1-3
翌日。普通に登校はしたものの授業内容はまるっきり頭に入ってこなかった。
『また明日、ここにいるわ』
その言葉がずっと頭から離れないのである。小さな受け皿にそれだけが鎮座ましまして、上から零れ落ちてくる情報という雫を受け皿の外へと弾き出してしまっていた。
何なんだ、これは。新手の呪いなのか。
考えれば考えるほど深みに嵌っていくような、そんな呪い。ただ一切の関心を投げ捨てればいいものなのだが、なぜかそれが出来ない。三雲流行の中に落合都という存在が既に確立してしまっているのだろうか。どうしても拭い切れない。
「リューコー、今日はどうする?」
「あ……えっ?」
急に声を掛けられて、変な声を出してしまった。視線の先では「なに、その反応」と四谷が笑いを堪えていた。その隣では二川も「新手の四谷対策だな」などと言っていた。知らないうちに授業が終わっていたらしい。全然気付かなかった。
「何だよ。その言い方だと流行が俺のこと面倒だって思ってるみたいじゃねぇかよ」
がしっと四谷は二川の首に腕をかける。
「あれ? 気付いてなかった?」
へへへっ、と笑う二川。
「おいおい、火に油を注ぐようなことを言うなよフタ。一応、四谷を邪魔だとは今この瞬間は思っていないから」
「ほら見ろ、フタ……って、おい! 今この瞬間ってどういうことだよ」
四谷の首からこちらの首へと四谷は乗り移ってきた。
「いや、そんなこと言ったかな?」
なぁフタ、と尋ねる。
「ううん、言ってなかったね」
邪気のない笑顔で二川はそう言い返してくる。ノリが良い。こちらの意図をしっかりと掴んでくる二川はうまい奴だ。
「俺をハメる気だな、お前ら」
人の首根っこに腕をかけながら二川の首にもかけようとするが、ひょいっと避けられてしまう。
「それよりもお腹が減ったよねぇ」
腹を擦りながら二川は言う。
「あぁ、そうだった」
こんな馬鹿なことをしている場合ではなかった、と四谷は手を叩く。
「食堂行こうぜっ!」
時計を見るともう既に昼休み開始から五分ほど過ぎていた。
知らぬ間に時間が過ぎていた。午前の授業内容だけではなく、時間の経過までも意識から流れ出てしまっていたようだ。
「あぁ……」
ちらりと外を見る。
どうするか。意識がそちらに傾く。このままでは残り半日も無駄にしてしまうかもしれない。しかし、そちらに行っても結局は時間が潰れてしまう気がする。
「よしっ! 強制連行だフタ!」
「りょーかい!」
そんなことを考えていたら両端から腕を掴まれ、無理矢理席から剥がされてしまった。
「お、おい!?」
反論の余地もくれずに二人にずるずると食堂まで連れて行かれてしまった。行く道すがらグレイと言われてしまったのは仕方がないことだろう。
♢
結局、食堂でカレーセットをしっかりと食い終わった頃には昼休みも終わってしまっていた。そのまま再び四谷と二川に引っ張られる感じで教室に戻り、授業を受けたのだが、やはり頭に入ってこない。教師に指されたにもかかわらず無視するという指名事故を三回起こすという始末だ。一度駄目だったものを何度も指すという教師の根性も見上げたものだが、それを全て無視する自分も自分だろう。
「次、移動教室だから早く行こうぜっ」
何度か丸めた教科書で頭を叩かれた痛みしか残らなかったが、どうにか授業は終わったようだ。四谷は次の授業の準備を済ませたようで、既に教科書類を小脇に抱え、席を立っていた。その隣にちゃっかり二川もいる。
「あー……」
どうするか。おそらくこのままでは次の授業を受けても脳が揺さぶられるだけで、何の得にもなりはしないだろう。このもやもやとした霧を晴らすには空に近付くのが手っ取り早い。
「先に行ってていいよ」
「またかよ」
