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クラブ・オン・ザ・ルーフ  作者: 日向 日
三雲流行のこと
2/10

1-2


「はっ!?」



「――この『鼻』というものは……どうかしましたか、三雲君?」

 三雲流行(ながれ)は、目覚めた勢いそのままで席から立ち上がってしまっていた。その視線の先には、状況を飲み込めずびっくり眼で眼鏡を直す教師がいた。二人の間には机に向かう生徒たちが整然と並び、そのうちの数人は奇異の視線をこちらに向けている。あぁ、そうだ。すぐに頭を回転させて、今が授業中だったことを思い出す。


「いえ、何でもないです」


 少し身体を動かしたくなって、と適当なことを言って流行は席に座る。教師は「そうですか」と返してくると、特に疑いもせずにくるりと黒板の方に向き直って授業を再開した。授業が現代文でよかった。授業以外には無関心の教師なので変に騒ぎ立てるよりかすぐに適当なことを言えば、許してもらえる。


「あー……は……」

 思わず欠伸が出る。完全に寝てしまっていた。春の陽気。温かな日差しと開いた窓からやって来る心地良い風、それに教師の一本調子な授業が相まって、夢の世界へと誘ってくれたようだ。周りを見ると、自分だけが旅路へと向かった訳ではなく、他にも数人船を漕いでいるのが見受けられた。これも出来るのはこの教師だからであろう。そして、先程流行に視線を向けてきた生徒たちはその中でも意識のはっきりとした猛者たちだったのである。


「これは今昔物語の――」

 こんな真っ昼間になんて夢を見たというのだろうか。最悪を通り越して、気が滅入る。考えてみればこれで何度目だろうか。今と同じ夢を最近とみに見るようになった。ただ、それも今までは夜だけだったのにとうとう日中にまで触手を伸ばしてきていた。くそっ、と流行は頭に手を添えて、先程の夢を振り払うかのように左右に動かす。


 それにしても何なのだろうか、あの闇は。顔も手足もない。瞳もなければ口もなく、鼻も耳もない。あるのはただ漆黒の存在というだけ。思い出すだけで身震いしてしまう。恐ろしい。そして、いつもあの闇はずっと追いかけて来て、光が見えたかと思うと先程のように飲み込まれてしまう。救いようのない最後。どうしようもないのか。


 はぁ、と思わず溜め息が出てしまう。澱む気分を晴らそうと、視線を外に向けてみる。流行のいるこの教室は教室棟の最上階である三階に位置しているので空に近い。とは言っても下から見るよりはいいのだが、まだまだ狭く感じられる。大きめなキャンバスに囲まれた空という感じだ。


 流行がこの春からここ市立墨屋木(すみやき)高等学校に入ってからひと月ほどになる。春もそろそろ終わりかけ、新緑の季節となりつつある。現に下を見下ろすと中庭の木々たちは緑色に染まってきている。その視線を上へ向けてみると、天辺にそろそろ到達しようかという太陽の傍に一羽の鳥の影があった。おそらくトビだろう。陽の光を浴びて、くるりと輪を描いていったかと思うと、優雅に山の方へと飛んでいってしまった。


 何気なしにその姿を目で追おうとしたのだが、すぐに隣接する管理棟のせいで見えなくなってしまう。管理棟は流行のいる棟より一階分高めに作られているのでどうしてもそうなってしまう。先程言った大きめのキャンバスは校舎によるキャンバス枠ということだ。


 追うのを止め、仕方なく黒板の方へ視線を戻そうとした時であった。視界の隅、まさにその管理棟の屋上で何かしらの影が踊った。たしかそこは立ち入り禁止のはずだったので、それもまたトビかまた別の何かの鳥かと見間違えたのだろうと思ったのだが、違っていた。再び影が動いたのだが、その大きさが鳥のそれとは異なり、手足が生えており、人の影の形をしていた。


