5
急所は外れていた。だが年老いた肉体でこれだけの失血には耐えられないだろう。死ぬのは時間の問題だ。
ギムリがアンソニーに通じていたと聞かされても、ニコラには信じられなかった。
だって、このジジィはただの酒飲みで厭味ったらしい、偏屈の年寄りだ。
「この街はな……風が止まないんだ」
残された時間で何かを伝えようとするように、傍らにしゃがみこむニコラに向かって――あるいは、老人にしか見えない誰かに――話し続けた。ぜぇぜぇと息を切らしながら、途切れ途切れに、老人は語る。
「精霊様の祝福だか何だか、うさんくせぇ話さ。だが実際、風は何十年も止まなかった……アンソニーの野郎が来てからさ。この街が金と暴力に支配されて、誰も俯いて空を見上げなくなってから、風は吹かなくなった」
倒れたギムリの傍で、ニコラはずっと老人の言葉に耳を傾けていた。
「意地なんて通してもろくなもんじゃねえ。全部捨てちまった。家族も、ちっぽけな誇りも……」
深々と溜め息を吐いた。まるで魂を口から吐きだしていくかのようだった。ギムリは死の寸前まで何かを嘆いていたが、もうその言葉はニコラには聞き取れなかった。
老人の遺体はニコラが埋葬した。崩れかけの風車が見える丘の上に、大きな石を立てて墓標にした。
墓標に何と刻むべきだろう。墓石にトゥームストーンでは本当に誰の墓かわからない。
「ビリー・キッドだ」と、埋葬を手伝いもせずに見ていたジョエルが言った。
彼は墓石の前にしゃがみこむと、ナイフで墓石に名前を刻み始めた。ビリー・キッド。その名前はニコラでも知っている。左利きのガンマンの象徴でもある、伝説の賞金稼ぎだ。ギムリがそうだったとでも言うのだろうか。いや、そんなはずはない。左利きのガンマンなんて腐るほどいる。この男だって。
「殺す必要があったのかよ」ニコラが言った。ジョエルは帽子を深々とかぶり、空を見上げた。
「殺さなきゃ、俺が殺された」
「アンタの腕なら、殺さずにだって勝てたはずだ!」
「買い被りすぎだ」
ニコラが睨んでも、ジョエルは少しも怯んだりはしない。誰かの命を奪っても罪の意識などないのだろう、この男は。
別段、ギムリと親しかったわけでもない。ただ娼館から逃げ出して来たニコラたちをかくまったのはギムリだった。一緒に逃げた仲間たちと抵抗組織を作る時にも力を貸してくれた。もしアンソニーの手先だったなら、私たちをアンソニーに突き出せたはずだ。
「悲しいか」
問われ、ニコラは返答に窮した。しばらく悩んでから頷く。
ジョエルは黙ってニコラに近付くと、彼女のホルスターから拳銃を抜き取った。
弾倉をスイングアウトし、弾丸を確かめて元に戻す。手首を返しグリップの底部を見た途端、ジョエルの動きが止まった。
すかさず腕に飛びつき、無理矢理に拳銃を奪い取る。
「気安く触るんじゃねー。これは私のだ」
「良く手入れしてあるな」
拳銃は念入りに整備したって暴発する。だから毎日欠かさず手入れすること。ギムリに教えてもらったことだ。
ギムリが(酒代と引き換えに)教えてくれたことは多くある。その中で役に立つものが一つでもあったかは怪しいものだが、その教えだけは守ってきた。
「どこで手に入れた?」
「アンソニーの所から逃げて来る時に盗んで来た」
屋敷には多くの銃器が飾ってあった。アンソニーが殺した相手の拳銃を奪って築いた悪趣味なコレクションだ。拳銃に関して素人に近いニコラは逃げ出す際に、一番ゴツくて強そうな物を選んで持ち出した。それがこの古びた拳銃だ。
「ウォー・パーソンは女子供が使うような銃じゃない。銃弾の口径が大きい分、威力もあるが反動も強い。だからまともに制御できなくて一発も当てられんのさ」