どうしたんだよお前、と怪訝な表情を浮かべる四谷。
「ちょっと用事を思い出して」
こっちが聞きたいわ、とは声に出さないが、適当に誤魔化す。
「まぁ、いいんじゃないの。人それぞれ。早く行こうよ」
何かを察したのか、何も考えていないのか。二川はそう言うと、四谷の袖を引っ張る。
「あぁ、わかったから。まぁ、早く来いよ」
ひらひらと手の平を動かすと、そのまま四谷は教室の外まで二川に引っ張られていった。傍目から見ると恋人同士にしか見えないのはなぜだろうか。そして、それを見て、数人の女子たちが顔を赤らめたように見えたのは気のせいか。あとで気を付けろと言っておいた方がいいかもしれない。
「あぁ」
頷きながら二人が教室を出ると席を立つ。その視線はやはり上の方へと向いていた。
♢
「おいおい」
少し駆け足で屋上まで来てみると、当然の如くといった調子で都がいた。
「あら、いらっしゃい」
今回は普通にやってきたのね、と言う都は出入り口の上にはおらず、扉を開けた先の手摺りに両腕を乗せて立っていた。ふわりと長い髪が風になびく。
「ホントに授業受けてるのかよ」
二日連続でここにいられると、何だか心配になってくる。勉強が出来たとしても授業に出なければ出席日数といった点で留年という最悪の事態も免れない。おそらくそのことなどわかりきっていると思うが、どうしても気になってしまう。
「来て早々、そんなことを聞くなんて野暮ね」
隣まで行くと、同じように手摺に身体を預ける。すると、都は髪を掻き上げながらそう言ってきた。ほんのり花のようないい匂いが漂ってきた。
「野暮ってまた古めかしい」
匂いでどこか遠く異国の地にでも誘い出されそうになるのを必死に堪える。落ち着け。何を考えているんだ、と言い聞かす。
「そう? そう思うことが古いのではないかしら」
ああ言えばこう言うといった感じである。
「てか毎日来てるのか?」
「毎日と言えば毎日かしらね。違うと言えば違うのかもしれないけど」
何か含みのある言葉を言いたいのかもしれないが、いまいちよくわからない。
「ということは毎日来てるってことだな」
面倒なのでそうすることにした。すると「せっかちね」などと言ってくる。はいはい、そうですよ。自分はせっかちですよ。
「屋上の主にでもなるつもりかよ」
ふん、と鼻で笑ってやった。
「失敬ね。まだそんな年月は経っていないわ」
しかし、それが癪に障ったのか怪訝な表情を浮かべた都はそう言ってきた。というか屋上の主にはなるつもりでいるのだろうか。そこのところを否定してくると思ったのだが。見当違いのことを言ってくる。
「そしたら屋上の主というよりは魔女にでもなるつもりかい」
「それはいい提案かもしれないわね」
顎に手を添えて、都は考え込む仕草をする。冗談で言ったつもりなのだが、本気で受け取ってしまったようだ。
「ホントかよ」
「えぇ、本当よ」
だって面白そうじゃない、と不敵な笑みを浮かべる。
「いや、でも屋上にずっといたからって魔女になれるなんて話聞いたこともないぞ」
なれるとしたら地縛霊ぐらいではないだろうか。都の表情が本気のようなので少し真面目に否定してみる。
「それを誰か証明はしたのかしら?」
この展開……またか。
「誰も証明はしてないけどなれるという証明もしてない」
粗雑な反論をしてみる。おそらく駄目だろうが。
「えぇ、そうよ。だから私が実験してみるのよ」
本当に魔女になれたらいいわぁ、と言う都の瞳に浮かんでいたものは冷たく鋭い。それを見て。そんなことになったら何か恐ろしいことが起こりそうな気がしてしまったのは気のせいではないだろう。絶対何か起こすに違いない。そう確信できた。
「もしそんなことになりそうになったら絶対に阻止します」
