7「戦慄と絶望」
「う……」
かすれたうめき声を上げて。床へうつ伏せに倒れていた石和武士はゆっくりと目を開いた。辺り一面が白く染まっていた。広大なオフィスの中、真っ白な煙がもうもうと舞っている。石和が投げた発煙筒の煙ではない。先ほど石和が投げた発煙筒一つでは100平方メートル以上はあろう、このオフィスを白く染め上げることなど出来はしない。
奥の方では赤く瞬く炎があちこちでデスクなどの機材を焦がし、異臭を放っている。奥にあったあらゆる物体が何の意味も成さないただの瓦礫になり果て、辺り一面に飛び散っている。
まるで地獄の様な光景だった。石和は大きく目を見開きながら、呆然とした声を上げた。
「一体……なにが……?」
左腕に力を込めて立ち上がろうとする。が、その瞬間、身体中に凄まじい痛みが駆け抜け、再び転倒した。
「がっ……! は、ぐぅ……っ!」
悲鳴を上げて悶える。右腕はまったく動かなかった。肩の骨が外れ、さらに上腕部分の骨がぼっきりと折れている。これでは動かすことすらままならない。脇腹は絶え間なく激痛を訴え続け、身体に力を込めることが出来ない。ジャケットとワイシャツが半分以上破れ、剥き出しになった肌の至る場所に擦り傷と青紫色状の痣が出来ている。
額から血が流れ、口から溢れ出た血と混じり合い、床へぽたぽたとこぼれ落ちた。
満身創痍だった。生まれてこの方、ここまで深い傷を負ったことはなかった。瀕死に窮している自分に現実感が感じられず、この状況を他人事のように感じてしまう。
石和は壁にしがみつき、身体を寄りかからせながら、身体を起こす。激痛を必死で堪え、足に全力で力を込めることによって、ようやく立ち上がることが出来た。
「はあ……はあ……はあ……」
大きく息を乱しながら、周囲を見回す。一体なにが起こったのだろうか。瓦礫の下敷きになった少女から強い光が零れ、それが大爆発を起こして、その衝撃波で石和の身体は入り口付近まで吹き飛ばされた。それは石和にも分かる。
しかし、何故そのようなことになったのか。それが分からない。
これも『能力者』が能力で起こした現象なのだろうか。しかし、既に子供たちは瓦礫の下敷きになり、潰れている。万が一、無事でいたとしても、瓦礫に埋まった状態では視界の確保もままならないので、EPS領域も展開出来ないはずだ。
それにあの『能力者』の能力は『念動力』と『重力操作』の筈だ。この状態は今まで二人が展開してきた『能力』とは全く別のモノに思えるのだ。
「…………」
石和はこの不可解な状況を解明するため、子供達が下敷きになった瓦礫の元へ寄ろうとした。
が、すぐさま踏み留まる。こうなった原因が分からない以上、下手に近づくのは危険だ。迂闊なことはしないほうがいいだろう。
それよりも、早くこの場から脱出しなければならない。傷の手当てもはやくしなければ、下手をすれば命に関わるかもしれない。一刻も早く佐々木と合流して、この廃ビルから抜け出すべきだ。
そう判断した石和はインカムのスイッチを入れて、佐々木に話し掛ける。しかし、大きな雑音を発するばかりで、まったく繋がる様子がなかった。どうやら爆発の衝撃で壊れてしまったらしい。石和はインカムを頭からむしり取ると、無造作にその辺に放り投げ、入り口に向けて歩き始めた。
「はあ、はあ、はあ……」
平衡感覚が揺らぎ、崩れ落ちそうになる。ただ立っているだけなのにそれがひどく億劫なことに感じられる。石和は壁に寄りかかり、体重を預け、左肩を擦るようにして、前へ前へと進んでゆく。
佐々木はどうしているだろうか。先程通信したときの話だと、あと少しでエレベーターの電源は確保できるとの事だった。ひょっとすると、もう脱出できる準備が整ってるのかもしれない。
ここまで来たら、あと少しだ。廃ビルを出ることが出来たら、自分と佐々木は助かる。命が残っていれば、千恵子に会える。子供達に会える。早く会いたい。
そんな想いが石和の胸の中にわき上がり、満身創痍の身体に最後の気力が注がれる。歩みは遅いが、一歩一歩確実に前へ進み、石和はオフィスの入り口をくぐり抜け、搬入用エレベーターに向かって歩き始めた。
――――と。
刹那、石和の背後から轟音が鳴り響いた。今度は爆発音ではない、何かが軋み、吹き飛んだような音だった。
不吉な予感が石和の背中を駆け抜け、全身が泡立った。胸の脈動がどくどくと音を立て、石和の額から大量の冷や汗が溢れ出し、床にこぼれ落ちた。