「へぇ~」

 関心とも感嘆ともつかぬ流行のその声は教師の声と筆記の音しか響かない教室の中では存外に大きな音だったようだ。


「どうしました?」


 再び教師が黒板からこちらに視線を向けてくる。くいっ、と眼鏡を上げる仕草の奥には怪訝な表情が浮かんでいる。二度目となると警戒されるのも仕方がないか。


「いえ、すいませんでした」


 すぐに座ったままだが流行は頭を下げる。「そうですか」と疑いつつもすぐに何事もなく授業を再開してくれた。それを確認すると、流行もまた視線を外へと戻す。

 行けるんだな。

 そう心中で呟く流行のこころのそれは微妙にざわついた。


                 ♢


「いきなりどうしたんだよ」


 チャイムが鳴り、授業が終わると、前に座る友人の四谷がニヤついた表情を浮かべこちらに身体を向けてきた。何やら面白い回答を望んでいるようだ。


「どうしようもないさ」


 しかし、その要望に流行が応える義務はない。


「おーいおい、どうしたのさ?」


 そこにもう一人の友人である二川がやって来た。


「どうしようもないってさ」


 両手を広げ、おどけた調子で四谷は言う。「どうしようもないかぁ」と言いつつ二川はえへへっ、と笑っている。特に興味はないようだ。


「まぁ、俺は次のテストがどうしようもないけどな」


 と、四谷は胸を逸らして言う。そんな自慢げに言われても残念ながら呆れる事しか出来ないので「あぁ、残念だな」と返しておく。


「おぉ、壮大」


 ぱちぱちぱち、と二川が四谷に賛辞を送る。もうこれは天然なのかキャラなのかわからなくなってくる。


「まぁ、そうだけど」

「認めたよ、こいつ」

「あぁ……そうだな」


 一応、流行は相槌を打っておく。


「おい、リューコーどうしたんだよ?」


 急に四谷が人の肩を叩いてきた。


「どうしたって何が?」

「何がって全然人の話聞いてねぇじゃんかよ」

「えっ?」

「聞いてないねぇ~」


 しかめっ面の四谷の隣で二川が笑っている。本当に笑ってばかりいるやつだ。楽しそうで何よりということか。それを見た四谷に「うるせっ」と頭を叩かれても「ナイス叩き!」などと言ってまた笑う。どうしてそうまで笑っていられるのだろうか。羨ましい限りだ。そんなに楽しく生きられたらどんなに嬉しいものか。いつか暇を見て、聞いてみるか。聞く時間があったらだが。


「おいっ!」


 四谷のデコピンが眉間に食い込む。勢いが良過ぎて頭全体が後方に押し出される。


「あぁ、何だっけ?」


 少し腫れたおでこを擦りながら流行は言う。


「はぁ~」


 お手上げ状態といった感じで四谷は肩を竦ませる。それに呼応して二川も苦笑いを浮かべている。


「こりゃ駄目だね」

「あぁ、どうしたものかね。完全に上の空、どっかに意識が飛んでるな」

「そうだね」


 二人で頷き、納得し合う。どこか置いてけぼりにされた感が否めない。どういうことかと思った瞬間、チャイムが鳴る。二川はさっさと自分の席に座り、四谷もくるりと黒板の方へと向きを変えていた。


「よしっ! 授業始めるぞ!」


 そんな大声というか叫び声と共に教室の扉が開かれ、体格の良い数学教師が入って来た。


                ♢


 授業は滞りなく進んでいき、四時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。するとそれが合図だったかのように黙々と授業を受けていた生徒たち皆に一斉に命が吹き込まれる。


「流行、食堂行こうぜ」


 素早く席を立った四谷の後ろには既に二川も控えていた。早く行きたいらしく、二人共そわそわしている。


「いや、今日はちょっと用事があるから先に行ってていいよ」


 そう言いながら流行は机の上にある教科書などを引き出しの中へ入れていく。


「そうか。まぁ、終わったら来いよ」


 と四谷が言い終わらぬうちに二川は「じゃあ行こう」と四谷の袖を引っ張って教室を出て行ってしまった。よかった。余計な追及をされずに済んだ。余程、早く食堂に行きたかったのだろう。まぁ、早く行かなければお目当てのセットも手に入れられなければ良い席も確保できないからだろう。即断即決。気持ちの良いぐらいだ。


「あぁ、たぶんね」


 そう呟くと同時に流行は窓から上を見る。相変わらず先程と同じ風景が見えるが、空を飛ぶトビと屋上に見え隠れしたあの人影だけは見えなかった。


 教室の中は既に弁当組の連中で騒がしい。そのうち購買組が戻ってくるので、これがさらに騒々しくなるだろう。その隙間をかいくぐり、外に出ても変わらず喧騒は流行を包んでいく。しかし、その喧騒の中を歩く自分はそこには含まれておらず、どこか違う場所にいるようであった。まるで自分だけが学校風景という場所から切り取られているかのようなそんな錯覚に陥る。それはもしかしたらこころの奥底の何かが見せる幻影なのかもしれない。


 そのうち渡り廊下に差しかかる頃には、喧騒も徐々に消え去っていき、かつん、かつん、と響く自らの足音だけが耳の奥で響き渡る。それだけだと何か悟りの境地でも開いてしまったのではないかと思ってしまうが、それに合わせて、何か得体の知れぬ何かがぬらぬらと蠢き始める感覚がそんな高尚な場所から意識を現実よりも奥深くへと堕としていく。


 教室棟の三階から渡り廊下を抜け、管理棟へと入ると、人の姿は完全にいなくなった。生徒たちはほとんどの場合、移動教室や教師たちに何か用がある以外ではこちらまで来ず、ここの主な居住者である教師たちもそれぞれ担当の準備室などに引き上げ、そこで出前や手弁当で食事を取っているため昼休みとなると閑散としてしまう。いるとしたら用務員室にいくらかいるぐらいだろう。


 そのせいで管理棟の中は空洞が目立ち、自らの足音はさらに鼓膜内で響くようになる。と同時にこころの何かは重みといおうか気持ち悪さといおうか、その存在感を増してきた気がする。