「あら? 三雲君は私の邪魔をするというのね」
昨日の今日だというのに、と都は呟く。
「周囲の人間まで巻き込むことには無視が出来ないってこと」
「意外と善人ぶるのね」
「それは遠まわしに偽善者だと言っているだろ」
「よくわかりました」
ぱちぱち、と拍手を送ってきた。馬鹿にされているような気分に陥る。
「それはそれはどうも。一応の感謝の念を伝えておくことにするよ」
「ひねくれているわね」
「それが持ち味だから」
「あまり美味しくないわね、それでは」
「元から食べても雑食だから美味しくないわ」
「えぇ、そうね。忘れていたわ」
ふふふっ、と微笑む都。横目でそれを見ると、可愛げのある表情だが、いかんせん口の悪さの方が目立ってしまい、どこか残念感は拭い切れない。
「というか昨日、落合さんが言ってたでしょ」
「え? 何のことかしら?」
完全に誤魔化している。目が笑っていて、絶対昨日のこと覚えている顔だ。
「僕が落ちたら周囲に迷惑がかかる、他人を巻き込むなって」
「私そんなこと言ったかしら?」
ふふふっ、と都は口元を押さえ笑う。遊ばれている。
「言いました」
「そう?」
小首を傾げても駄目だ。そんな仕草をされても騙されない。他の男子ならいざ知らず、自分は絶対。
「絶対に言ったね」
「絶対とは大きく出たわね」
そう来たか。
「大きく出たって事実だから大きいも小さいもないわ」
「それを私たちとは別の、第三者が認められるの?」
何だか犯罪者を追い詰めようとしている探偵のような気分になってきた。でも、今の質問は重過ぎる。その場には流行と都しかいなかったのだから。
「それはズル過ぎるわ」
お手上げです、と流行は両手を上げる。
「わかったならよろしい」
と満足気に胸を逸らす。屁理屈女王様のご登場です。と、頭を抱えた流行。今日の主導権は女王にあるようです。というより今日もと言うべきか。
「徒雲……」
何の前触れもなしにいきなり隣からそう聞こえてきたので、思わず「んっ?」と訊き返してしまった。
「あそこ見えるかしら?」
山の稜線に向けていた視線を都の指さす空へと移す。
「雲だな」
そこには真っ青の空の中、ぽつんと一つだけ浮かぶ、小さな雲があった。
「あれは徒雲よ」
「徒雲?」
聞いたことがない。
「三雲君、知らないのかしら?」
「残念ながら。ご教授願いますか?」
そう言うと、都は仕方がないという具合に溜め息をつく。よくもまぁ、人の神経を逆撫でするのがうまいものである。少しの反抗といったら弱い気がするが「お願いします」と強めにもう一度お願いした。
「読んで字の如く、徒というのが儚いという意味なのだから儚い雲、今にも消えそうな雲のことを言うの」
都の説明の通り、その雲は薄く、まとまっているとは言い難く、今にも蒼穹の中で霧散していきそうである。
「寂しいな」
説明を聞いて、何を意識したわけでもなく、ふとそんな言葉が漏れてしまった。
「そうかしら?」
隣にまで聞こえてしまっていたらしい。
「そう思わないの?」
横に視線を移すと、都は首を振る。
「私はそうは思わないわ」
「どうして?」
「あの雲が一人漂っていて寂しいといつ言ったの?」
視線をこちらに向け、尋ねてくる。
「まぁ、言っていないわな」
「そうでしょ?」
「でも、そう言ったら寂しくないとも言っていないことになるぞ」
「えぇ、そうね」
すぐに反論したら素直に都は頷いた。
「認めるんかい」
「だってわかるでしょ?」
小首を傾げてこちらに問うてくる。
「何が?」
わかっている。わかっているが、あえて尋ねることにする。すると都は
「わかっているくせに面倒な男ね」と言って首を左右に振る。五月蠅い。聞こえているぞ。
「どうして私たちがあの雲の感情を窺い知れることが出来るというのかしら」
