生徒二人だけでなく、そこかしこで生徒たちがひそひそと何かを言っているようだ。見た目と裏腹にあまり人気はないのだ。
「おはようリューコー」
「はよーリューコー」
「おはよう」
噂をすればなんとやら、である。そう言いながら後ろに顔を向けるとそこにいたのは四谷と二川であった。四谷は大欠伸をしてまだ寝むそうで、二川に至っては片目が空いておらず半分寝ているようだ。
「お嬢がやってるな」
未だに言い争っている伶子を見て、四谷が面白そうに言う。
「よくやるよ」
先程言ったように人気の無さの一番の要因は誰に対しても高飛車な物言いをすることであった。クラスは違うのだが、その評判は流行のクラスにまで行き渡っている。
曰く、廊下を歩いていて伶子に気付かずに肩がぶつかってしまった生徒は、どこに目を付けているのか、もしぶつかった勢いで他の人にまでぶつかってしまったどうするのか、周囲が見えないような目などいらないではないか、と言われたという。曰く、購買の列に伶子に気付かずその前に並んでしまった生徒は、なぜ人の前に入るのか、どうして気付けないのか、何も言えないような人だったらどうするのか、と言われたという。まだまだ他にあるのだが、ここに列挙すると長々と時間を食ってしまうのでここらにしておく。
「見た目は完璧なんだがなぁ」
四谷は伶子を足下から頭の先まで舐めるように眺めやる。「うーん、けしからんなぁ」などとも言っている。最低だ。どこぞのエロ親父だろうか。友人だとは思いたくもなくなる。頭でも小突いてやろうか。
「サイテーだぁ」
そこに二川がツッコむ。よくやった二川。あとで気が向いたら褒めてやろう。「うっせ」と四谷が二川の頭を叩く。それに対して二川は「いたーい」などと間延びした声で応えていた。あっちの喧騒とは対照的なほどに緩い。
「あなた私だったから避けられたものの、足の悪い人やお年寄りだったらど
うするの! もしそうなっていたら大惨事になっていたわ!」
自転車だって軽車両ということで大きな罪なのよ、と畳み掛けるように喋り続け、相手の生徒も最初の一言だけは勢いよく言えたもののあとももう何も言えなくなってきており、話に聞いていた通りの一方的な展開となっていた。その間をオロオロと紙子が彷徨っている。何だか可愛く見えてしまうのは、流行のSっ気が鎌首をもたげ始めてしまったのだろうか。危ない危ない。
「最低ね」
人の心を見抜いたようなこの言い方は当然のように二川ではなく、都であった。振り返ることすらせずにもわかる。
「何がだい? ただ己の野次馬精神にのっとりこの状況を判断しているだけだけど」
臆面もせずにそんなことを流行は言う。周りでは四谷と二川がうろたえている。
「その精神こそまた最低ね。見るだけ見て、何もせずにいるという非生産的な感じだわ」
そんなの無意味だ、と言わんばかりである。
「そう言う落合さんも同じことが言えるのではないかい? このまま見て見ぬふりをしてその場を過ぎ去っていこうとするのだから」
「止めに入るということもまた非生産的だから何もせずに通り過ぎるだけだわ」
それにもう終わるわ、と言うと都はさっさと校内に入っていってしまった。それと入れ替わりに校舎の方から人が駆けてくる。たしか学年主任と体育教師だった気がする。おそらく誰かが職員室に駆けこんだか、伶子のよく響く声が職員室まで届いたのかのどちらかだろう。周囲にいた野次馬仲間も気付いたのか、巻き込まれたら大変だと、そそくさとその場を去っていく。だが、当事者である伶子本人は説教に熱中しているせいで全然気付かない。
「さぁ、もう行こう」
呆然としている四谷と二川に声をかけ、流行も他の生徒たちと共に校内に入っていく。ここにいたら自分もどんなとばっちりを受けるかわかったものではない。三十六計逃げるに何とやらだ。
「お、おい」
慌てて二人も追ってくる。
「凄いねぇ~、リューコー」