「余計なお世話だ」
「こいつで人を殺したことはあるか? いや、拳銃じゃなくても良い。どんな方法でもだ。絞殺、撲殺、刺殺」
ニコラは首を横に振った。
「マクシームが今ここに、手足を縛られて転がっていたらお前に殺せるのか?」
「私は」声が上擦った。「この街を解放する。首輪を嵌められて奴隷みたいに生きるなんてまっぴらだ。その為なら……私には出来る」
「自由になれば良い。馬に乗って逃げれば、誰もお前を縛れない」
「私の仲間たちもだ。メアリもビアンカも一緒に逃げ出して来た。でもまだ、アンソニーの所で使われている子だっている。隙を見て助けた子もいる。だけどそんなのは焼石に水だ。この場所が存在する限り犠牲者は消えない。私だけ自由になんかなれない」
「ご立派な考えだ。マクシームを殺せば賭場で人生を破滅する奴は消えるかもしれない。借金のカタに売られる女や子供もな。だがそれまでマクシームの下で使われていた連中はどうなる? 今まで娼婦や賭場でしか生きて来なかった連中も、この街にやってくる客を相手に商売してた連中もただでは済まない。それでもお前は自分が正しいと思うか?」
「決まってる」ニコラは一拍置いてから続けた。「私は正しいと信じてるからやる」
「俺はマクシームに妻と娘を殺された」
唐突にジョエルが言った。
「復讐の為にここにいる。マクシームを殺す為ならどんなことだってするし、邪魔するヤツがいればそいつも殺す。ためらいはないし罪悪感もない。復讐は正当な権利だ。その為に犠牲がどれだけ出たとしても、俺は自分が正しいと知っている。それは信じるとか信じないって話じゃない」
突然の言葉に、ニコラは少なからず衝撃を受けた。
「お前はマクシームを殺せるか? 無関係の人間がお前の邪魔をしたなら? 嫌がらせで満足してるなら別だが、殺せないってんなら今すぐ街を捨てて逃げるんだな」
ニコラは何も言い返せなかった。いくら言葉で取り繕ったところでダメなのだ。
憎い、許せない。その気持ちがたとえ本物だったとしても、口に出して行動しないならただの愚痴と変わらない。
この男は今、ニコラの決意を確かめている。
「明日、俺はマクシームを殺る」
自らの拳銃を手に取り、ジョエルは言った。右手の指が欠けていることに、ニコラはその時気が付いた。
「密告役に使ってたギムリまで殺されたとなりゃ、躍起になって俺を探してるはずだ。だからこっちから出向いてやる」
ジョエルがニコラを見た。鋭く冷たい目で射抜くように睨まれ、気圧されないようにじっとその目を睨み返した。
「一つ貸しがあったな。教えてやってもいいぜ。拳銃の使い方と人の殺し方を」
ニコラの返事を待たず、ジョエルは続けた。
「もちろん、その覚悟がお前にあるならな」
両親の顔をニコラは知らない。
父は誰とも知れぬ根無し草、母はどこにでもいるような娼婦で、ニコラを産んですぐに死んだと聞いた。
ニコラは大勢の子供たちと共に、やがて娼婦となる為に『飼育』された。実際、扱いは家畜と変わらなかった。馬小屋とさほどの差がないボロ屋に押し込められて、寝具代わりの薄汚れた布きれ一枚が彼女の所持品だった。アンソニーの機嫌が悪ければ立てなくなるまで殴られることもあった。機嫌が良い時は傷跡が残らないように殴られた。そのまま死んでしまった子もいる。売られて来た子供たちは、それでも食事が与えられるだけ天国だと言っていた。やせぎすでは女を買いに来た客に喜ばれないから、それはある意味で当然だった。