おそるおそるとした挙動で、背後へと振り返ろうとする。
その瞬間――――背中に衝撃が走った。
「がっ……!」
がんっ、と鈍い音が響き渡り、石和の身体が廊下へとはじけ飛び、壁に頭が衝突した。背中に痛みが走る。額の傷口が広がり、出血が増す。双方の激痛を堪え、傍らに目を向けると、ぐにゃぐにゃにひしゃげたパイプ椅子の残骸が、床に転がっていた。どうやら、石和はこれに直撃したらしい。
不吉な予感は止まらない。むしろ増大する一方で、心臓が張り裂けそうな位大きな脈動を繰り返し、身の危険を訴えている。
オフィスの中に浮かぶ、その光景。その姿。
石和がその姿を確認した、瞬間――――心は絶望に囚われ、すべての希望が無惨に砕け散った。
少年がそこにいた。周囲にある瓦礫を『念動力』で浮かべ。冷たい氷の様な瞳と微塵も感情が見えない人形のような顔を石和に向け。幽鬼の様に立ちつくしていた。
「な…………」
石和は大きく目を見開いて、少年の姿を見据えた。彼の全身は見るも無惨な容姿に変貌していた。少年が身に纏っていた革の衣はほとんどが千切れてなくなり、裸体に近い状態だった。残った部分も焼けこげ、炭化している。
右腕が石和と同様、負傷していた。石和と異なる点は折れているのではなく、千切れかけていた。腕の皮一枚でかろうじて繋がり、ぶらぶらと振り子のように左右に揺れ、今にも二つに分離しそうだ。顔の左半分は皮膚と肉がそげ落ち、眼球が剥き出しになっている。腹の一部は抉れ、あばら骨が剥き出しになり、腸の一部が外へはみ出ていた。
石和の身体が軽傷に見えるほどひどい有様だった。
瓦礫の下敷きになったことと、爆発の衝撃の直撃を受けたこと。この双方が、少年の身体をここまで傷つけたのだろう。この状態からして、少年の命はもう長くないに違いない。
あまりのおぞましさに石和は吐き気を催し、目を背けたくなったが、少年の身体にある違和感を感じて、そこへ釘付けになった。
石和が目に付いたのは少年の腹部だった。肋骨や腸の臓器が一部露出しているその中になにか異物の様なモノが見えた。
黒い角張った箱の様なモノだった。それが血に塗れて腹の中に埋まっている。人工臓器の類には見えない、明らかに不自然な物体だ。しかも、それは腹の中に埋め込まれていると言うより、臓器と共に一体化し、溶けこんでいる様な――――そんな印象を受ける。
黒い箱は明らかに不自然な存在なのに、臓器と自然に融合している、そんな違和感。
なんなのだろうか。アレは。
石和がその違和感に訝しんでいると、ふと、先程、実験室で『瞬間物質転送装置・改』が強制侵入され、少年が転送されてきたとき、佐々木が叫んでいた言葉が脳裏に蘇った。
『石和くん、送信機が受信機に勝手に切り替わっている! モードも原子分解から量子分解に変更されている! どこかにシステムが乗っ取られているんだ! い、いや、違う。原子分解と量子分解のモードが同時に展開しているんだ。な、なんだ、これは……プログラムが書き換えられてる!?』
そして、次に浮かんだのは今し方起こった爆発。あの爆発は少女が瓦礫の山に押しつぶされた瞬間、起こった。まるで狙いすましたかのようなタイミングで。
原子分解と量子分解のモードが同時に展開して転送されてきた『能力者』。
瓦礫に潰された少女から起こった爆発。
腹の中にある黒い箱。
三つの事実が石和の頭の中で纏まり、ある推測が口から零れ出た。
「ま、まさか……転送時に瞬間物質転送装置で、『爆弾』と子供の身体を融合――――したのか……?」
その考えはあまりにも非人道的なモノで、推測した自分を嫌悪したくなるほどのモノだった。
しかし、瓦礫に潰された拍子に体内に融合された爆弾が作動したと考えれば、先程の爆発も納得がいく。本来なら肉体と物質の融合は拒絶反応が発生し、相互が受け入れないが、『あの戸木原』ならそういった処置を施すことも可能なことのように思えた。
最初からこの子供達を使い捨てにするつもりだったのかもしれない。いざとなったら子供達と共に石和達を道連れにすることを考慮して、そんな仕掛けを施していたのではないだろうか。
年端もいかない子供達の脳をいじくり、自らの指示に従わせ、爆弾を身体に埋め込み、標的もろとも自爆させる。