感心したかのように二川は言うのだが、あまり心がこもっていない気がするのはなぜだろうか。うんうん、と四谷までも感心しているのだから気持ち悪い。
「何がだよ」
三人で教室に向かいながら尋ねる。何を二人が言っているのか流行にはさっぱりわからない。
「だって落合さんと普通に話してるからさぁ」
「すげぇよ〈都落ち〉の落合さんとあんなやりとりやるとか」
二人して凄いものを見たような風に言うので、どこかむず痒い気がしてきた。そのようなことを言っても何もおごらないというのに。しかし、うまいことを言うものである。都落ち、というのは都会から田舎である墨屋木市にやってきたというのを落合都というのにかけて作られた裏でのあだ名であった。ただ、誰が付けたのかわからない。知らぬ間にそんなあだ名が付けられてしまうのだから怖いものである。どこで自分がそんな風に言われているのかわからないのだから。
「まぁ、何となくそういう流れにね」
そんなことを考え始めた上に、詳しく説明する義理もないので適当に流す。考えてみれば特にこの前のことを二人に喋ってもいないので驚くのも無理はないだろう。「またそうやって逃げるのな」と四谷がぼやき「逃げの一手かぁ、やるなぁ」と二川はまた明後日の方向の発言を漏らす。
「ほら、もう先生来るぞ」
扉を開け、教室に入ると流行はそう言う。校門の前で時間を食い過ぎてそろそろ朝礼が始まってしまう。腑に落ちない表情でそれぞれの席に行く二人。
まだやっているのかな。
少し離れたところからまだ伶子の声が聞こえているように思えた。
♢
昼休み。
いつものように屋上に行くと、既にそこには先客がいた。
「遅かったわね」
出入り口から少し離れたところで振り向くと、都は既に指定席である出入り口の上に座っていた。
「落合さんが早過ぎるんだよ」
てくてくとこちらも指定席である手摺に顔を外に向けたまま寄り掛かる。そして、先程購買で買ってきたコロッケパンにかじりつく。
「フライングしているんじゃ?」
最初に思い浮かぶ疑問をぶつけてみる。
「まぁ、人聞きの悪い」
やはりと言うべきか、都はすぐに反論してきた。
「授業の終わるチャイムが鳴って、終わりの礼をした後に普通にこちらに足を向けただけよ。三雲君が思っているほどそんなにここに執着があるわけではないわ」
どの口で言っているんだか。毎日はここに来はしないが、来るたびにいつも都はいる。いない時などなかったのである。
「もうここに住み着いているだろ」
当然の質問と言ったらおかしいが、前述のことを鑑みればそう思っても地縛霊扱いをしてもしょうがないだろう。
「あら、足はしっかり付いていると思ってよ?」
ぶんぶん、と後方で足を振る音がする。「見ないのかしら?」と少し意地の悪い言い方もしてくる。誰が見るか。見れば相手の思う壺である。都の流れに乗るわけにはいかない。
「へえへえ、さいですか」
だが、しかし。流行の一介の男である。見たいという衝動は見たくない、見てはいけないという理性よりは大きくなってしまうのは仕方がないことである。首を動かさずに視線を最大限後方に向けてみるが、人間の瞳の可動範囲は限られている。やはり見ることは出来ない。なので、少しずつ首を動かすことにする。相手に気取られないほどのゆっくりとした速度で。
くそっ。
やはり無理だ。どうにもならない。こうなれば最終手段である。
「あのさ」
と何かを尋ねるふりをして、もう身体全体を向けてしまうという荒技である。
「やり方があまりにも安直ね」
振り向いた視線の先にはニヤついた都の顔があった。
「何がだい?」
努めて冷静に言ったつもりだが、おそらく流行の心の中は見透かされているだろう。だが、それでも見栄だけは張らなければならない。この場の主導権を握られてはかなわない。
「そうね、何でしょうね」
ふふふ、と口を押さえて笑う都。まぁ、仕方なく可愛いと思ってやらないでもない。そう、仕方なくだ。
「それはそれはありがとう」
