3「鬼ごっこでの策略」
元来た道を戻り、エレベーターの前にまで戻ると、小さな子供が二人、通路の一番奥の部屋から出てくる姿が石和の目に映った。
子供達を閉じこめていた鉄の扉は溶けた飴のようにぐにゃりと歪み、只の残骸と化していた。どんな侵入者をも阻むはずのその分厚い扉は床に崩れ落ち、二度と扉としての役割は果たさないだろう。
それは普通の人間では到底行えぬ、所業である。これを目の前にいる小さな子供達が行ったかと思うと、背筋が凍る思いだ。
石和は目を凝らして、奥の廊下を見つめる。部屋から出てきた『能力者』は二人。一番最初に転送されてきた短髪の少年。そして、髪の毛がセミロングの少女だった。
石和は二人の子供が皮で出来た衣のようなものを身に纏っていることに気が付いた。少年が『瞬間物質転送装置』で転送されてきたときは裸体だったので、少女が転送されてきた後、わざわざ戸木原が原子分解モードで送って、着せたのだろう。
アダムとイヴはエデンを追放されるときに神から皮の衣を与えられたと言うが、それを意識しての演出だろうか。どこまでもふざけた男である。
もう一人、アップスタイルの髪型をした少女が向こうにはいたはずだが、その子の姿は見当たらない。
二人を始末するのに三人の『能力者』はいらないと、戸木原は践んだのだろうか。完全に見下されていることが石和の癪に障ったが、人数が少ないと言うことはこちらにとっては好機でもある。
二人の能力の目から逃れ、なんとか活路を造ろう。
石和はそう考えながら、二人の少年少女の能力を想い出す。
短髪の少年は超能力で言う『念動力』に近い能力を持っている。自分の身体の何倍もある物体をEPS領域の中で自在に動かすことが可能のようだ。その能力の凄まじさは身を持って、体験している。おそらく少年の目で見たものを対象にEPS領域を造り、物体を自在に操っているのだろう。常に動いて、少年の視界に定まらないようにしなければいけない。要注意だ。
セミロングの少女の能力は『重力操作』と、戸木原は言っていた。視認した領域の重力の操作を自在に行えるらしい。ある意味この能力は短髪の少年より厄介かもしれない。
昌美が重力の束縛に囚われたことを想い出す。少女の視界に囚われただけで、身体の自由を奪われてしまうのだ。一度捕まってしまったら、彼女の視線から抜け出さない限り、開放されることはない。
一度囚われたら、そこで終わり。あまり見通しのきく場所だとどんな遠くにいても重力の檻に捕らえられてしまうかもしれない。あの少女の目に捕らえにくい環境に誘い込む必要がありそうだ。
いずれにしろ、ここでじっと待っていたら、即座に終わりを迎えることになる。子供達の目を引きつけ、何処かの部屋に入り込む。そこからは出たトコ勝負である。
少年と少女の顔が石和の元へ向いた。どうやら、石和の存在に気付いたようだ。感情の抜けたガラスのような瞳がこちらの姿を捕らえた。少年は目をすぅっと細め、抑揚のない口調で『例の言葉』を口にする。
『禍なるかなバビロン。そのもろもろの神の像は砕けて地に伏したり』
すると、部屋の中にあった残骸が宙に浮かび、辺りに漂い始めた。あの子供が有する『念動力』の能力だ。何度見ても現実感のない、不可思議な光景である。現在、自分がいる世界は現実ではない、夢の世界にでもいるような錯覚に陥る。
宙に浮いた瓦礫の群れがもの凄い速度で自分に向かって、襲いかかってきたのを見て、石和は慌ててその感覚を振り払った。惚けている場合ではない。一瞬の油断が致命傷になりかねない状況なのだ。石和は歯を強く食いしばりながら、腰を低く落とした。
ワークステーションのモニターや本体などの様々な機器が壁にぶつかって、粉々に砕け散っていく。石和はその瓦礫の雨をかいくぐりながら、前へ前へと進む。
その最中、ポケットから発煙筒を一つ取り出し、着火する。煙が出始めたのを確認すると、廊下の奥に向かって、投げつけた。子供たちの3メートル程手前にこんっ、と音を立てて落下し、そこから煙が吹き出し、辺りに漂い始めた。煙幕を造るためだ。発煙筒の煙は廊下のような閉鎖空間では充満しやすい。