聞いた話では、荒野で行き倒れた母に遭遇し、まだ赤子のニコラを引き取って助けたのがアンソニー・ポーカーだと言う。アンソニーは手を尽くしたが、母はその場で息を引き取ったらしい。アイツにそんな人間らしさが有るとは思えないから、これはアンソニーがニコラに言うことを聞かせる為の作り話に違いない。
その作り話と何か関係があるのかはわからないが、アンソニーは時々ニコラの様子を見に来た。彼女に日々の話を聞くこともあった。気に入られているというよりは、監視されているようで不快だった。その他の扱いは誰とも変わらない。相変わらず殴られたし、余計なことを聞いても何も答えてはもらえなかった。
とうとうニコラも客を取る日が来た。きれいなドレスを着せられ、化粧を施され、脂ぎった小男に手を握られた瞬間、ニコラは相手の股間を蹴り上げて逃げ出した。ついでに売られて来た子供たちを伴って。
決定は突発だったが、以前から計画はあった。女を使い、男を騙し、子供たちを道具にして金を貪るアンソニーのやり方には怒りを感じていた。生まれた時から鎖で繋がれて、アンソニーの道具として生きる人生はゴメンだ。
「銃の扱いは一朝一夕で身に付くものじゃない。人の殺し方もだ。だが、殺す意思があろうがなかろうが弾丸は人を殺す。当たり所にもよるが、どこに当たろうが死ぬ可能性はある。だから少しでも殺せる可能性が上がる方法を教えてやる」
取引材料としてジョエルが出した条件は二つだった。一つは弾薬と食料、水を用意すること。二つ目はジョエルの邪魔をしないこと。
ニコラは黙って頷いた。願ってもないことだ。興奮して、身体が熱くなっていた。
仲間たちに集合をかける必要がある。アンソニーに不満を持つ者たちは大勢いた。ニコラたち逃亡者が中心になって結成した組織だ。ほとんどは老人や子供ばかりで正面切ってアンソニーに対抗することは出来ずにいたが、ジョエルが居るなら百人力だ。
「両手で拳銃を構えろ」
ニコラの前で、ジョエルは構えを実演して見せた。左手でグリップを握り、右手を底に添える。両方の脇を締めて、縮こまったような姿勢で射撃する。
「これで狙いが安定する。片手で当てられないならこれで撃て」
「そんな撃ち方、見たことない」
「俺が考えたからな」
見よう見真似で撃ってみると、確かに安定して狙いがつけられる。だが実戦でこんな悠長に構えていたら撃ち殺されてしまう。
「必ず当たると確信が持てるまでは撃つな。拳銃を使って殺し合えば、先に当てた方が勝つ。ほとんどな」
「でも、誰かに狙われたら戦わなきゃいけない時だってある」
「そんな場面に陥った時点でお前の負けだ。いいか、撃つなら当てろ。確実に殺したい敵を相手にするなら、確実に当てられる距離まで近付け。でなきゃ逃げろ。もっとも、それを守っても負ける時は負ける」
「なんだよそれ」
「結局生き残って自分で理解していくしかないのさ。理解できなきゃ死んで終わりだ」
ニコラは舌打ちした。気に入らないが、ジョエルの実力は身を持って知っている。せっかくジョエルが力を貸してくれると言っている以上、逆らうつもりはなかった。
戦える人間は決して多くない。老人たちは走り回ることすら困難だし、仲間の中にはニコラよりも幼い子供たちもいる。その中からニコラを含め、アンソニーの屋敷に突入する仲間を五人選別した。
その晩は興奮していた。とうとうアンソニーを倒し、街を解放する時が来たと。
だからその夜のうちに襲撃を受けるなんて考えてもいなかった。
隠れ家はいくつも分散して用意していた。万全を期して、全員が集まることも禁止していた。これまで上手く行っていたから油断していたのかも知れない。ジョエルが襲われているのを助けた(アイツが何と言おうと、助けたのは私だ)時、アンソニーの手下はあっさりと追撃を諦めた。決まってる、あの時に後をつけられたのだ。