なぜか感謝の言葉をかけられてしまい、反応に困る。もう最初から主導権など都に取られてしまっているのかもしれない。
「はぁ……」
無意識に溜め息をつきながら流行はまた身体を外へと向けた。このままではこの場の主導権だけでなく、こちらの心中まで握られてしまう気がしてならない。
「あら、誰か来るのかしら?」
ふと、都がそう呟くと何やら階段を上る足音と共に声が聞こえてきた。ちょうど良いタイミングである。神の見えざる手と言うべきか。デウスエクスマキナと言うべきか。相手に向いた流れが変わった。
「わたくしが何をしたというのかしら」
声色からどうやらかなりのお冠のようで、ぷんぷんなんて擬音が聞こえてきそうな勢いだ。
どこかで聞いたことのある声だ。
首を軽く捻りながら考える。最近聞いたような声であるような気がする。
「道理に合ったことを言っているというのになぜわたくしも怒られなければならないというのかしら」
そんな言葉と共に扉が開き、声の主が現れた。
あぁ、こいつか。
そこに現れたのは宮内院伶子であった。朝っぱらに聞いたばかりというのにもう忘れてしまっていた。しかし、当の本人はまだ朝のことを引き摺っているようだ。
「騒がしくしたからいけないというのかしら……もしかして騒乱罪ということなの!? それで先生たちはわたくしをお叱りになったというのかしら。でも、そのようなことだったらわたくし以外の人たちだって常日頃行っているじゃないの!」
そんな百八十度も方向を間違えたような発言をしつつ手摺の方、流行の方へと来るのだが、こちらに全然気付いてはいない。怒りで周りが見えていないようだ。
「なぜ、わたくしだけが言われなければならないというのよ! これは絶対誰かの罠よ。わたくしに嫉妬した誰かがわたくしを陥れようと考えてこんな状況を招いたのね」
被害妄想爆発である。先程から高いところでそんな状況を見ている都はバレないようになのか笑いを必死に堪えている。遠目でも口元が引き攣っているのが見えるほどである。伶子の言葉に笑っているのか、流行の存在が薄いということに笑っているのかわからないが、こちらとしては聞いているだけでも何だか呆れてきてしまうというのによく笑えるものだ。
「えっと宮内院さん?」
そろそろ気分的にも気付かれないというのが辛くなってきた。というよりこの状況を都に笑われているのが気にくわない。
「誰かしら? 誰がわたくしのことを……わからないわ……」
しかし、気付かない。それどころか、うーん、と唸って考え込み始めてしまった。無意識なのか、制服のポケットの中から何かを取り出したかと思うと、口に含んだ。どうやら飴のようだ。
えぇ!? どういうこと!?
もう素直に驚くしかない。わざとやっているのではないかと思ってしまう
ほどである。互いの距離は既に一メートルもない。だというのに気付く気配もないというのはもう流行自身に何らかの原因があるのではないかと自分で自分を心配になってくる。
いやいや絶対宮内院さんの方が悪いはずだ。そうでないと困る。それでなくとも笑っている都にさらに笑われてしまう。それだけは避けなくてはならない。これはもうプライドの問題である。
「宮内院さん……宮内院さん? 宮内院さん!」
もう最後は怒鳴る感じになってしまった。それほどまでに伶子は気付かないのである。
「えっ?」
やっとのことで気付いてもらえた。だが、伶子はいまいち流行の存在を受け入れることが出来ないようでそこにいるのがなんなのかわからないようであった。ポコッと左頬が飴のせいで栗鼠のように膨らんでいる。
「どうも」
首だけ動かして挨拶をする。何となく緊張してしまい、変な動きになってしまった。
「……聞いていましたの?」
少しだけ冷静になったのか、伶子はガリッと口の中の飴を噛み砕くと、そう尋ねてくる。
「さぁ、何のことでしょうか?」
流行は両手を広げ、わからない振りをする。なんて優しいのだろうか。がっちり聞いていたが、聞いていなかったように振舞うとは。男の鑑ではなかろうか。