 そんな違和感を覚えながら四階まで行き、屋上へと続く階段へと差し掛かると、足を止める。見上げると、外へと通ずる扉が見え、付いている小窓から淡い光が漏れ出ていた。その光は薄ぼんやりとした校内に慣れていた眼球に焼き付き、一瞬、目を細めるが、すぐに階段を昇り始める。


 二、三段昇ったぐらいでふと足を止める。


 思い出したくもない夢の記憶が鎌首をもたげてきた。おそらくいないはず。おそらくいないはずなのだが、振り返ることが出来ない。振り返った瞬間にその何かがいるいないに関わらず、ただ振り返るという行為をしただけで、その存在を認めてしまうかのような気になってしまう。いるはずがない。いや、そんなものはいない。

 

 そう自らに念じると、再び階段を昇り、光の射す方へと向かう。しかし、最初はゆっくりとした足取りで昇り始めていたのが、知らず知らずのうちに足早となっており、かんかんかん、と小気味良いリズムを刻みながらすぐに昇り切ってしまった。


「ふぅ……」


 扉の前まで来ると、思わず息を吐く。部活動はしておらず、また他に運動などもしないのでこういった階段の上り下りといった少しの運動でも息が上がってしまう。少し運動した方がいいかもしれない。


 ふと、時間が気になり制服のズボンのポケットに入っている携帯電話を取り出した。ここまで教室からそう遠くはないのだが、気持ち的には随分時が過ぎてしまっているかのように感じたのだ。しかし、液晶画面で時間を確認してみると昼休みが始まって五分ほどしか経っていなかった。


 そういうオチか、と携帯電話を中に戻す。重力に引っ張られ、携帯電話一個分の重さが再び身体にかかる。本来の重さよりも重く感じてしまう。危うく後ろに倒れそうになる。どうしたのだろうか。


 そんな感覚に一瞬の揺らぎを感じつつもそれを拭いきろうと、右手をドアノブに伸ばす。学校側の配慮も空しく、頻繁に使われているようで捻ってみると予想通り簡単に回り、かちゃ、という小さな音を立てて扉は開いた。さっき見た人影が結構来ているのだろうか、それとも他に来ている者でもいるのだろうか。と、一瞬考えてみたが、そんな疑問もすぐに霧散していく。


 扉を開けた瞬間、光の渦が瞳の中へと雪崩れ込み、網膜が真っ白い世界へと落ちていき、その後、戻った視界の先に広がったのは自分の住む街並みだった。


「ほぉ……」


 思わず感嘆の声がもれてしまった。


 流行の立つ校舎は街の高台に建っているので、そのおかげで街全体が見渡せ、街を囲む山の稜線まではっきりと見えた。素晴らしい風景であった。だが、一番流行の目を引くのは澄み渡る蒼穹であった。初夏の空はそれだけで眩しいぐらいに光り輝いて見えた。授業中に見たものとは段違いだった。


 盆地に位置するこの街は山に囲まれ、下界にいるとどこか鳥籠のようなイメージに陥ってしまっていたのだが、いま目の前に広がるそれは何に縛られることもなく、ただ自由に広がっていた。なぜ今までそれに気付かなかったのだろうか。気付かなかった自分がどこかもったいないような情けないような気分に陥ってしまう。


 ざっ、ざっ、とコンクリートと靴底の擦れる音が聞こえて初めて自分が歩いていることに気付いた。のろのろとした動きだったのか、入口からはそんなに離れてはいないようだが、そんなことはどうでもよかった。そんなことなどお構いなしに足は勝手に前へと進んでいる。


 あぁ。何だろうか。


 空へと近付いていくごとに心の底にあった何かが軽くなっていくような気がする。そして、そのうえ五感に彩りを感じ始めた。目の前を優雅に漂う雲、肌を熱する太陽、安らぎという匂いを運んでくる風。地上で感じる人工物の押し寄せる波とは異なる自然物の優しい波が流行という存在を包み込んでいく。


 そっちに行けるのか。


 最初はのろのろとした歩みもそのうち徐々に速度を上げ、既に眼下に見える道行く人と同じものとなっていた。


 行きたい。


 目前にはもう手摺が迫っている。しかし、流行はそのことに気付いていない、というより意に介していないように見える。ただそこに広がる世界へと着実に歩を進めていくだけだ。


 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、と歩みは止まらない。


 そして、とうとう手摺まで辿り着いてしまう。もう先はない。


 さも当然のように流行はそこに手をかける。それは道の反対側にいる知り合いのところへ行こうとガードレールを乗り越えるかのような自然な仕草で。流行には先が見えているのかもしれない。そうとしか感じられないほどである。


 行こう。


 そして、かけた手にグッと力を入れ、身体を持ち上げようとした瞬間であった。



「止めておいた方がいいのではないの?」



 彩りに満ちた風景を切り裂くかのように冷たい言葉が空から堕ちてきた。


「何をだい?」


 ゆっくりとした動作で振り向いたときには通常の感覚へと戻っていた。思った以上に切り替えが早かった。


 誰だ?


