表(side明碕)・上
私の祖父は、貧しいお屋敷に仕える、貧しい厩番の息子に過ぎなかった。
祖父が十六になった年、その屋敷の主――没落貴族の当主――が亡くなった。当主夫妻に子供はおらず、雀の涙ほどの地所からの収入ではこれ以上無駄に大きな屋敷を維持していくことは困難だとして、残された奥方は全ての召使いを解雇した。全て、といっても、切り詰められるだけ切り詰めていた当時の状況では、両手に足りるくらいの人数しかいなかったらしい。祖父の両親はそれでも最後の最後まで屋敷に残っていたのだ。そんな忠義ある召使いだった彼らは、解雇後急速に年老い、その年の暮れまでに当主の後を追うようにこの世を去ってしまった。ひょっとすると、由緒ある屋敷が派手好きの成り上がり者に買い取られ、好き勝手に改造されていく様に耐えきれなかったのかもしれない。
こうして祖父は若くして天涯孤独の身となった。両親の看病で僅かな貯えも底をついていた。祖父は単純な力仕事などで日銭を稼ぎ、食い繋いだ。
転機が訪れたのは祖父が十九の時。祖父は似たような境遇の仲間達に誘われ、一攫千金を目指して船出したのだ。貿易はその頃最も盛んな商売だった。造船技術がまだまだお粗末だった当時、殆どの者は海の藻屑と消えたのだが、一握りの成功者を見て、自分も一山当てたいと海に出て行く若者は絶えなかった。
祖父と仲間達はその点随分と強運だったらしい。彼らはそのほんの一握りに滑り込んだのだ。仲間内に船大工の息子がいたことも成功の一因だったに違いない。
こうして祖父達は大きな利益を得た。しかし、その金を山分けする段になって諍いが起こった。終いには殴り合いの喧嘩になったというから凄まじい。気の短かった祖父は盛大な啖呵を切り、彼らとの交際を絶ってしまった。
唯一祖父の後についてきたのは、例の船大工の息子だった。祖父と彼は二人きりでまた貿易商を始めた。二人はかつての仲間達を見返すべく必死で働いたが、商売はなかなか軌道に乗らなかった。
辛い暮らしに耐え続けて三年が過ぎた頃、遂に努力の報われる時が来た。改良に改良を重ね、今までにない型の貿易船が完成したのだ。嵐にも耐えうるその船のおかげで、祖父らは大きな利益を上げた。祖父達の商店は急成長し、他の商人の追随を許さなかった。
祖父と友人はほぼ同時期に結婚していた。祖父には息子が、友人には娘がそれぞれ生まれていた。そこで友人が子供達を許婚にすることを提案した。祖父としても、自分の子と知己の子とを婚姻させるのに異存があるはずもなかった。
こうして私の両親は父が成人してまもなく結ばれた。父の代で、商売は益々大きくなった。私の家は国内でも有数の富豪になり、今では貴族の集まりにも是非にと招待されるほどである。とはいえ如何せん伝統が足りず、気位の高い彼らに陰では成り上がり者などと囁かれているのを知っている。
――そう、私はそれを知っているのだ。
***
「本日はお招き頂き、ありがとうございます」
私は優雅に礼をする。父が貴族階級に強烈な劣等感を抱いているため、私はこの手の所作を徹底的に叩き込まれた。少なくとも、礼儀作法の点ではそこらのご令嬢にも劣らない自信がある。
今日は聞茶の集まり。この屋敷のご主人は賑やかにするのが好きで、しばしば大きな会を開く。今日の会にもあらゆる方面の著名人が集っていた。
私は父と共に案内役の従僕の後に従った。会場に散在する円卓の間を縫うように歩く。
ある円卓の前で従僕は立ち止まり、椅子を引いた。父はさっさと座ってしまう。私は戸惑った。父と同じ机につくものとばかり思っていたのに、その円卓の残りの席は既に埋まっていたから。
動揺を顔に出さないように気をつけつつその机の人々に会釈する。次いで父に視線を向けたが、幾ら目で問いかけてみても父はにやりと笑ってみせるだけだった。
「明碕様は、こちらに」
従僕は慇懃な態度で言う。嫌な予感がした。私は貝の腕輪に触れた。まろやかな白を指先に感じる。今度は少し奥の方の机に案内される。
先程のよりも一回り小さな円卓には先客がいた。彼は私の姿を認め、くたりと笑いかけてきた。
やっぱり。
帰国の連絡を受けていたにも関わらず、こうなることをちらとも予想しなかった自分が腹立たしい。
「お久しぶりです、明碕殿」
「……界悠様。お帰りなさいませ」
彼は立ち上がって私を迎える。これは、彼らの言うところの”貴族にあらざる人種”である私に対するには破格の行動だ。身分の高い者はたいてい座ったままで格下の挨拶を受けるというのに。