「聞いていましたわね」
バレた。全然、騙されていない。まぁ、この状況で聞いていないというのは無理があったか。
「聞いていたようで聞いていなかったかもしれないかもしれないということになりそうでならないのかもしれないような感じかもしれないですよ」
意味のわからないことでも言って煙に巻こうとする。
「しっかりと聞いていましたわね」
だが、相手は完全に無視して立ち込めてくる煙を振り払ってくる。
「どうかな? しっかりと聞いていたかと聞かれるとしっかりとは聞いていなかった気がするけど……」
流行の方へとにじり寄ってきたかと思うと、キッと睨んでくる伶子。その視線の力と言ったらハンパない。鋭く身体を貫かんとしているかのように思えてくる。少しヤバいかな。
「三雲君。そろそろ観念したらどうなの? あまりにも潔くないとみっともないわよ」
そこに一通り笑い終えたのだろう。都がやっとのことで口を挟んできた。もっと早くに出しゃばってくれればここまで追い詰められることはなかっただろうに。まぁ、少し調子に乗ったのは否めないが。
「誰なのっ!?」
その声に過剰に反応したのが伶子であった。おそらく先程の独り言を流行だけでなく、他の人にまでも聞かれてしまっていたのではないかという恐れによるものであろう。
「こんにちは、宮内院さん」
高いところからで申し訳ないわ、と膝についた右手の平に顎を乗せて都は言う。申し訳ないという割にどこか上から目線なのは視覚的なものだけではないように思える。
「なぜ『都落』……いえ、落合さんがいるの!?」
その反応から都のことを多少なりとも知っているらしい。
「なぜと言われてもねぇ、三雲君?」
ここでなぜこちらに話を振ってくるのか。絶対、悪戯心を触発されたとしか言いようがない。性格が悪い。
「猫と何とやらは高いところがお好きなのでしょう」
振ってくるのではしょうがない。相手にしてやろうではないか。
「そう言ったらあなただってそうでしょ? 私と同じように高いところにいるのだから」
細い指をこちらに向けて都は言う。そんなことはわかっている。何も考えずに言うかと思ったら大間違いだ。
「そうだね。でも、高いところと言ってもそれは地上から見た視点からの高いところという認識だろ? しかし、今の地上はこの屋上であって、そこから見れば落合さんのいる給水塔のある場所こそが高いところということなんだよね」
びしっと逆に流行は指を差し返す。どうだ、と言わんばかりに。
「屁理屈ね」
一蹴である。都はその一言で流行の言葉を潰してくる。
「そう、屁理屈だね。でも、先程発言した時点でこの状況を認識しているのは三人で、うち二人のいるこちら側が三人のいる空間の中では始点だということになっていてそこから見れば落合さんのいるそこはやはり高い場所だと言わざるおえないんだよね」
「よくそんなことが思い付くわね、ホントに」
都は呆れ顔である。うまくいったかな。
「それはどうも。最高の褒め言葉かな」
流行は口元を緩めて微笑む。他人から見たら勝ち誇っているかのように見えたかもしれない。事実、自分でも多少なりとも誇らしい気分でいるのは否めないのだから。
「これを褒め言葉と捉えられるなんて物凄いポジティブシンキングなのか、単なるあれなのか……あなたはどちらかしらね?」
ふふふ、と笑う都。
あれとはなんだあれとは。
どちらにしろ馬鹿にしている感じは同じである。
「いや、ただ優しいだけだよ。落合さんの冗談にもしっかりと付き合ってあげるほどのね」
ならばやることはただ一つ。馬鹿にしている感じでこちらも返すだけだ。ただ重要なのは馬鹿にしては駄目なのだ。馬鹿にしている感じが重要である。
「あら、それはどうもありがとう」
すっと都は頭を下げる。
「いえいえこちらこそ」
それに応えるように流行も頭を下げる。これで一件落着と言うべきか。
「何を二人だけで完結させているのかしら!?」