これによって、『能力者』たちの視界を遮断し、見渡しが効く廊下に障害を造る。石和の視界も遮断されてしまうが、電灯の電源を落とすよりははるかにましなはずである。
「もう一つ……っ!」
叫びながら、石和は二つ目の発煙筒を放り投げる。弧を描いて、床に落下する。二つの発煙筒が大量の煙を吐き出して相互に混じり合い、辺り一面を白い世界に塗り替えていく。
やがて、石和の視界から子供たちの姿が見えなくなった。
これだけ視界を塞げば、EPS領域を展開することは難しいだろう。瓦礫などを凶器として飛ばすことも出来ないはずだ。
石和はそう推測したが――それは的外れな見解であった。
煙の中から瓦礫の破片が飛び出してきた。瓦礫は石和の左頬をわずかにかすめ、そのまま鋭いナイフの様に壁へ突き刺さった。継いで、煙の中から瓦礫の群れが飛び出しくてる。
「う、あああっ!」
石和は驚愕に顔を歪めながら、身体を捻り、瓦礫の群れを避ける。慌てて踵を返して、廊下が両脇に別れたT字路まで後退する。
突き当たりまで駆け抜け、左に折れようとした瞬間、石和の身体に衝撃が走った。轟音と砕け散った何かの破片が身体中のあちこちに直撃し、その衝撃で石和の身体が吹き飛び、床をごろごろと転げ回った。
床を擦った摩擦で着ているジャケットの肘とズボンの膝の部分がびりびりと破れ、その双方から痛みが走った。肌がずる剥け、血がじわりと滲み始める。
痛みを堪えながら、石和は顔を上げ、衝撃のあった方向へ目を向けた。
壁に――鉄の塊が突き刺さっていた。つい先程まで、『能力者』二人を閉じこめる為に使用していた鉄の扉である。外した扉をそのまま能力を使って、飛ばして来たのだ。壁を見ると、辺り一面の壁が陥没して、巨大な穴が出来ていた。床には粉々になった瓦礫と壁の破片が散乱していた。
もし僅かでも左に折れるのが遅れてたら、確実にあの鉄の扉に押しつぶされ、赤く彩られたミンチになっていたことだろう。石和は込み上げてくる恐怖の感情を強く歯がみする事によって、押さえ込み、立ち上がった。
「くそっ……どういうことだ?」
不可解だった。視界は完全に塞いだはずなのに何故、EPS領域を展開できるのだろうか。何か自分の推測が間違っていたのだろうか。壁に背を貼り付け、振り向き様、そっと、煙に包まれた奥の廊下を横目で覗き込む。すると、煙の奥から二つの影がこちらに近づいてくるのが見えた。
「な――――」
目を大きく見開いて、石和は驚愕した。相変わらず、煙は廊下一帯に充満している。しかし、どういう訳か、少年と少女の周りには煙が全くなかった。まるで壁があるかの様に煙を完全に遮断している。
少年の正面、半径二メートル程の半円にはまったく煙が入ってこない。EPS領域を展開して、あの煙を完全にシャットアウトしているのだろう。
それで、ようやく分かった。てっきりあの少年は標的の物体にEPS領域を造り上げ、自在に動かしていると予想していたのだが、どうやらそれは大きな勘違いだったようだ。
横川昌美が銃を撃ったときのことを思い出す。あの少年はその銃弾の動きを無力化していた。銃弾は高速回転で撃ち出される為、視認できない筈だ。
あれは銃弾を視認して止めたのではなく。少年の展開したEPS領域に触れた事によって、銃弾を無力化したのである。
つまり、あの少年は自分を中心とした一定の領域に円状のEPS領域を展開することが出来るのだ。そのEPS領域の中では自分の意志と念動力がダイレクトに接続されており、少年の意のままに物を操作することが可能なのだろう。
それが例え、視認できない物体だとしても。あの領域内では止めることは造作もないというわけだ。だから、あの領域には煙もいかないし、瓦礫や鉄の扉も自在に飛ばすことが出来た。そう言うわけだ。