会場中の視線がこの片隅に集まっているように感じられる。私は彼だけに見えるように渋面を作り、席に着いた。従僕が礼をして去る。
まさかこんな公衆の面前で二人きりにされるとは。
「外つ国は如何でした?」
腕輪の表面を最後に一撫でしてから、私はにこやかな声を出した。何せ私達の一挙一動を皆が注視しているのだ。ある者は温かく、ある者は嫉妬混じりに、ある者は興味津々に。私とてこの衆人環視の中で下手なことはしない。父や祖父の評判を落としたくはないからだ。
「そうですね、同じ人間の社会なのにここまで違うものかと驚きました。風習やものの考え方が、たった一本、国境を跨いだだけでがらりと変わってしまうこともあるんです」
彼は澄ました顔で言った。そうなのですか、と私は相槌を打つ。
「為になるご旅行だったようで、ようございました」
「冷たいな。遊んでばかりいると、呆れていらっしゃるのでしょう。これでも貴女に相応しい男になれるよう、努力しているのですよ」
哀れっぽい声で戯れかかってくる。猫のような瞳が細められる。本当に、猫のよう。手の内の獲物を面白半分にいたぶって。
「いえ、そんな。界悠様は私などには勿体ないお相手でございます」
これは事実だ。彼はこの二年間、見聞を広めるためといって異国を旅していた。つまり彼はそれが許されるほどの身分なのだ。由緒正しい家柄、豊かな財力、おまけに無意味なまでに整った顔立ち。どう考えても不釣り合いなのは私の方だ。自分を卑下しているつもりはない。住んでいる世界が違う。
数種類の茶が運ばれてきた。口に含み、銘柄や産地を当てる。流石主人が数寄者なだけあって、どれも最高級のものだった。
お茶請けには繊細な見た目の美しい点心が用意されていた。私は胡麻団子を小皿に取る。芳ばしい胡麻の香に熱い餡の上品な甘さ。美味しい。私は思わず口元を緩めた。
会場の中央で主人が口上を述べ始める。茶目っ気たっぷりに喋る主人に人々の視線が集まる。
和やかな雰囲気の合間を縫って、彼が顔を寄せてくる。
どきりとした。
「……何ですか?」
出た声は意図したよりも弱々しい。ふ、と彼は笑った。
「――芝居に、行きませんか」
私の反応は少しばかり遅れた。言葉の内容よりも彼の顔が随分と近い位置にあることの方に気をとられていたのだ。彼は微かに眉を上げた。私は慌てて表情を取り繕う。全く、情けないことこの上ない。
顔の綺麗な人間は得だ。腹立たしいが認めざるを得ないのは、こういう時。
「芝居、ですか」
「ええ。座長と父が懇意にしておりまして。良い席を貰えたのです」
そう言って、彼は最近巷で騒がれている一座の名を挙げた。
「そうですわね……」
私は迷う素振りを見せたが、どうせ私に拒否権はない。こちらは、雲上人である若君から目を掛けて頂いている立場なのだ。
「ご一緒して頂けませんか?」
「……行っても良いか、父に確認してみますわ。お返事は後でもよろしいかしら」
私は目を伏せて茶を飲んだ。貴族との繋がりを持とうと躍起になっている父のことだ。反対などするはずもないのは、彼も分かっているだろう。それでも何となく、このまま素直に返事をするのも癪だった。
「本当に、つれない人だ」
含み笑いが聞こえた。私は顔を上げなかった。いつの間にか主人の挨拶は終わっていたらしく、広間には上品なざわめきが戻ってきていた。
着替えなどの煩雑なあれこれを終えて、私は手を振って小間使いを下がらせた。寝台に体を投げ出す。行儀が悪いと眉を顰められそうな行為だったが、どうせ見ている者は誰もいない。今日はもう、お淑やかな令嬢を演じることにはうんざりだった。
あの後の会話の内容は当たり障りのないものに終始した。もう一度外つ国の話をして、彼がいなかった間のこの国の話をして。
そうこうしているうちに会はお開きになり、私は父を捕まえて早々に帰宅した。
私は芝居の話を蒸し返そうとは思わなかったが、もし触れようとしても彼によって阻まれただろう。彼は自分の思い通りに会話を誘導することに長けている。
あの一瞬、周囲の人々の注意は主人の挨拶の方に逸れた。それを見越して、彼は囁いたのだ。周囲に私達の関係を誇示したがる彼にしては珍しい行動だった。
だからこそ私は覚悟することを迫られた。あれは、彼から私に対する最後通牒。来るべき時が来たのだと、彼は暗に匂わせた。
芝居のことを考えると憂鬱だった。何故こんなことになっているのだろう。何故私は貴族の若様と一緒に芝居を見に行くような間柄になっているのか。私は身を起こし、鏡台の前に腰掛けた。櫛を取り、髪を梳かし始める。不機嫌そうな少女が鏡の中からこちらを見ていた。知らず、ため息が漏れた。