いや、忘れていた。都との会話をしていたせいですっかり伶子という存在を忘れてしまっていた。すっかり御機嫌斜めである。いや、考えてみれば最初から斜めであったのだが、それが四十五度から七十五度辺りまで急な斜面を描くぐらいに変わってしまっていた。
「あら、無粋ね」
そこに都がそんなことを言うものだから「無粋ってあなたね!」と斜めを通り越して直立不動の九十度まで昇りつめてしまった。
「いやいや、まぁまぁ」
これが都だけだったならばまた適当に話を続けるのだが、伶子という第三者がいるのではそれも叶わない。というかここまで怒らせてしまった責任がこちらにもあるわけだから少しの罪悪感というものだろうか、そんなモノが芽吹き始めてしまった。
「忘れてしまったのは申し訳なかったです」
ここは素直に謝ることに限る。それが今一番の良い選択だろう。
「冗談ではなくて本当に忘れていたというの!?」
だというのに伶子はそんなことを言ってくる。
「う、うん、そうだけど。だから申し訳ないと思って謝ったのだけど」
何を言っているのだろうか。謝罪の言葉を送ったというのにどこか責められている気がするのはどうしてだろうか。そして、後ろで都が笑いを堪えているのはどうしてだろうか。
「それはわたくしをからかっているというの!?」
どうしてそうなるのであろうか。
「いや、からかっているとかそういうわけでなくて本当に忘れていて――」
「それがからかっていると言うのよ!?」
高飛車な声が流行の声に被さる。
「いや、ホント別にそんな気持ちは……」
「諦めなさい、三雲君」
そこに都がそんなことを言ってくる。余計なことを。そうすれば自分がもっと楽しめるからといって。
「いやいや、何を諦めろというの?」
両手を広げ、意味がわからないといった感じの仕草をするが、それがまた火に油を注いだようで、伶子の感情は熱くなる一方だ。
「今度は二人してわたくしを馬鹿にするつもりね! なんて憎らしい!」
ハンカチでもあったら昔の少女漫画のように、きっー、と端を噛んで悔しがりそうな勢いである。だが、しかし、変に横やりを入れてきてしまったせいで都も伶子の憎しみの対象となったようだ。しめしめ。
「もしかして最初から二人で共謀してわたくしを貶めようとしていたのね。あなたたちはそういった御関係でいたのね」
さっさっ、と流行と都に視線を交互に送る伶子。少し警戒心といったものが出てきたようである。しかし、そうはしない。
「いえいえ、お嬢さん! 真の首謀者はそちらのお方。落合都という女の皮を被った魔性の者の方です。私はただただその者の手の平で踊らされていただけであります」
どうにか、どうにか助けてください、と伶子に救いを求める。少し胡散臭いか。初対面だというのにまた調子が出てきてしまった。しかし、やってしまったものはしょうがない。これで伶子がどう出るかである。短時間ではあるが、雰囲気的にはどこか演技染みた感じの伶子なので乗ってきそうではある。だが、そうは言っても不安なところはないとは言い切れない。もうここは自分の勘を信じるしかない。
「そうでありましたの!? あなたこそが騙されていたというのね……ごめんなさい、疑ったりして」
フィッッッシュ! かかった。まさかのかかり具合。グラウンダー何たらもびっくりするほどのものである。先程思ったように少しの可能性というか自信というものはあったのだが、うまく話を逸らすことが出来た上に心配までされるとは……お馬鹿さんなのか?
「なんて安直なのかしら。この子は馬鹿なの?」
いや、お人好しなのだろう。都がぼそっと今なにかを言ったようだが、この子はそんな子ではない。そう、お人好しなのだ。
「そ、そうです、そうです。もう騙されまくりですよ、はい」
そんなものなので逆にこちらが焦ってしまった。何をしているのだか。
「あなたという人はなんて人なのでしょうか、落合さん!」
キッ、と鋭い視線を伶子は都に送る。
いいぞ、頑張れ宮内院さん!