戸木原が言っていた。『あの力はきちんとした法則に則って、顕現化している』、と。成る程、能力によって色々能力を発動させるまでの過程や法則があるようだ。そして、その制限内では無敵の力を発揮出来るというわけだ。
だが――逆に考えれば、その能力を発現できるのは限られた領域だけということだ。
「はっ……!」
石和は大きく息を吐き出し、駆けだした。手には三本目の発煙筒。すでに着火済みだ。T字路の中心に躍り出て、『能力者』に自分の姿をさらす。石和と言う餌をアピールするためだ。ただし、向こうがEPS領域を造る暇は与えない。
走るの速度はまったく弛めず、発煙筒を子供達に向けて、思い切り投げつけた。少年のEPS領域は発煙筒を跳ね返すが、EPS領域の外を煙が覆い、再びその姿が見えなくなる。これで彼らは能力を使えないはずだ。
あの少年はEPS領域の範囲でしか、その力を展開することは出来ない。だとすると、現在EPS領域の外にいる石和にはその能力を干渉させることは出来ないと言うことだ。 だから、能力発動の推測に間違いはあったが、対処の仕方はこれでいいのだ。
飛び交う瓦礫の雨は確かに驚異的な力だが、あれはEPS領域から外へ投げ飛ばしているだけであって、その軌道は直線的だ。近くにある瓦礫が攻撃してきたり、石和の身体が捕らえられることはないはずだ。辺りを煙で覆っておけば、狙いも定められないので、充分発煙筒は盾としての役割を果たしてくれる。
もう一人の少女はこちらを視界に捕らえないと、『重力操作』は使えないはずなので、視界を遮断してしまえば重力の檻に囚われる心配はないはずだ。
石和はそのまま足を止めずに奥の廊下へと突き進んでゆく。佐々木が向かった方向とは真逆の方角だ。子供達がT字路の突き当たりに来て、石和の姿を見据えた。そのまま、二人は石和を追い、ゆっくりとした足取りで、廊下を闊歩する。
「よし……いい子だ……」
二人が分散する可能性も危惧していたが、どうやら石和の思惑に乗ってくれたようだった。これでいい。あとは何処かの部屋に誘い込んで、子供達をかく乱し、佐々木がエレベーターを復旧させるまでの時間を稼ぐのだ。
再び瓦礫の雨が石和にかけて降り注ぐ。石和は腰を低くかがめて、その瓦礫を避けながら、発煙筒に着火し、視界に壁を造って進んでゆく。
子供達を振り切った後も、定期的に発煙筒を床に落とし、煙幕を張っておく。こうしておけば、子供達には石和がどの方向へ向かったかへの道標になるだろう。
「はっ……はっ……はっ……!」
石和は呼吸を乱しながら、廊下の突き当たりまで、駆け抜け、右に折れた。
壁には『Cブロック』と書かれたプレートが掲げてある。
周囲を見回すと、左右にそれぞれよっつの扉があった。石和はその扉を前から順に片っ端から扉を開き、中の部屋を確認してゆく。この辺のブロックの構造はまるで把握していない。そんなものを調べてる暇など全くなかったからだ。あの二人を何処へ誘い込むのか。
急いでそれを決めなければならない。
どんな場所が適切だろうか。石和は空けた部屋の中を見回しながら、考える。
狭い個室? 論外だ。身動きが取りづらい場所ではあっという間に子供達の視界に囚われ、EPS領域を展開されてしまう。
なるべく広い場所がいい。少年のEPS領域がまるで行き届かない位、大きな大きな部屋。かといって、あまりガランドウな部屋だとどんなに動き回っても『重力操作』を使う少女にEPS領域を展開され、捕まってしまう。ある程度遮蔽物がある部屋がいい。それを盾にすれば、EPS領域に囚われることなく、時間を稼ぐことが出来るだろう。
部屋の面積が大きく、遮蔽物のある場所。それが最適だと、石和は判断した。
しかし、そう都合良く、そんな条件の揃った部屋がここにあるのだろうか。ましてや、ここは廃ビルだ。どこかの会社が使用していたものらしく、広い部屋はそれなりにあるのだが、遮蔽物がある場所となると、かなり限定されるだろう。
廊下に発煙筒をばらまいて、あちこちを逃げ続け、それで時間を稼ぐべきか?
