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アンソニー・ポーカーについて知っていることはほとんどない。
実際、雇い主がどんな人物か教えろと言われても、彼には三つのことしか説明は出来ない。
途方もない金持ちである。どうしようもなく乱暴である。そして他人の命にテーブルクロスの染み程度の価値しか認めていない。
「なあ、ショーン」
猛獣の唸るような、低く響く声。この声を聞くだけでアンソニーの部下たちは震え上がる。彼は呼ばれたのが自分の名前でないことに安堵した。
「どうして俺の言うことを聞いてくれないんだ? なあ、何か不満があるなら言ってみろ」
「いえ……ボス、その……」
ショーンの声が上擦っている。
可哀想に。彼は同情を覚えたが努めて表情には出さなかった。
「俺の命令を忘れちまったか? もう一回言うぜ。おんなじことだ。三回目だったか? まあいいだろ。十人だ。一人残らず捕まえろって言ったよな? 見せしめに二人は殺せ、他の連中は逃げ出せないように足首から先を切り落とせ。ノコギリでだぞ。躾ってのは痛くしねえと意味がないからな。ただし、ニコラには傷一つ負わせるな。わかるだろ? 単純な話だ」
アンソニーが手の甲で机をコツコツと叩く。
逃げた少女たちはいずれも、娼婦として働くことになっていた『商品』たちだ。親を失った子供や娼婦の産んだ娘、それから賭場の借金のカタに売られて来た子も居る。
金を掛けて管理していた商品たちが一文も稼がずにこぞって逃げ出し、しかも無能な手下は一人として逃げた少女を捕まえられない。それがアンソニーの怒りに油を注いでいる。
「ショーン。俺は難しい話をしてるか? 俺の話は理解できねえか? 言ってくれよ、何かあればな」
「ち、違いますボス。わかってます、理解してます……」
「なら俺に従うつもりがねェンだなッ!」
アンソニーがデスクに拳を叩き付ける。デスクの表面が砕け、木の破片が散った。
「理解してんだろ! なのに従わねえのかテメェは! 俺に楯突こうってんだな! なあ!?」
ショーンはぶるぶると震えながら、何度も首を横に振った。
「誤解ですボス! ボスに逆らおうと思ったことは俺ぁ、一度もありません!」
「そうかじゃ耳が悪ぃンだな、俺の命令が聞こえてねぇんだろッ!」
アンソニーが拳銃を抜いた。銃声が部屋に響き渡る。ショーンが顔面に血の花を咲かせ、後頭部から倒れ込んだ。吹き飛んだ肉片と血の塊が、べちゃりと壁にへばりついた。
血のしぶきが顔に掛かり、彼は寒気を覚えた。
「耳の穴が三つになったぜ。いや四つか。これでちゃんと聞こえんだろ。天国へ行ってもな」
アンソニーがため息を吐いた。側近たちが青い顔をしてショーンの死体を引きずっていく。
溜め息を吐きたいのはこっちだ、クソ。
彼は額に浮かんだ冷汗を拭った。これで何度目だ? アンソニーが癇癪を起こす度に、お抱えの商人が喜んで絨毯を持ってくる。教会は埋葬する場所に困って、とうとう死体を街の外へ捨ててハゲワシに処理させ始めた。
「俺ぁな……」
ぼそりとアンソニー・ポーカーが呟いた。
「ただ安心して生きてたいだけなんだ。俺の言ってることは間違ってるか? なぁビリー」
彼は――ビリーは蓄えたヒゲの中で、もごもごと口を動かした。何を言ってもダメだ。肯定しても否定してもアンソニーは怒り出す。
幸い、問いは自問に近いものだった。アンソニーは独白を続ける。
「安心ってのは大事なことだ。安心したいから人は家族を作る。安定したいから人は家畜を飼う。そういうもんだろ? 同じことなんだ。俺ぁ安心したいから組織を作った。賭場と娼館は金を産む。家畜は女よ。女はニワトリだ。これで俺ぁ幸せになれるはずだった。だってのに、連中は言うことを聞きやしねえ。頭の痛い問題ばかりよ。どいつもこいつも俺の秩序を乱しやがる……」
ひとしきりぼやいた後、アンソニーは真っ直ぐにビリーを見た。
「それで」アンソニーが左手でデスクを叩いた。
「マクシームを追ってる賞金稼ぎってなぁ、何者だ」
もう一つ、雇い主について知っていることがある。
いや、知っていながら気付かないフリをしていたことだ。
まるで鉄板でも仕込んでいるかのように、アンソニーの左腕は変形している。