分かっている。私は誰もが羨むような境遇にいる。国一の豪商の娘であり、少女なら一度は夢みるような見目良い婚約者までいる。分かっている。けれど、今はこの境遇が厭わしい。
界悠。彼と出会ったのはいつ頃だったか。そもそも何を以て「出会った」とすれば良いのだろう。こちらは父や母に連れられて貴族の集まりに顔を出すようになった頃から、一方的に彼を知っていた。何といっても彼は有名人で、最低限覚えておかなくてはならない貴族の一人でもあった。同じ集まりに招かれたことも何度かあったように思うから、彼も私の顔と名前くらいは一致していたかもしれない。だが、それだけの関係だった。
――それでも初めて言葉を交わした時のことははっきりと覚えている。
あれは何の集まりだったろう。私の縁談が出る少なくとも数年前。私は祖父母の傍で、退屈を持て余していた。仲の良い少女達はおらず、いつものようにお喋りに興ずることができなかったのだ。
彼を遠くに認めて、私は彼を観察していた。罪のない少女達の噂話に彼の名前はいつも挙がっていた。彼は姿の良い貴族の若君で、少女の憧れの対象には打ってつけだった。
彼を眺めていた。それはもう遠慮の欠片もない態度で。
彼はこちらへ歩み寄りながら、私ににこりと微笑みかけてきた。私は慌てて顔を伏せた。彼が集まりの主人役と共に私達に近づいてきていたことに、漸くそこで気がついた。
彼の浮かべた笑みは、とても穏やかなものだった。私の不躾な視線に気づきながら、その非礼を咎めるでもなく彼は笑んで見せたのだ。装われた鷹揚さ。彼は私を歯牙にもかけなかった。笑顔一つでのぼせ上がってしまうような小娘など、彼にとっては取るに足らない存在なのだ。
『初めまして。白家の界悠と申します』
『ええ、そうなんです。お噂はかねがね。お話する機会があれば、と前々から思っていたのです』
彼の目当ては私の祖父だった。当代一の豪商。一代で莫大な財を築き上げた伝説の男。祖父は満更ではない様子で彼の質問に答えていた。他の貴族達とは違い彼の祖父に対する興味は表面だけのものではないようだった。尤も彼は貴族には珍しく商いに手を出していたから、それも当然だろう。
彼が祖父と話している間中私はずっと下を向いていた。息を詰めて、彼が立ち去る時を待っていた。彼の近くにいたくないと、早く解放してくれと、そればかり考えていた。何故だかとても居たたまれなかった。
一つにはあの笑顔の所為もあったろう。私は恐ろしかった。相手にされていないことを知らしめる笑顔。どうして他の少女達は皆気づかないのだろうと思った。あの笑顔をもう一度向けられることに、私は耐えられなかった。だから俯いて、息を殺して。恐ろしいから。
それなのに。
馬鹿みたい。
『お孫さんですか? 美しいお嬢さんですね。さぞ鼻が高いでしょう』
馬鹿みたいだ、本当に。
『こんにちは、明碕殿。私の名は界悠といいます。以後お見知り置きを』
私は馬鹿みたいに、あの時の彼の言葉を一字一句違わず覚えている。
確かめるまでもない。彼は忘れている。彼の瞳は私を素通りしていった。私は彼の興味を引くような娘ではなかった。
なのに私は忘れられなくて。
恨みがましくいつまでも覚えていて。
鏡の中の私が笑みを浮かべている。嘲笑にはなりきれない、どこか歪んだ,泣き顔にも似た笑みを。私は櫛を置き、布を下ろして鏡を覆った。
……私には彼が分からない。
元々、父は私を別の貴族に嫁がせるつもりだった。二十以上も年の離れた、金遣いの荒い男の後妻として。父は貴族共に馬鹿にされないだけの家名が欲しかった。身代を食い潰しかけていた男は遊ぶ金が欲しかった。両家合意の下に、結婚話は進められていた。
あの頃の自分のことを考えると少し可笑しい。私は自分の身に降りかかった不幸を嘆いていたのである。私には店で売買される商品と同程度の価値しかないのかと、私の幸せを考えてはくれないのかと、父を詰り困らせた。当時の私は半ば本気で、自分は父に愛されていないのだと悲観し塞ぎ込んでいたのだ。
私は自分のことで手一杯だった。来る日も来る日も自己憐憫に浸っていた。友達づきあいすら疎かにしていたくらいで、接点の殆どない貴族の若様のことなんて、私の脳裏からは消え去っていたように思う。
そう。
接点は、なかったはずだ。
――それなのに何故。
望まない縁談だった。それでも父の庇護下にある私に拒否権はない。婚儀の準備は着々と進められていた。私の意志に関係なく、婚礼衣装が縫われ、嫁入り道具が揃えられ。