乱暴に腹を蹴られ、胃液が逆流する。倒れそうになったところを髪の毛を掴まれ、無理矢理に立たされた。
「手こずらせやがって、なあ」
前歯のないチンピラが酒臭い息をニコラに吐きかける。
「ボスに手を出すなって命令されてなきゃ、ひん剥いてマワしてからコヨーテのエサにしてやるところだ」
男の仲間たちが下種びた笑い声を上げる。
何人捕まった? ニコラと一緒に居たのは四人、全員がアンソニーの屋敷から逃げ出して来た仲間たちだ。皆、後ろ手にロープで縛られ馬に乗せられている。メアリは馬上でぐったりとしたまま動かない。呼び掛けても返事はなかった。
しくじった。今まで、一度だって連中に居場所を知られることもなかったのに。
ジョエルはどうなっただろう。用意した食料や弾薬を受け取ると、アイツはふらりといなくなった。街から逃げたはずもないから、まだどこかにいるはずだ。もしアンソニーに居場所がバレたとして、ジョエルなら簡単にはやられないとは思う。
ニコラたちは引きずられるようにしてアンソニーの館へ連れ戻された。二度と戻りたくないと思っていた、戻る時にはアンソニーを殺す時だと思っていた。
「ニコラはここに残して、他の連中は閉じ込めておけ。いや、一人は殺せ」アンソニーは厳めしい顔つきで、じろりと捕まった仲間たちを睨んだ。「鎖に繋いで裸でオオカミと格闘させろ。簡単には死なないように、オオカミもきっちり弱らせておくんだぞ。ああ、それと人目につくところでやれよ。でなきゃ見せしめにならねえ」
後ろ手に縛られたまま、ニコラは走り出した。逃げる為にではない。アンソニーに向かって。方法は何だって良い。今、この場所で殺してやる。叫びながら飛びつく直前、アンソニーに足を払われて無様に床を転がった。
「仲間に手を出したら、お前を殺してやる」
唇が切れて血が滲んだ。床に組み伏せられたまま睨み続けると、アンソニーは不愉快そうに舌打ちした。
「ニコラよぉ。俺はお前に特別に目を掛けてやったよな。誰がお前を育ててやったと思ってる? 俺が助けなきゃお前はあのまま死んでたぜ。それを助けてやって、十三年も面倒を見てやった」
「ふざけんな! アンタが私たちを育ててのは道具として利用する為だ! お前が殺した子たちの顔も名前も、私は一人だって忘れてない!」
噛み付くように叫ぶも、アンソニーは聞いてもいない。じっとニコラの顔を見ていた。青く腫れ、かさぶたの出来た頬を。
「ラルフ」呟くようにアンソニーが名前を呼んだ。「この傷はテメェがやったのか」
チンピラの顔が青ざめた。
「違う、何もやってねぇ!」
叫び声と銃声が重なった。銃弾がチンピラの身体に何発も突き刺さる。弾倉が空になるまで撃ち尽くしてから、深々とアンソニーが溜め息を吐く。
「俺の苦労がわからねえか、ニコラ……こんなにお前らのことを大事に考えてる人間がどこにいる? 十年以上も育てて住む場所を与えて、飯を食わせて仕事まで世話してる。そりゃ慈善事業じゃねえさ、俺だって恩恵は貰う。だがよぉ、これは愛情なんだ」
髪を掴まれ、無理矢理に立たされる。
「なあニコラ。お前なら答えられるよな。これは俺たちの幸福に関わることなんだぜ。俺を狙って来たガンマンは今、どこにいるんだ」
アンソニーの言葉を聞き、ニコラは内心安堵した。ジョエルの居場所をコイツはまだ掴んでいない。
「知ってたとして答えるもんかよ。せいぜい怯えて震えてろよ。アイツはお前を殺しに来るだろうさ」