 通常運転へと移行した流行の視覚が捉えたのは昇降口の上のちょっとしたスペースに寝転がる人の姿だった。こちらが太陽を背にしているのではっきりとその姿は確認できるが、いかんせん高いところに寝転がっているので見えるのはだらりと垂らした両足だけだ。


「というかそれだと見えるよ、下着」


 だからよくわかった。声を聞いただけでも何とはなしにわかっていたのだが、これで女子生徒だということがはっきりと確信した。一陣の風が吹いたならばそれはもうただの風ではなく神風となるのだが、内に秘めたる理性という神はそれを許してくれないらしく、無意識のうちに視線は明後日の方向へと移していた。


「その手摺を越えることよ」


 忠告も空しく、無視されてしまった。見えようが見えまいが関係ないらしい。それはそれでけしからん気がしない訳でもなく、再びの衝動の原動力にもなりかねないが、一度目を逸らすと元に戻すにも勇気が必要となってくるので、泣く泣く諦めることにする。


「どうしてだい?」


 理性に負けた流行は身体の向きを戻し、手摺に寄り掛かる。そして、行き場を失った自らの視線を山脈の向こう、遠い虚空へと向ける。


「被害者が幾人か出るからよ」


 声の聞こえ方からして未だに少女は身体を起こそうとはしていないようだが、その声は少し離れた流行の耳にも届く程によく通る声だった。それは力強いというより鋭いと言った方がいいかもしれない。向けた相手だけに深く突き刺さるような、そんな感じであった。


「随分な言い方だね」


 あまりのストレートなもの言いに流行は軽く吹き出してしまった。優しさもへったくれもないその言葉が流行にとってあまりにも新鮮なように聞こえてしまった。


「だってそうでしょ? あなたがそこを越える。すると、まずは下に誰か他の生徒あるいは教師もしくは犬とか違う動物かもしれないわね。その誰かがいて、落ちてくるあなたとぶつかる可能性があるわ。それに助けを呼ぶ人やその場を収拾する人、救急救命士や警察官、あなたのご両親や親戚、それにこれが一番大事なことだけど目の前で目撃していた私までも巻き込まれることになるわ」


 警察の実況見分やら教師や御両親たちへの説明なんて私はまっぴらごめんよ、と悪態までついてくる。向きを変えてしまったので、顔はおろか姿さえ見えないが、おそらく苦虫を潰したかのような表情でもしているのだろう。何かもの凄く怒られている。普通こんな状況なら命に関することについて懇切丁寧説明しようとするはずなのに。


「結局のところ自分への害を被りたくないだけかい」


 相手が歯に衣着せぬ物言いならば流行も受けて立つことにする。


「えぇ、そうよ」


 あなた人のこと言えるのかしら、と少女は付け加えてくる。その言い方には言葉とは裏腹にどこか優しさを感じられた。褒められているのだろうか。


「あなたごときに時間を割くのは面倒だわ」


 やはり先程の考えは訂正しておくことにする。


「おいおいおい。それが初対面の人に言う言葉なのかい」


 流行は天を仰ぐ仕草をする。あぁ、空は青いが、日差しと共に無機質な鋭い言葉が流行の心を突き刺してくる。屋上に来て、数分も経っていないのにノックダウン寸前で息も絶え絶えだ。


「今まさに歩みを止めようとしていた人に優しさを与えるような優しさを持ち合わせていないだけよ」


 にべもない。ばっさり切り捨てられた。


「歩みを止めようとしていたなんてまた回りくどい言い方をするね」


 少し意地悪めいたことを言ってしまったかもしれない。


「あら、私、回りくどい言い方するような優しさは持ち合わせてはいたよう

ね。私って素晴らしいわ」


 自画自賛。相手の方が一枚上手のようだ。


「それよりもあなた急に私が話しかけても普通に会話を続けるなんてどれだけ常識はずれなのかしら。普通は慌てふためいて、喚き散らすはずよ」


 至極真っ当な質問であるはずなのに文面が完全に凶悪めいている。


「それは申し訳なかったね。放られたら返したい性分なんで」


 流行はシュッと振り被る。放たれた見えないボールは弧を描いて後方へと流れていく。


「面倒な性分ね」


 気になって少し首を動かして横目で後ろを見たが、細い腕が何かを払うかのように動いていた。どうやら弾かれてしまったようだ。残念。


「でも、キミもそう言いつつ返してくれるじゃないかい」

「しょうがなくよ」

 

 流行の言葉に被り気味で返ってきた。それも否定という棘を御丁寧に巻きつけながら。


「さいですか。それはどうも御親切に」


 軽く首だけを動かして流行は感謝の意図を伝える。そこらのチンピラがしそうなあの感じだ。


「あまり感謝の念が足りないような気がするわ」


 すぐに食いついてきた。


「これでも十分な感謝の気持ちは心のうちに秘めているんだけど」


 叩けば響くそんな感じがどこか心地良くなってきた。


「秘めずに開放なさい」

「安い占い師みたいだな」


 今にも高い壺やらをおしつけられるか、半端ない祈祷料をふっかけてきそうな勢いだ。流行がちょっと傷心気味な内気な少年ならイチコロかもしれないが、残念ながらこんな調子なので早々騙されるようなことはない。