彼は。
それを、いきなり潰した。
彼は大したことをしたわけではなかったのだという。父に、私の結婚に賛成ではない旨を、一言伝えたに過ぎないのだという。実際それで事足りるのだ。彼はこの国の有力な貴族の跡取りなのだから。
ただそれは余りに唐突な行為だった。誰もが呆気にとられていた。父も、母も。私の婚約相手の家も。婚儀の準備に携わっていた者も。商人組合の面々も。貴族達も。彼に近しい人達も。噂好きな人々も。
私自身、話を聞いて呆然とした。何が起こったのか理解できず、突如自分の置かれた状況が理解できず。
唯一面白がっていたのは私の祖父だったろう。祖父は呵々と笑い、彼のしたこと、言ったことを事細かに教えてくれた。
縁談が壊されたその僅か数日後に、私は彼と顔を合わせた。招待された屋敷の中でのことだった。恐らく噂を聞いた人々が真偽を確かめるべく舞台を設置してくれたのだろう。
私の目の前に立った彼は、素知らぬ顔で普段通りの挨拶をしてきた。私の頭の中には言葉が渦巻いていて、しかし口から出てきたのは、本当ですか、という何とも間の抜けた言葉だけだった。祖父が嘘をついたとは思わなかったが、そもそもこれほどの騒ぎになっている時点でそれが事実なのは明らかなのだが、それでも信じられなかったのだ。
彼は笑った。
そしてその笑みを目にして、私の背筋は泡だった。
それは一種の快感だった。
何故ならそれは初めて会った時のようなものではなかったから。私という個人を彼はその視界の中に入れていたから。
それは一種の絶望だった。
何故ならそれは私がどこかで期待していたような甘いものではなかったから。獲物に狙いを定める獰猛な獣のものだったから。
彼ははっきりしたことは何も言わなかった。ただ笑って、周りで耳を澄ませている人々を、私を、煙に巻いた。
そして彼は私に戯れかかってくるようになった。口実を作って贈り物をしてくる。見かければ必ず声を掛けてくる。人目があればあるほど、彼は私に構いたがった。
友人達は皆私の幸運を羨ましがった。時には嫉妬を向けられることもあった。
でも、当の私自身はといえば彼の一挙一動に恐れ慄いていたのだ。出来る限り彼と顔を合わせるのを避けようとすらしていた。勿論彼の方が私よりも一枚も二枚も上手だったから、私の抵抗など殆ど意味を成していなかったのだが。
素直に喜ぶことなど出来なかった。同じ時間の中で生きてはいても、彼と私とは別な世界に属しているはずだった。それなのに、彼が私に目を留める? 私に言葉を投げ掛けてくる? あり得ない状況が私を怯えさせた。
――だから、彼の目当ては私の家の握る貿易上の伝手だという噂を耳にした時、私の心は凪いだ。どうして気づかなかったのだろう、と笑いたくなるほどだった。彼が無意味に私なぞに構うわけがないのだ。
彼は十六の歳からずっと、商売をしている。斬新な意匠の装飾品が主な品物だ。貴族の若様のお遊び、と周りには思われているようだった。家を継ぐまでの自由な時間に、色々挑戦してみるのは良いことだ。そんな風に微笑ましく見守られているようだった。
現在のような状況になる前――彼が私への好意を周囲に印象づけようとし始める前から、私はその評を訝しく思っていた。お遊びに過ぎないなどと、一体誰が言い出したのだろう。彼の商売は数年かけてじわじわと成長している。その裏にあるのは地道な努力だ。ただのお遊びに、あそこまで労力を傾けられるものだろうか。彼は有力貴族の跡取りなのだ。他の貴族達との社交に取られる時間も半端ではないだろうに、その合間を縫って事業に力を入れている。そして何より、事業について話す時、彼はこの上なく楽しそうなのだ。
彼は彼の事業に対してとても真剣だ。それのためなら何だってする。私はそれを知っていたのに。
落胆するのは筋違いというものだろう。
ともかくその噂を知って以来、私は平静さを取り戻した。彼に接する時も必要以上に動揺することはなくなった。その点は良かったのかもしれないと、そう思うことにしている。
貝の腕輪に触れる。
――覚悟を、決めなければならない。分かっている。いつまでくよくよと悩んでいるつもりなのか。答えなど一つしかあり得ない。彼を拒むことなど、出来もしないくせに。
愛されないのが、どれほどのことだというのだ。だからどうしたというのだ。相手は見目麗しい貴族の若君 。これ以上の相手は望めない。
私はまた一つ、ため息を落とした。そうして蝋燭の火を吹き消し、煩悶から逃げるように寝具の間に潜り込んだ。