なんて応援を心の中から送ってあげる。少しでも力になれればという思いからだ。
「私は私よ。あなたに何がわかるというのかしら?」
睨まれてもどこ吹く風。やはり都である。何の効果もないらしい。
「な、なによ……」
その勢いに気圧され、怯んでしまうかに思えたのだが、伶子も伊達に気が強い訳ではないようで。
「で、でも、わたくしにはわからなくてもこの方があなたのことをわかっていると思うわ。その方があなたのことを悪魔のように言うのであればそれはもうあなたが悪魔だということだわ」
ふふん、と自慢げに言い返すのであった。悪魔の証明というのだったか。伶子の言うそれはどこか無理矢理な印象を拭えない。
「その根拠には重大な欠点があるわね」
すぐに都は指摘する。流行としては都が伶子の言葉のどこを突こうとしているのかわかっている。
「何でしょうか?」
しかし、伶子は自信ありげな態度を変えずにいる。これはもうダメだな。そう流行は思ってしまった。
「そこにいる三雲という男が私のことをわかっている上で、私のことを悪魔というのだから私はあなたから見ても悪魔ということになるのでしょ?」
「えぇ、そうですわ」
「ということはあなたはそこの、いま会ったばかりの男を信用しているということになるわね」
「えっ?」
はい、アウト。もう負け戦だね、これは。
伶子自身はまだ少し理解できていないようだ。
「宮内院伶子という人が今しがた出会ったばかりの御仁のことを心底信用してしまうなんて……どこまであなたは軽いのかしら?」
そこに都は追いうちをかける。
「はっ……」
やっと気付いたようだ。頬が赤らんでいるように見える。
「あなたは名にし負う宮内院家の御令嬢……それがいとも簡単にこのようなどこぞの馬の骨ともわからぬ男を信用するなんて……」
わざとらしく都は右手で口元を覆う。まるでそのような事実は信じたくはないと言わんばかりだ。もしかして都内では俳優の練習でもしていたのではないかと疑いたくなるほどの演技であるが、そこらの人は騙せても少しばかり付き合いの早い流行には嘘だとわかる。
「そんな訳ではないの……ただわたくしは……」
そこらの人がいた。随分、動揺しているようだ。「宮内院家という者の一員であるわたくしが……」などと呟く顔は青白い。流行と都のやり取りではこれくらいはいつものことなのだが、伶子には大きな衝撃を与えてしまったようだ。
少しやり過ぎだ、と非難の視線を都に向けると、当の本人もここまでになるとは思ってなかったらしくバツの悪い表情を浮かべている。それと、どうにかしなさいと目で訴えかけてもいた。自分で蒔いた種だというのに無責任な。言うことだけ言って処理の仕方がわからないなんてどうしようもない。
仕方がない。未だにショック状態に陥る伶子に意を決して話しかけてみることにする。
「宮内院さん、申し訳ないです」
そう言うと、流行は直角に腰を折る。こういう場合は素直に謝ることに限る。なぜ自分が、という疑問が思い浮かばない訳ではないが、被疑者である都が素直に頭を下げるわけなんて天地が引っくり返ってもありえなそうなので、代わりにするしかない。損な立ち位置だ。
「宮内院家の御令嬢であろう者が一般人である自分の言うことを信じてしまうというのは仕方がないことだと思います」
頭を下げたまま話を続ける。作戦はまだ続く。素直に謝るだけではこういう人種は満足しない。謝られた上にそのやってしまった行為を肯定してあげなければならない。
「なぜなら高貴な方という者は寛容でなければならないというものです。こんな自分でも信じていただける、いや、このような者でも信用に値するならば信用するという心持ちが大事なんですよ」
作戦の最終段階は持ち上げること。肯定したうえで持ち上げられてはもう気分が良くならないわけがない。言っていて何だか悲しくなるのはだが、その悲しみは忘却の彼方へと放り投げるのが得策だ。
これでOKだろ。
逆にこれで駄目なら打つ手なし。もう都を悪者にして貶めなければならないという面倒な手段に出なければならない。いや、考えてみればその方が良かったのではないだろうか。こんなに自分を下の者のように演じずに、ただ都のことを非難し続ければいいのだから。……いや、あとが怖い。それ以上にぼろくそに言われて、流行自身が立ち直れないほどまでに叩きのめされるのは必至だろう。これでよかったんだ。これで。
どうかな?
頭を下げたまま、上目遣いで伶子を見てみる。
ん? 駄目か?