残虐きわまりない所業。戸木原はそれを顔色一つ変えず、笑顔すら浮かべて、子供たちにこの仕掛けを施したに違いない。一度分解して融合を行ったモノは永遠に取り除くことが出来ないのを承知で。
石和は戸木原の狂気に改めて戦慄した。そして、その行いによって、自らが追い込まれたことを知り、絶望に身を震わせた。
爆弾の発動条件がなんであるのか。それはわからない。少年の生体活動が静止するのが条件なのか。それとも、何かの拍子で爆発するのか。石和達を確実に留めを刺すためにの手段だとしたら、戸木原はその両方を選ぶかもしれない。
どちらに転んでも、石和の命は確実に果てることだろう。
石和は小刻みに震える左手で窓の窪みを掴み、身体を壁に擦らせながら、必死に立ち上がる。
早く逃げなければ。確実に石和は殺される。
もう発煙筒も閃光手榴弾もない。ここから切り抜ける策も尽きた。万が一あったとしてもろくに身体を動かせない現状ではそれを実行することは到底不可能だろう。
だから、逃げる。全力でこの場から離れる。もはや、石和にはそれしか道が残されていなかった。
足に力を込め、壁に寄りかかりながら、一歩、一歩と足を踏みだし、少年から距離を取ろうと、足掻く、足掻く、足掻く。
しかし、その進行速度は亀よりも遅い。対して少年は瀕死の身体であるにも関わらず、しっかりとした足取りで、石和に近づき、距離を縮めていく。普通なら激痛でショック死しているほどの傷の筈だ。痛みを全く感じないのか。肉体が強化されているのか。とても瀕死の人間の足取りには見えない。
石和はこれを振り切ることが出来なかった。
二人の距離が二メートル間に縮まった瞬間、少年のEPS領域が発動した。石和は束縛された。
蹂躙が始まる。
石和の左足に違和感が走った。足が何かに引っ張られるような感覚。その力が強まり、石和の足が本来あり得ない方向へと捻れた。ぼきっ、と奇妙な音が響き渡り、そこから激痛が駆け抜け、口から悲鳴が漏れ出た。足の骨が――折れたのだ。
「ぐ、あ……がっ……ぎぃっ……っ!」
気を失いそうな程の激痛。左足の機能を失った石和はバランスを崩し、地面に転倒した。これではもう、立つことすら出来ない。翼をもがれた鳥も同然である。
少年は石和に激痛に悶える暇すら与えない。足を『念動力』で掴まれ、そのまま宙へぶら下げられる。逆さまになった石和の身体が左右に揺れた。
壁に叩きつけられ、窓ガラスの枠に残ったガラスの破片が身体の至る所に突き刺さる。
もう、何処が痛いかも分からない。意識が混濁し、朦朧としかけたところで、床に身体を叩きつけられ、無理矢理意識を覚醒させられた。
「はあ……はあ……はあ……」
なぶり殺しである。先程から少年は致命的な一撃を与えてこない。じわじわと痛めつける形で、石和に攻撃を仕掛けてくる。
少女が死んだ怒りをぶつけ、なぶり殺しをしようとしているのか。それとも元々そう言う命令を受けていたのか。それは石和にも分からない。
しかし、それももう終わりだった。
ぐんっ、と石和の上半身が反りあがった。そのままぎりぎりと音を立てて、身体が真後ろに折れ曲がってゆく。
それと同時に首が見えない力に捕らえられ、双方のその力がじりじりと強まってゆく。
「が……はっ!」
石和は背中に走る痛みと呼吸の出来ない苦しさに声にならない悲鳴を上げた。首と背骨を同時にへし折り、息の根を止めるつもりらしい。
左手と右足をばたつかせて、もがくが、そんなことではEPS領域から逃れることは出来ない。容赦なく少年は石和の身体を束縛し、息の根を止めようとする、
石和の視界がちかちかと点滅し、意識が薄れてゆく。
生きていたい。こんなところで死にたくない。生を渇望する気持ちが石和の胸に沸き上がるが、想いだけでは状況は改善出来ない。
死神は石和の魂を刈り取ろうと、鎌の刃を首筋目掛け、大きく振りかぶろうとしていた。
(……ち……え、こ……すまな……い……)
石和はもうどうにもならないことを悟り、身体の力を抜いた。頭の中に最愛の女性の無邪気な笑顔が浮かび上がり、泡となって消えた。
彼女との約束を守れなかった。誓いを果たせなかった。それが石和には悔しい。千恵子は泣くだろうか。絶望に身を委ね、不幸にならないだろうか。自分が死んだ後でも、千恵子なりの幸せを見つけ、どうか、天寿を全うしてほしい。
子供たちと共に――――幸せになってほしい。
石和は消えゆく意識の中で。そんなことを想い、願った――――。