「占い師みたいというのは聞き捨てならないわね。そんな当たり前のことし

か言えないような輩と一緒にしないでくれる」


 安いという形容詞ではなく、例えた職業の方に難癖をつけてくるのか。


「占い師だって少しは的を射た意見も言うときはあるだろ」


 たぶん。実際、占ってもらったことはないので流行としては何とも言えない。クラスの女子が時折「墨屋木の母に占ってもらった」や「商店街にあるビルの地下でひっそりやっている陰陽師が超当たる」などの話を聞いたことがあるだけだ。それを聞いて、周りの女子は「行く行く!」などとはしゃいでいたが、流行はわざわざ足を運ぼうなどとは思った試しがない。……そう考えると信用していない点というところでは少女と同意見だということに気付かされる。


「本当にそう思うの?」


 その問い掛けに流行は素直に頷くことは出来ない。


「あー……まぁ、いいだろ。そんなことは」


 逃げを選択。あからさま過ぎて反吐が出そうだ。


「図星ね」


 少女は遠慮なく的を射てくる。


「それよりもキミ何て名前なの?」


 今更と言った感じの質問を投げかけつつ流行はくるりと身体を少女のいる方へと回す。もう理性などこの短いやり取りの中でどこか遠い岸辺へと追いやってしまった。早く神風よ来いというぐらいだ。


「人に名を聞く時は、まず自分の名前を名乗るべきじゃないかしら」


 定型文のような言葉が返ってきた。少しは予期していたが、まさか本当に来るとは思いもしなかった。思わず口元が緩む。


「そうだね。悪かった」


 と謝りつつ流行は自己紹介をする。一年八組三雲流行です、と。


「どうぞよろしく」


 わざとらしく手を前にやって腰を折る。中世の気障な紳士がやるようなあの挨拶の仕方だ。ただ見様見真似なので見れたものではないだろうが。現に「下手ね」というお言葉をいただいた。容赦がない。


「それでキミは?」


 流行は全体重を柵に預ける。錆の目立つ柵ではあったが、急に外れる心配はないだろう。


 何を言っているのか。


 ふと、ここでそんな考えをする自分に苦笑いを浮かべてしまう。さっきまで柵の向こう側へと行こうとしていたのに今では落ちる心配をしているなんて。その表情に気付かれたのか「名乗らなくてもいいの?」と鋭いご指摘をもらってしまう。


「いや、お願いいたします」


 再び流行は深く頭を垂れる。こういう場合は大袈裟な方がいい。すると「そう。わかったわ」と素直に応じてくれた。


「私は――」


 そこで言葉を切ると、少女は垂らしていた両足を天に向けて、勢いよく持ち上げた。あまりの速さでスカートの奥に潜む花園への扉を拝むことは叶わなかった。無念で仕方ない。そんなことを考えていると、一直線に伸びた脚線は上がったときと同じ速度で地へと降りていく。同時に振り子の原理で今まで隠れていた上半身が流行の視界へと入ってきた。来るとわかっていながらもまた拝むことが出来なかったのが悔しい。……これではただの変態ではないか。理性が瞬間、脳裏に過ぎる。まぁ、いいか。過ぎってそのままどこかに走り去ってしまった。


「落合(みやこ)。あなたと同じ一年でクラスは七組よ、三雲君」


 腰までありそうな長い髪をかきあげつつ、その細い足を組む都はその艶めかしい唇を動かした。黒いヴェールの隙間に浮かぶ顔は整っており、真っ直ぐな鼻筋に切れ長の瞳などはまさに性格そのもののようであった。和風美人という感じだろうか。可愛いというのではなく、美しいという表現がしっくりとくる、そんな印象を受けた。


「どうも」


 思った以上の相手であった。こんなところにいるのだからあまりよろしくない部類の方かと思いきや、あの落合都であったのだから。何某は高いところが好きなどと言った者は反省すべきである。なぜならいま目の前にいる女子は墨屋木高校では相当な有名人であった。


 入学試験は学年トップ通過。この前の中間試験も当然の如く学年一位で頭が良く、さらにこの容姿である。入学した時点で墨屋木高校に黒船、都内から引っ越してきたということで田舎から見たら都内は外国である、がやってきた、当然殿堂入りなどと上級生から言われるほどであった。入学してまだ二カ月ほどだが、既に数十人の男子生徒から告白されていると四谷が言っていた。四谷はこういう噂話を集めるのが得意らしく、嬉々として話してくるのだ。それも同級生だけではなく、上級生からも言い寄ってくるようで、その中には現役サッカー部の主将やバスケ部の主将など学生生活の中でも一、二を誇るメジャー部活の錚々たるメンバーたちもいたらしいが、全て負け試合を被ったようである。現に今も一人でいることからわかる。今では誰がこの落合都を落とせるか裏で賭け事めいたことまでしている輩もいるらしいというのを小耳に挟んだことがある。


