5.さびしがらせてはいけません
「入院中」の飼い主の決意
近所のコンビニに行くでも、長期の出張に出かける時も。
買い物から帰ってきただけでも、きつい仕事にボロボロになって帰還した時でも。
彼女の「行ってらっしゃい。」と「お帰り。」はいつでも変わらなかった。
悲愴になることもなく、引き止めることもなく、気負うでもなく、激励するでもなく。
いつでもなんでもないことのように、当たり前のように送り出し、迎え入れる。
彼にとってそれは「仕事と私とどっちが大事なの?」と取りすがられるよりも楽ではあったが、同時に不満でもあった。
もう少し心配するとか、寂しがるとかあっても良いんじゃないか。
そう思うほど、彼女の挨拶はいつもサバサバしている。
たまに「行ってらっしゃい。」が「清々した。」に聞こえる時もある。
もう少し優しくして欲しい。もう少し惜しんで欲しい。そう思うのはそれほど贅沢な悩みだろうか。彼はいつもの「行ってらっしゃい。」を聞きながらそんなことを考えていた。
「お帰り。」
目を開けると、いつもの顔をした彼女がそう言った。
見上げた先には見慣れた治療室の天井。
「状況説明しようか?」
「ああ、いや大体分かってる。」
「さいですか。」
長期出張先で仕事終わりと同時に倒れたんだったか、と彼は記憶の糸をたぐり寄せる。
最後の方は立っているのがやっとだったから、まあ順当な結果だと言えるだろう。
彼女がここにいるのは、気を利かせた誰か(おそらく三羽烏あたりだろう)が呼び寄せたのだろう。
(余計なことしやがって……後で締めるか。)
つらつらとそんなことを考えて、脇に座って点滴が落ちるのをぼんやりと眺めている彼女に目を向ける。
「あー、その……久しぶりだな。」
「ですね。」
「元気にしていたか。」
「おかげさまでうちの子共々元気ですよ。家族の中で元気じゃないのは1名しかいませんから。」
遠まわしに自分の状態を皮肉られ、彼は苦笑いする。
「ま、仕事柄しょうがねぇんだろ。きっちり最後まで仕上げてきたらしいじゃん、えらいえらい。」
「お、おお。」
頭を撫でられ、彼は少し口ごもる。
彼女が褒めてくれることは滅多にないので、こういう時どう反応していいか分からないのだ。
そんな彼の戸惑いに気づいていないのか、少し固めの髪を撫でながら彼女は淡々と「ぴーんぽーんぱーんぽーん。ここで2つニュースがあります。」と気の抜けたアナウンスをかける。
「良いニュースと悪いニュースとどっちが先がいい?」
「良いニュースは?」
「オレ、特許を取得しちゃいました。」
「は?」
「多分、これから結構お仕事もお金も入ってきます。」
「……すごいな。」
「すごいですよ。おかげで特許申請の書き方すげー上達しましたよ。疲れた。」
「そりゃ大変だったな。」
「まあ、これでうちの家計も潤うってなもんです。」
「悪いニュースは?」
「我が家の貯金が一定額に達しました。」
「何そんなに使ったんだ?」
「逆、逆。貯まったのです。よって、うちの大黒柱がプーになっても一家4人慎ましく暮らす分には問題なくなりました。」
「……それが、悪いニュース?」
「うん。」
こっくりと頷く彼女の目は、相変わらず何を考えているのか読み取りづらい。
「仕事変えちゃえば?」
「え?」
「今みたいなブラックな所で働くのも、働きがいはあるだろうし、愛着だってあるだろうけどさ。もっとブッ倒れたりしなくて済む、楽なところに変えちゃえば?」
「……。」
「引き継ぎの問題もあるし、お前みたいなチート引き抜かれるのは職場は嫌がるだろうけどさ、オレだって好きで病室で点滴打ってるお前を見舞いに来てるわけじゃねぇんですよ。」
「お前……もしかして心配してくれたのか?」
「家族を心配しない家族なんていねぇですよ。」
相変わらず頭を撫でている手に手を伸ばすと、それは抵抗なく捉えられた。
触って分かった小さな震えと、冷えた指先の強張りに、彼女の隠された感情を読み取って彼は胸に暖かいものを感じる。
「ごめんな。」
「きっちり仕事やった結果だろ。胸張っていろよ。」
「でも、ごめんな。」
表に出さないからといって、さみしがっていないわけじゃない。
むしろ強情張りの、誰よりも情に厚い彼女のことだから、彼の仕事に支障が出るようなことは言わないし、出さないだろう。
そんなこと分かりきっていたのに。
さみしがらせてはいけないと理解していたのに。
「ありがとう。」
「何ですかそれは。」
頬を少し赤くして、照れ隠しかそっぽを向いた彼女の横顔を見上げて、彼は今度の配置転換について上司に相談してみようと決めた。