いや、発煙筒の煙はあくまでも目くらましで、子供達の進行を食い止めるのには全く役に立たない。発煙筒ももうほとんど残ってない。佐々木の元へ行かせない囮的な意味もある。やはり、部屋に誘い込んで、かく乱するのがこの状況下においては一番ベストに思えた。
そんな分析を行いながら、部屋を調べ続け、6つめの部屋。
そこには石和の考えた条件が揃っている部屋があった。試しに電灯のスイッチを入れて見るとと、ぱっと灯りが灯った。
辺りを見回してみる。そこには奥行きのある巨大な空間が広がっていた。高い天井の部屋で、広さは108平方メートル、天井高は3.5mはあるだろうか。デスクが定期的な位置に置かれており、部屋のあちこちに大型の機器や椅子などが乱雑に置かれている。
このビルが健在のとき、オフィスとして使用していた場所だろう。電灯がついたり、辺りの機器に埃があまり積もっていない所を見ると、新井博士たちが物置かなにかに利用していた場所のようだ。
これだけ広ければ、あちこち動き回れるし、身を隠す場所もたくさんある。鬼ごっこに利用するにはもってこいの場所だろう。
石和は乱れた呼吸を必死に整えながら、インカムのスイッチを入れて、マイクに向かって話し掛ける。
「はあ、はあ……さ、佐々木。俺だ。き、聞こえるか……?」
『……石和くん? 感度良好、よく聞こえる』
ここからでも電波は問題なし。連絡を取りながら、行動することに支障はないようだ。
「……どうだ、状況は? はっ……エ、エレベーターの電源は確保できそうか?」
『心配はいらない。新井さんと篠塚さんはここの非常用電源に独自の管理コンピューターを繋いで、それぞれの部屋を管理していたみたいだ。各部屋の電源は勿論、エレベーターの電源の切り替えもこっちですべて操作出来る筈だよ』
佐々木の言葉に安堵の溜息を漏らす。これで操作できるコンピューターが別の場所に設置してあったら、手の打ちようがなかったところだ。
「そうか……じ、時間はどの位かかりそうなんだ……? はあ、はあ……」
『およそ五分から十分! それまでにはなんとか。急ピッチで作業を進める。すまない、それまでどうにか堪えてくれ!』
「はっ……了解だ。なるべく早めに頼む。こちらも多分、そんなには持たない……急いでくれ」
『わかった! エレベーターの電源が入ったら、すぐ報告するから!』
短い会話を終えて、通信を切る。石和は呼吸を整えながら、ジャケットの裾で額からこぼれ落ちる汗を拭った。
「はあ、はあ……十分か……少しきついかもしれないな」
佐々木の報告は希望を抱くには充分なモノだったが、それ以上に不安が大きい。あの怪物相手にあと十分も鬼ごっこを繰り広げることが出来るのだろうか。
正直、その自信はまったくない。EPS領域に囚われたら、一巻の終わりという綱渡り的な状況を十分も持続できるとは思えない。
「一か八か、やってみるか……」
先制攻撃を仕掛けてみよう。あれに敵うなんて、微塵も思ってはいない。だが、不意をつけば、一時的に無力化することぐらいは出来るかもしれない。少しでも自分に有利な状況を造っておかないと、時間を稼ぐのはかなり難しい。
とりあえず、武器だ。なにか、武器の代わりになるものがほしい。そう思った石和は周囲を見回した。部屋の脇に山と積まれた折り畳み式の椅子がある。石和はその一つを引っ張り出し、手に取った。椅子の脚の部分はステンレスのパイプで出来ている。これなら、鈍器として使用できるだろう。相手は規格外の怪物とはいえ、見た目はただの子供なので、こんなもので殴りつけるのは正直、かなり抵抗がある。
が、そんなことを言っている場合ではない。例え自分の倫理に触れようが、やらなければ、自分が死に、それは佐々木の死に繋がる。やるしかない。
――――と。その時だった。静寂に包まれていた空間に二つの甲高い雑音が石和の耳に入り込んできた。足音だ。それと同時に聞こえてくる、ごん、ごん、と何かがぶつかるような鈍い音。
石和がそっと、ドアの外を覗き込むと――その瞬間、黒い影が過ぎった。轟、と鈍い唸りを上げて石和の目の前すれすれを横切り、そのまま黒い影は突き当たりの壁に衝突した。壁が大きく陥没し、その衝撃で廊下側に付いている窓ガラスのいくつかに大きな亀裂が入った。
大きく目を見開きながら、壁にめり込んだ黒い影に目を向けると、そこには先程、石和に向けて投げつけてきた鉄の扉の残骸がそこにあった。反対側を見ると廊下の一番奥で少年が冷たい瞳でこちらを見据えていた。丁寧に一度壁にめり込んだモノを丁寧にここまで持ってきたらしい。石和の身体中に冷たいモノが駆け抜け、氷のような汗が床に音を立てて、落ちた。
「躊躇してる場合じゃ……なさそうだな」
石和は小刻みに震える右手で、ジャケットの胸ポケットから、あるものを取り出した。