「こちらこそ落合さん」


 最初の戸惑いはどこ吹く風で流行は普通に返す。たぶん相手が相手なだけに何かを期待できるようなモノでもないと知らぬうちに認識してしまっているのだろう。戸惑いとは自らの心に相手への何らかの思惑あってのことで生まれる物であって、無理無謀だと理解してしまっていると現れもしないものだ。


「つまらない」


「えっ?」


 思わず変な声が出てしまった。


「さっきもそうなのだけどあなたって反応がつまらないわね」


 ぶすっとした感じで都は頬を膨らませる。どこか可愛げのある仕草だが、目が恐ろしく鋭い。こうも二律背反したものが一度に一つの表情に存在することが出来るなど思いもしない。


「つまらないって別に楽しませようなんて思ってもいないのですが」


 ぽりぽり、と流行は頭をかく。どこぞの令嬢の我が儘だろうか。


「その感じがつまらないわね」


 気に障ったようだ。


「すいませんね。これが普段通りの三雲流行です」


 と、大仰に両腕を広げて自分の姿を披露してやった。自分で言うのも何か悲しくなってくるが、特に目立ったところのない中肉中背、パッとしない姿だ。ドラマなんかではたぶん生徒Iぐらいが関の山だろう。


「その普段どおりっていうのが、まさにつまらないわ」


 またまた気に障ったようだ。普段どおりっていうのは素晴らしいものだと思うが。そしたら変なテンションで会話でもしてやろうかと思ってしまう。そしたらそれはそれで今よりさらに冷たい、極寒な視線で射られてしまうのだろう。


「何がそんなに御不満で?」


 もうお手上げ状態だ。御教え頂く他にない。


「……そうね」


 言おうか言わまいか逡巡している様子である。つまらないと連呼するのだから理由を言ってもらわなければ直しようもない。というよりなぜ自分が態度を改めないといけないのか理不尽極まりないが、どうのこうの言っても仕方がない気がしたので従うことにする。それにもったいぶられると気になってしょうがないという事もある。悲しいかな、少々、好奇心旺盛なのだ。


「まぁ、いいわ。教えてあげる」

「それはどうも」


 一応、礼を言っておく。


「前もって言っておくけど、別に私は個々の能力や容姿などを誇らしげに他人に見せつけたりするといった類のことは嫌いだということはその頭に入れておいてもらえるかしら」


 その容姿と学力を持ってそれを言いますか。もうその時点で誇っているように感じてしまうのはおそらく自分の性格が卑屈か捻くれているからだろう。


「まぁ、わかったよ」


 自分のそういった考えはこころの奥底まで飲み込んで、一応わかったようなふりをして頷いておく。


「あまりわかっていないような気がしないでもないけど……まぁ、いいわ」


 納得していないご様子。初対面ということなのに信用してもらおうとしていること自体、無理があるということか。そんな条件でよくここまで喋り続けていたということが奇跡に近い気もしないでもない。


「単刀直入に言うけど、私とそう普通に会話できるということ自体がつまらないわ」


 随分な物言いである。高飛車という言葉は彼女の為にあるのではないだろうか。


「誰だって普通に会話は出来るだろうに」


 何を言っているのか。その時は何もわかっていなかった。


「誰だって普通に会話は出来ないわよ」


 その時に見せた寂しそうな瞳は先程までの鋭さはなく、緩やかに吹く風に吹き飛ばされてしまいそうであった。


 どういうわけだ、まったく。


 何かを言おうにも何も思いつかない。うまく言葉を紡ぎ出すことが出来ないと言った方がいいか。頭を掻き掻き、どうしたものか、と考えているうちに都の瞳は再び鋭さを取り戻していた。


「終わりね」


 と都が言うと同時にタイミングよくチャイムが鳴る。昼休みの終了を告げる鐘の音であった。校内にいるよりもよく響く。


「鳴ったけどまだ落合さんはここにいるのかい?」


 鐘の音で都から流行へと纏わりついてきたどろりとした感覚が晴れて、いつもの調子に戻った。


「えぇ、そうね。もう私は早退したことになっているから」


 何の躊躇もなく、そう断言する。


「教師には言ったのか?」


 しかし、あからさまな嘘だということは理解できる。


「いえ、私がいま決めたわ」


 やはりというべきか。潔過ぎる。


「おいおい」

「私が私自身のことを決めるのは至極真っ当なことではなくて?」

「とは言ってもなぁ」

「授業に出ないという選択肢をして教師は何一つ困ることはないわ。実際に私だって予習はしてあるから出なくても大丈夫だと思っているのだからよいでしょ。それに受けなくても今日の範囲はとっくの昔に終わらせているわ」

 