言った途端、鈍い痛みが走った。何か硬い物で頭を殴られた。眩暈がする。視界がくらくらと揺れる。今度は顔面に何かがぶつかる。床だ。後頭部? 殴られて、床に叩きつけられた。腹、背中、もうどこを殴られているのかもわからない。全身が痛みで痺れている。何度も何度も殴られて、ニコラは意識が飛びそうになった。吐きそうになってえづいたところを、再び髪の毛を掴んで無理矢理に身体を持ち上げられる。
「俺ぁな、お前を愛してるよ。思い入れがあるんだ。可愛がってる。自分の娘だとさえ考えている」気色の悪い猫なで声。「なのになんでお前は逆らうんだ? 俺の躾が悪かったか?」
何か言い返してやりたかったが、意識が朦朧として何も言えなかった。
「身の程ってものを教えてやる。俺に逆らったことを後悔して、素直に生きて行くのが幸福だってわかるようにな」
耳鳴りが酷い。アンソニーの声はもう聞こえなかった。
意識がブラックアウトして、次に目を覚ましたのは柔らかいベッドの上だった。
初め、ニコラは自分がまだ生きていると気付いてホッとした。次に手足が動かないのに気付いて血の気が引いた。
全身が痛む。起き上がろうとして、ニコラは気付いた。両手と両足に鎖が繋がれ、ベッドの両端にくくりつけられていた。身体を動かすことが出来ない。絶望的な状況には変わりない。だが、最悪の想像よりはマシだ。つまり、手足を切り落とされていないだけはまだ。
首だけを動かして自分の身体を見ると、真っ赤なドレスを着せられていた。鼻孔をくすぐる微かな香水の匂いに、ニコラは吐き気を催した。この匂いは今も覚えている。初めて客を取らされそうになったあの日、つけられたものと同じだ。
状況が呑み込めない。気を失っていたのはどれほどだろう。室内は暑く、ニコラは汗ばんでいた。部屋の中の暑さから、まだ夜にはなっていないと気付く。それならまだ襲撃から一晩と経っていないはずだ。
「おい! 誰かいないのか! 何のつもりだ、こいつを外せ!」
叫びながら、身をよじる。当然、そんなことで鉄の鎖はビクともしない。傷と鎖がこすれて、鋭い痛みが走った。
ガチャリ、と錠の回る音が聞こえる。誰かが部屋に入って来た。男だ。中年の男が濁った目でニコラを見た。全身を舐め回すように見てから、そいつは気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「アンソニーの秘蔵っ子と言うから金を出したのに、ずいぶん貧相なガキじゃないか。まあ、たまにはそういうのも悪くない」
その言葉で、男とアンソニーの思惑を悟った。
この男に、私を犯らせる気だ――!
「てめぇ、ふざけんじゃねえぞ! 汚い手で触るんじゃねーッ!」
いくら暴れても、身体をよじる程度しか出来ない。男のぶくぶくと膨れた指がドレスの裾をまさぐり、ニコラの細い太腿に触れた。皺くちゃの指が探るように皮膚の上を蠢き、おぞましさに鳥肌が立った。肉の感触を楽しむかのように、男は少しずつ指を上半身へ動かし、次にニコラの小さな胸を鷲掴みにした。痛みとむず痒さ、悪寒に全身を支配される。叫び、罵り、暴れたところで手は振り払えない。
「暴れると余計に疲れるだけだぞ」男は下卑た笑いを浮かべた。「何せこの後に百人は控えているんだ」
必死で手を引っぱる。鎖が手首に食い込んで、ニコラの焼けた肌に赤い跡を残した。獣じみた息が鼻にかかる。男が舌を首筋に這わせた。ニコラは小さな悲鳴を漏らす。男がドレスの裾を掴んで、引き千切ろうと引っ張った――瞬間、男がうめき声を上げた。後頭部を抑え、振り返る。再び男を殴打が襲い、殴られた男はベッドの脇に倒れた。