俯き加減の伶子の肩が震えている。ショックのあまり涙が出そうなのを堪えているのだろうか。泣かれたら終わりだ。女の涙ほど手の負えないものはない。と、どこぞの文豪か劇作家が言っていたような気がする。
「ほーほっほ♪」
急に顔を上げたかと思うと、そんな高い声が聞こえてきた。最初、頭でもどうかしてしまったのではないかと思ってしまい、それが笑い声だと理解するのに数十秒かかってしまった。
なにこの時代錯誤な笑い方。
顎にすらりとした手を当て、笑う姿は昔の少女漫画にでも出てきそうな勢いである。
「そうですわ! あなたの言う通りですわ!」
どうやら作戦は成功も成功、大成功のようだ。あまりにも効きすぎて何だか怖いくらいだ。
「そう! わたくしは宮内院家の令嬢。あなたのような者のことでも信用出来ると判断したのならば信じますわ!」
ビシッと言う姿は先程の青白い表情とは異なり、血色がよくなり朱が差していた。随分な変わりようである。それを見て、都は呆れ顔。その上、今度は流行の方が非難の目を向けられることとなってしまった。曰く、あなたやり過ぎよ、と。どうにかしろと訴えかけてきたのは都の方だというのに、うまくやったかと思えば、責められてはどうしようもない。
「だから、あなたはその……なんでしたっけ?」
なぜこのような状況になったのか忘れてしまっているようだ。小首を傾げて、考え込んでいるようだが、思い出せそうもないようだ。なんてお嬢様だろうか。励ましていたのが馬鹿らしくなってくる。
「いえ、でも、そのようなことはどうでもいいわ。あなたはたぶん意地の悪い方だということだけははっきりとわかったのだから」
正解。それだけわかっていたら上出来だ。
「あら、そういうことになるのね。えぇ、わかったわ。そう言うのならば、ね」
ぎらり、と都の瞳が光ったように見えた。その表情は伶子の言う通りの意地の悪いものであった。
これは大変だ。
表情を見て、流行はすぐに何か悪い予兆であるのを感じ取る。このままでは二人ともに気は強いと思うので、かの有名なベトナム戦争ばりの泥沼化した言い争いに発展しかねない。ここは自分が和平交渉を行わなければならない。ただ一人でレ・ドク・トとキッシンジャーは荷が重すぎる気がするが、どうにか一人二役を全うしなければならない。
「いや、意地の悪いといったらそうだと思いますが――」
ぎろり、と睨まれた。まぁ、待て待て。これからだ。
「意地の悪さというのは誰しもが持っているものですよ」
「わたくしは持ってはおりません!」
すぐに伶子が言ってくる。宮内院さんも待って欲しいものである。
「いや、意地の悪さを持っているのではなく、意地の悪い行為だと相手に感じさせてしまうこともあるということですよ」
「どういうことですの?」
かかってくれた。
「どんなに自分が真っ当な、正当なことを言ったとしても相手にとっては嫌なことだったり、不快なことだったりする時があるのではないでしょうか?」
特に宮内院さんは。伶子は少し考える風にしながらも思い当たる節があるようで軽く頷く。よかった。自覚があるんだ。
「それは相手方から見れば意地の悪いものだと感じられてしまうのですよ。そう、主観に囚われてしまうのです」
誰だって人間ですから、と流行は両手を広げて訴える。何だか安っぽい新興宗教の尖兵のようだ。間違っても教主にはなれそうもないのでそうしておくが。
「主観……」
顎に手を当て、伶子は考え込む仕草をする。
「そう! 主観です! 宮内院さんもそういったことに心当たりがあるのではないですか?」
「そう……ね。あるわ」
神妙に頷く。
「例えば今朝のことはその類に違わないのでは?」
徐々に都に対しての話から伶子自身の話へとフェードアウトさせていく。これで忘れてくれるはずだと信じたい。
「……」
その端整な顔の眉間に皺を寄せるだけで、伶子は何も言わない。そんな表情でさえ美しく見える。なんて得な造りなのだろうか。羨ましい。自分がそんな表情をすれば、たちまち流行ごときが何を不満げにしているなどと一蹴されてしまうのが関の山だろう。それが悲しい現実である。