 というよりもっと先まで済んでいるけど、と余裕のコメント。羨ましいですわ。


「それよりも三雲君。キミこそ大丈夫なの?」


 細長い人差し指をこちらに向けてくる。


「話を逸らしたな」

「そうね。でも私は授業に出ないことを決めたわ。キミはどうするの?」

「あー……」


 先程のコメントを聞いた後だと何とも言えない。学力は中ほど、いや少し盛ってしまった。本音を言うと、中の下ほどか。そう考えると、授業に出ないことによる影響力を鑑みてしまうが、そうは言っても授業に、それもたった一度出るか出ないかで何か変わるだろうかとも考えてしまう。それぞれ天使と悪魔が脳内で囁きかける。


「そこまで考える暇があるのなら早く行った方がいいのではないの?」


 うーん、と思い悩む流行に的を射た意見を突き付けられてしまう。思わず「正解」と言ってしまった。


「そう思うなら早く行きなさいよ」


「わかりました」


 と言葉では素直に従うことにしたのだが、どうにも足が動かない。手摺から背中だけは離したのだが。


「どうしたの? 早くしないとどんどん授業は進んでいくわよ。それにつれ、キミの順位は下降の一途を辿っていくことになるわ」


 そんな流行に都は容赦ない言葉を浴びせてくる。


「いやいやそれは言い過ぎでしょ」


 それに対して流行の口は勝手に動いていた。


「どうして? これでもオブラートに包んで言ったのだけど」


 しれっとそんなことを言う。


「いやいやオブラートなんか一ミリも見えませんけど。逆に釘とか混入しているから、それ」


 これが現実であったらもう全国ネットで放送されるレベルだと思うほどのインパクトだ。


「そう? なら言い直すわ。授業が進むにつれ、キミは退学という現実を突き付けられて、泣きながら両親に泣きつくことになるわ」


 表情も変えずにそんな恐ろしいことを言ってくる。先程会ったばかりだというのに本当に容赦がない。


「全然、直されてないよね、それ。混入レベルじゃなくて、それもう思いっきり釘が飛び出しているよね。それも尖っている部分が外に向かっている感じでぶすぶすっと」


「えぇ、そうよ。それが狙いだもの」


 ヤラレル。これはもう完全に精神的にやられるパターン。


「おいおい。僕が何をしたっていうんだよ」


 両手を広げ、意味がわからないといった感じで問い掛ける。


「わからないの?」


 ジッと見つめられる。


「うーん……いきなりちょっかい出したから?」

「そうね。考えてみればそれも一理あるわね。私の昼寝の時間を完全に潰されたわけだし」


 でも違うわ、と都は首を振る。


「そしたら何だろう?」


 スカートの中が見えるように神風を望んだことだろうか。それだといろいろな意味で終わる。


「それもある意味、キミを消してもいい口実にはなるわね」


 心を見透かしたかのように冷たい視線が流行を射ぬく。


「……わ、わかりません」


 ぱりん、と何かが砕け散ったような気がした。プライドか反骨心か捻くれた心か、何かわからないが、そのおかげで素直にはなれるらしい。


「素直でよろしい」


 なぜか褒められてしまったので「それはどう致しまして」と一応、感謝の言葉を述べておくことにした。


「それで答えは?」

「さぁ?」


 間髪入れずに、その細い首を傾げ、逆に尋ねてきた。


「えっ?」


 思わず声が漏れてしまった。どういうことか一瞬理解出来なかった。


「どういうことかしらね」


 何か含みのある笑顔を返してくるだけで、本当の事を教えてはくれないようだ。何か弄ばれているかのようで、居心地が悪い。


「実は自分でもわかっていないんじゃないか?」


 探りを入れるために聞いてみる。


「そうなのかもしれないわね」


 また口元だけを動かし微笑む。それがまた似合うから小憎たらしい。


「何だよ、それ。まぁ、いいや」


 どう聞いてもおそらく教えてはくれなそうなので早々に諦めることにした。どうせ負け試合だ。四谷や二川にするようにいつも通りの感じで都に喰い下がっても意味ないだろうという早い判断。我ながら良い判断ではないだろうか。


「引くのが早過ぎるのではないかしら?」


 つまらない、といった風に首を左右に振る。どうやらもう少し喰い下がって欲しかったらしい。そう何度も都の手の平の上で踊るほど馬鹿ではない。というかそんな体力はない。


「三十六計逃げるに如かず、ってね」


 昔の偉人はいいことを言う。困った時には逃げるのが得策だ。


「あら? でも、三十六計もありながら逃げるというただ一つの計にばかりに頼っているのでは本当にそれが得策なのかなんてわからないのではないかしら?」


 遠まわしに臆病者だと罵られているようだ。まぁ、たしかに逃げの一手ばかりの人生だが。


「三十六計もあって王さんがそれをチョイスして言っているんだから得策と言うべきではないかな」

「それは王敬則に全ての判断を委ね、自ら思考することを放棄していると取っていいのかしら?」


 痛いところを突いてくる。


「思考を放棄しているのではなくて王敬則という人物を信頼していてその考えに自らも賛同しているということだから全部を全部、王敬則に委ねているわけではないでしょ。王敬則の言う三十六計のうち逃げる事が得策であるという判断を良い判断だと自分が判断したわけだから」