視線を動かすと、いつの間に侵入したのか女が一人立っている。真っ青な顔をして震えていた。女は煌びやかなドレスを着ている。その恰好から娼婦(それも高級な)と分かったが、ニコラは面識がなかった。いや、どこかで会ったかも知れないが思い出せなかった。街中には娼館が腐る程ある。それに、入れ替わりも激しい。
「だ――」女は震える声で言った。「大丈夫?」
それはニコラが尋ねるべき言葉だったかも知れない。女は今にも倒れそうな程、顔面を蒼白にしている。両手に持った拳銃、そのグリップには血がべっとりと付いている。つい今しがた、男を二度殴った物だ。
女は鍵を使ってニコラを鎖から解放してくれた。ひりひりと痛む手首を抑える。ニコラの手はまだ少し震えていた。
「ありがとう。でも、どうして?」
ニコラが言うと、女は俯いた。こんなことがバレれば、彼女だって無事では済まない。アンソニーはこの女性を殺すことに良心の呵責なんて覚えないだろう。迷わずに殺すはずだ。それも、出来る限り残酷な方法で。
「後で話します。今はここを離れないと、じきに他の男が来るから」
ニコラはうなずくと、女性から拳銃を受け取った。アンソニーから盗んだウォー・パーソンだ。ニコラの手には大きく、ずっしりと重い。扱いやすいとはとても言えないが、この拳銃はニコラの戦う決意そのものだ。
女性の後について廊下へ出る、見覚えのある廊下だった。まだここはアンソニーの屋敷内だ。屋敷の別館は上客専用の娼館になっている。ニコラが閉じ込められていたのはその中の一室だ。
食料貯蔵庫に忍び込むと、ニコラは手当たり次第に保存食を平らげた。一昼夜以上、何も口にしておらず空腹だった。ニコラを助けた女はバルバラと名乗った。
「左利きのガンマンが、アナタと一緒に居たって本当? 今、男たちが必死でそのガンマンを探してる。殺せって……」と、バルバラは尋ねた。
ニコラが頷く。「ジョエルって名前。本名かは知らないけど」
「その人って、けっこう良い年じゃない? あの、だから、つまり、お年寄りじゃないかってこと」
今度は首を横に振った。
「私よりは年上。だけどアナタと同じくらいか、少し上くらいだと思うけど」
ニコラの言葉に、バルバラは明らかな失意を示した。蒼白だった顔面を両手でおさえ、今にも泣き出しそうに見える。
「そう……ならいいの。人違いだわ。ああ、これで私も殺される」
「ねえ、事情を話してよ。私は力になれるかも知れない」
バルバラは小さく頷いた。もう十年も会っていない父が居ること。父は左利きのガンマンで、アンソニーに真っ向切って逆らっていたこと。狙われた父を救う為にバルバラがアンソニーの娼館で働き始めたこと。
「アンソニーは約束したわ。私が金を稼ぎ続ける限りは、決して父には手を出さないって。でもお父さんは私がアンソニーの所で……娼婦として生きると知って、激怒した。もう連絡も付かないし、街のどこにいるかもわからないの。だから今度こそ、アンソニーがお父さんを殺そうとしてるんじゃないかって……」
唐突に、ニコラの脳裏にギムリ・トゥームストーンの姿が浮かんだ。
彼はアンソニーの手先だった。でも、決してニコラのように逃げた子供たちを売ることはしなかった。そもそも何故ギムリはジョエルと戦った? アンソニーに逆らえない理由があったからだ。自分が殺されるとわかっても逆らえない理由が。もしバルバラがギムリの娘なら? ギムリはバルバラを人質に取られていたことになる。それなら、アンソニーに逆らうことなんて出来ない。バルバラはギムリを人質に取られて身体を売っていたことになる。
「アナタのお父さん、ギムリって名乗ったことは?」
「知ってるの?」バルバラが驚いた。「それが父の本当の名前よ」