そういうことだ。寂しい・寂しくないと言っているのは他人が言っていることだ。それは単なる客観的な決め付けでしかありえない。そう言われている本人はどう感じているかなどわかるはずもない。
「主観的にどう思っているかなんて本人が言わなければわからないわ」
「そうだが、根本的なことを言っていいか?」
「どうぞ」
おそらく都はわかっていると思うが、あえて言うことにする。
「雲は考えることが出来るのか?」
某有名小説家のSF小説の題名を模倣したかのような言い方だが、少しそれに近付けた感は否めない。
「それを言ったらお仕舞いね」
両手を広げ、肩を竦める。しかし、すぐに都は「でも」と言ってきた。
「雲が考えることが出来るかどうかということすら雲の感情と同じようにどうして私たちが窺い知れるのかしら?」
そう来たか。何だか堂々巡りのような展開になってきた。
「それを言ったらお仕舞いでしょ」
逆に今度はこちらが両手を広げ、肩を竦める番であった。
「そうね」
微笑む都のそれはどこか意地悪気だ。楽しんでいるのかもしれない。
「結局、決めつけはよくないという金言でよろしいのかい?」
反論する言葉が見つからないのでこれ以上延ばそうとしても仕方がないと終わらせることにする。これがせめてもの抵抗である。些細なものであるが。
「よろしいわ」
大仰に頷くその感じは英国の女王のような気品さと尊大さが見えた。
「さいですか」
ふと視線を空へと移すと、もうそこにはあの雲はいなかった。何を考え、どう思っていたのか、そしてそれが実際に出来たのかどうかはわからず仕舞いとなってしまった。そして、後に残ったのは沈み始めた太陽の光だけであった。
「そろそろ終わる頃ね」
都は静かにそう呟く。
「そうだね。帰りの会には出ないんかい?」
「そうね……昨日は出なかったから今日は出ようかしら」
「そんな決め方かよ。自由だな」
「自ら由とすればそれが自由なのよ」
自信ありげにそう言われると何だか納得してしまう。どうやら知らぬ間に都のペースに毒されてしまったのかもしれない。
「まさに読んで字の如くだな」
「いいじゃないの。わかりやすくて」
「この世の中もそんな感じでわかり易ければいいんだけどな」
「えぇ、そうね」
そう頷く声は今までよりもどこか弱々しかった。
「どうした?」
思わずそう聞いてしまった。
「どうしようもないわ」
しかし、そうはぐらかされてしまった。
「はぁ、そうかい」
それ以上聞くのもはばかれたので素直に引き下がることにした。すると直前、今日の最後の授業の終わりを告げる鐘が校内に響き渡った。
「ほら、終わったわ」
さっさと行きましょ、と袖を引っ張ってきた。
「あ、あぁ……」
急にそんなことをやられたのでうまく返事をすることが出来なかった。それを見て、都は「何焦っているのかしら?」と笑う。図られた。
「焦ってないわ」
ぶん、と腕を軽く振って、袖を掴む都の手を払う。
「あら、怖い」
言葉と裏腹に都の口元は緩んでいる。何が怖い、だ。冗談じゃない。
「先に行――うっ!?」
さっさと行こうとしたら肩を掴まれた。
「私が先に行くわ」
レディファーストでしょ? と言いながら肩を掴んだ勢いで二歩先へと行ってしまう。
「おいっ」
と言った時にはもう既に扉を開いていた。
「また機会があったらここで」
と、その細い指を蝶のようにひらひらとさせると扉の奥へと消え去ってしまった。
どういうこっちゃ。
見上げると雲一つない蒼穹が静かに広がっていた。そして、その下、地上では帰り支度をし始めた生徒たちの喧騒が煙のようにそこら中から昇ってきていた。
「さて、行きましょうか」
そう呟くと、都の消えていった扉をよいしょと開けるのであった。