「詭弁だわね」

「詭弁であるね」

「認めるのね」

「認めるよ」


 オウム返しに言ったことをしっかりと返してやった。


「ということは負けを認めたのね」


「随分、飛躍するね。でも、負けは認めてないよ」


 ちっちっち、と人差し指を左右に振る。一瞬、音楽室のグランドピアノの上にいつも乗っかっているメトロノームを思い出した。あれはずっと見ていると動きが単調過ぎて催眠状態に陥ったみたいになる。どうやら自分の脳内の方が飛躍しているらしい。


「なぜ?」


 都は少し笑みを含んだ表情で言う。


「だって勝ち負けの勝負を今現在しているとは思っていないから。勝負事は互いに勝ち負けを意識した時点で起こりうることだと思うからね。万が一、落合さんが意識していても僕が意識してなかったからそれはたぶん俗に言う独り相撲をしていたということになるんじゃないかな?」


「それもまた詭弁ね」

「そう。これもまた詭弁です」


 ぱちん、と指を鳴らす。そのまま人差し指で都を指差す。


「堂々巡りじゃないの」


「そう。これは堂々巡りだよ。ぐるぐるぐるぐる……一見、しっかりとしたような話のようで本質的には同じような事を繰り返して言うだけのこと」


「そう……」


 ふふふっ、と都が笑ったかのように見えたが、一瞬吹いた風で目が眩み、よく見えなかった。


「それならせいぜい目を回さないようにしなければね」


 風で乱れた髪を直しながら都は言う。


「そうだね。そしたら半規管をしっかりと鍛えておかないといけないな」

「あら、三雲君はそんなに弱いの?」


 都は人のことを馬鹿にしたような表情を浮かべる。


「まぁ、キャスター付きの椅子でくるくる回ると常人並みに吐き気を催すことは出来るさ」


「自分のことを常人並みって言うのね」


 何がおかしいのか、口を押さえて笑い始めた。


「何がおかしいのさ」

「いえ、わからないのならばいいわ」


 遠くて見えないが、目に涙が溜まっているようだ。それがそこまでおかしいのだろうか。意味がわからない。


「何か馬鹿にされたような気分なのだけれども」

「いいえ、馬鹿になんかしていないわ。ホントに」


 くくくっ、としなやかな身体を白い両腕で抱きながら言われても何の説得力もない。


「ふん、まぁ、いいさ」

「そう、それでいいのよ」


 都は細い指で目頭を押さえながら言う。


「そうかい、そうかい」


 怒りとも悔しさとも言えぬ何とも理解し難い感情が意識を支配する。この感情について思考するのもいいのかもしれないが、今はこの落合都という存在を相手にしようと思った。これは四谷や二川、当然の如く他のクラスの生徒や教師、家族にさえ抱いたことのないものであった。まぁ、いいさ。おいおい考えることにしよう。今は都に対してどううまいこと言えばいいのかが大事だ。


「自暴自棄になったら終わりよ」


「自棄になんてならないさ。適当に言うだけだ」


 ぱん、と手を叩く。さぁ、リスタートだ。もう授業なんてどうでもいい。糞くらえだ。


                 ♢


「もう暗くなってくるな」


 どれくらい話していたのだろう。柵に組んだ腕を乗せた姿勢の流行の視線の先には山の向こう側へと沈みゆく真っ赤な太陽だった。


「あの太陽は次に照らすのはここの裏側ね」


 おそらく都もまたその瞳に輝く太陽を映し出しているだろう。


「その次にまたこちら側に来てくれるさ」

「……そうね」


 その言葉はどこか虚しい響きを持ち、赤黒く染まる空に霧散していったというのに流行の耳の中で長く残った。


 そして、数分の沈黙。


 考えてみれば昼休みからずっと喋っていて、ここまで声を発しなかったのは久方ぶりに思えた。互いにあることないことを適当に話を振って、ある程度までいったらまた適当な話題に飛んでといった具合に延々と。疲れたとは思わない。実は自分は話好きだという可能性を感じさせるほどだ。


 そうこう考えているうちに夕日は山の稜線に消えようとしていた。もうそろそろか。


「帰るかな……落合さんは?」


 くるりと身体を出入り口の方へと向ける。もうそちらの方は暗闇が支配していた。空には星と月。地には家々の灯り。しかし、どんなに明るくとも闇が一層濃くなるだけだ。


「そうね。もう少しだけ見てからにするわ」


 そう言うと、都はこちらに背を向ける。視線の先に映るのはたぶん流行の見たものと同じだろう。


「そうか。ならお先に」


 見えていないと思うが、一応手を上げる。そして、扉の方へと足を向ける。


「えぇ」


 どこか物足りないような生返事だ。もう意識はあちらに引きこまれたか。少し残念な気持ちでドアノブに手をかけ、回した。


「また――」


「えっ?」


 急に耳元に落ちてきた言葉。


「また明日、ここにいるわ」


「あぁ……また、明日」


 かちゃん、と静かな校舎にアルミの扉が閉まる音が響き渡った。



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