「車から降りた宮内院さんに向かって物凄い速さで自転車が来ましたね。その相手に対して宮内院さんは危険だ、事故でも起きたらどうするのだと叱りましたよね?」
一応の確認ということで尋ねる。すると「えぇ、そうだわ」と伶子は肯定する。
「その時の周りの人たちの反応は見ましたか?」
「いいえ、見ませんでしたわ」
「自分は見たのですが、やはりと言うべきなのですけど……まぁ、あまり良い印象では見てはいなかったですね。それこそ意地の悪いお金持ちがところ構わず一般人に当り散らすの図という感じでしたかね」
あまり回りくどい言い方が思い付かないので、そのままの表現をしてしまう。というよりは自分が最初に思った感想をそのまま述べてしまっているだけなのだが。それがわかっているのか都が「まんまじゃないの」とぼそっと言うのが聞こえた。
「そう……なの……」
凄い落ち込み様であった。意外と気にするタイプのようだ。
「しかし、自分には宮内院さんの気持ちが痛いほどわかりましたよ」
これだけではただ貶めているだけである。したがって先程の作戦と同様に持ち上げなければならない。上げたり下げたり、自分でも何が何だか訳がわからなくなってくるが、ただ持ち上げるだけでは効果が薄い。やはり下げてからの上げが一番効果的だろう。
「あんなスピードで走ってきた自転車に引かれそうになったら誰だって怒りますよ。あれでぶつかっていたらただでは済まないと思いますし、それがわかっていないんですよ。実際、自分でその状況にならなければ皆理解しようとはしないですから」
あとは宮内院家という家柄がなければもっと理解をしてくれるのかもしれ
ない。
「そうですわね」
俯き加減だった伶子の顔が少し上向いたように見えた。
「そうです、そうです。昨今、自転車による死亡事故は増え、裁判でも有罪となって何千万という賠償金請求が出たりしています。そんな時代だからこそ宮内院さんみたいにしっかりと注意できる人というのは貴重な存在なのです」
びしっ、と伶子を指差す。あまり行儀の良いものではないが、調子が出てきてしまい、もうどうにでもなれ、だ。
「そうですわ!」
がばっと顔を上げたかと思うと、指差した流行の手を両手で掴んできた。
「あなたの言う通りですわ!」
また簡単に気分が変わるもので。女心と秋の空とは言ったものである。伶子の心は常時回転する歯車のようにぐるぐるぐるぐる、と毎分のように変わっている気がする。
「あなた、えーと……お名前はなんて言うのかしら?」
ここにきて、やっとの自己紹介らしい。
「自分は流行と言います。三雲流行です」
以後お見知りおきを、と丁寧に頭を下げる。何だか楽しくなってきてしまった。
「三雲……流行……うん、流行ね」
「ん?」
しっかりと記憶に刻むかのように頷く伶子の言葉に流行は反応する。
早速呼び捨てされるのか?
「あの――」
どういうことか、と聞こうとしたタイミングでちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「あら、もうそんな時間」
チャイムを聞いて、口に手を当て驚きの表情を浮かべる伶子。
「もう行くわ! それでは御機嫌よう♪」
と言うや否や、制服のスカートの端を少しつまんで軽くお辞儀をすると、優雅に去っていってしまった。その一連の流れが滑らか過ぎてなにか返事をする暇もなかったぐらいだ。その間にも、一瞬だけ都のことを睨むのは忘れていかなかった。未だに悪魔のような、意地の汚い人間だと認識しているようだ。
「いろいろと……何だかわからん」
「まぁ、何かのフラグというものが立ったというのだけはわかったわ」
都は横についている梯子から降りてきたらしく、そう言いながら影から現れた。
「フラグって何だよ」
「さぁ、わからないわ」
ムッとしながら尋ねたが、都にひらりと木の葉のようにかわされてしまった。
「もう授業が始まるから先に行くわ」
と言うと、さっさと出て行ってしまう。
「ちょっ、なんだよそれ」
慌てて流行も後に続く。