8「囮~おとり~」
「こ、これは……まさか、転送現象!?」
佐々木が狼狽した声を挙げる。石和は眉を潜め、舌打ちをした。まただ。更なる追い打ち。あの男はまた、『能力者』を送ってくるつもりだ。
ひょっとしたら、あのときにいた三人をすべて送ってくるつもりなのかもしれない。一人でも手の余る『能力者』がこれ以上いたら、どうなるか……。想像しただけで怖気が走る。確実に逃れられぬ死が待っているに違いない。焦燥感が精神を浸食するその最中、石和の耳に嫌な音が混入された。
瞬間物質転送装置・改の唸りに混じって、ぴた、ぴた……といった小さな音が聞こえる。少しずつ、その音が大きくなってゆく。間違いない。『能力者』の少年がこちらに向けて、近づいてきているのだ。石和の身体に冷たい感覚が駆け抜け、肌を泡立たせた。
「くっ……! 佐々木、行くぞ。抜け出す好機は今しかない!」
そう言って、石和は入り口に向けて、全速力で駆け出した。もはや一刻の猶予もない。急いで脱出しなければならない。
「わかった!」
佐々木がその声に答えて、石和のあとに続く。壊れた椅子やデスクが石和の真横を横切り、壁に衝突した。轟音が響き渡り、粉々に砕け散った破片が石和の身体に当たる。モニターの光とカプセルの発光現象で視界が回復し、EPS領域を造り出すことが出来たようだ。
しかし、まだ薄暗いせいか、狙いが定まってないらしい。石和は足を止めることなく、石和はドアの開閉ボタンを押し、廊下へと走り出た。
ドアは電気を利用した自動ドアだが、今は非常用に内部電源に切り替わっている。ブレイカーを一旦、上げて電源を入れ直すリスクを冒さずにすんだのは幸運と言えるだろう。 一瞬でも電灯をつければ、その瞬間、EPS領域の檻に捕らえられてしまうかもしれないのだから。
続けて佐々木が抜け出し、自動ドアがしまる。すかさず、佐々木はポケットの中から一枚のカードを取り出した。
「はあ、はあ……ちょ、ちょっと待って! 横川さんが転送する前、ここのカードを預かったんだ。これを使って、いくつかの条件を重ねれば、この自動ドアを完全にロックすることが出来るはず!」
言いながら、佐々木はカードを挿入口に入れ、ボタンを操作する。がちゃん、と重い音が内部から響き渡り、ドアのロックがかかる。挿入口からカードが排出されると同時に電源が落ちた。
「これで内部からもこのドアは開かない……完全に幽閉状態だよ……はあ、はあ……」
佐々木がそう言った次の瞬間――ごんっ、と鈍い音が響き渡り、厚い鉄で出来た頑丈そうな扉に歪みが生じた。巨大なハンマーで思い切り叩いたとしてもこんな歪み方はしないだろう。佐々木はじり、と後ずさりをした。
「そ、そんな……」
ごん、ごん、と鈍い音が続いて響く。子供達が『能力』を行使して、ドアを開けようとしている音に違いない。
ごん、ごん、ごん、ごん。
単調なその音は、石和の焦燥感を掻き立てる。あの分厚い扉を強引にこじ開けようとするとは……やはりあの子供達は規格外だ。自らの『能力』を用い、必ず突破してくるに違いない。
「いこう! ここから脱出しよう!」
佐々木は石和の言葉に無言で頷き、二人は同時に駆けだした。
長い長い、一本道の廊下。石和と佐々木は全力でその廊下を駆ける。駆け抜けてゆく。
急げ。急げ。急げ。早くしないと、ドアが突破されてしまう。この廊下は何の遮蔽物もない一本の長い廊下である。
『能力者』達が外に出てくれば、一目で彼らの視界に入り、EPS領域に捕らえられてしまうだろう。
あの子供達がここに出現した理由は考えるまでもない。機密情報を手にした自分たちの抹殺が目的だろう。
今度、EPS領域に捕らえられたら、確実に殺される。ヒトとしての尊厳を無視した最悪の死の手がすぐそこまで伸びていた。
ここには電源を落とすべき、ブレーカーのスイッチもない。どこかにはあるのだろうが、それを探す余裕もない。今はあの扉が容易に破られないことを祈り、地上を目指す。それだけだ。それしかできない。
地上に上がれば……地上にさえ上がれば、なんとかなる。助かる。自分たちの持ち帰った情報を公表できる。そこにすべての希望を乗せ、その想いを力に変換し、身体を動かす原動力とする。
(地上にさえ上がれれば、すべては……)
――――どうなのだろう。ふと、石和の頭にそんな不安が過ぎった。
人目の多い場所へいけば、彼らは追ってこられない。少なくとも『能力』を行使してなど来ないだろうと、践んでいたが……実際はどうなのだろうか。
圧倒的な、『能力者』のその『能力』。おそらく、自分たちはまだその片鱗しか見ていないが、それでもそれが常軌を逸脱した強力なモノであるということは実感した。今でも身体を止めて、深く考えれば恐慌状態に陥ってしまいそうだ。
もし、繁華街へ出ても彼らが追うことを諦めなかったら。
もし、彼らが『能力者』の『能力』をヒトの多い街で使用したとしたら。
街は大混乱に陥るのではないだろうか。
新井博士が十字路で暴れ、大混乱となっていたあの光景を想い出す。アレが街に出たら、それ以上の騒ぎと惨劇が起きるのではないか。そう考えると、不安がどんどん拡大してゆく。多分、あの子供達は諦めない。だからこそ、わざわざ瞬間物質転送装置・改に強制侵入までして、送り込んできたのではないか。
(……いや、考えるな。いまは。それを考えてはいけない)
石和は小さくかぶりを振って、その考えを振り払った。自分に与えられた選択肢は限りなく少ない。
ここで『能力者』に捕らえられ、殺されるか。
逃げ延びて、機密を世間に公表するか。
二者択一。それだけだ。ならば、後者を選ぶしか道はないではないか。今から最悪の結果を気にしていても始まらない。今は子供達の手から逃れ、生き延びる。それだけを考えよう。
そんな葛藤を続けながら、走り続けていると、ようやく終着地が見えてきた。
搬入用エレベーター。T字路に別れた中心に自分たちが乗ってきたエレベーターが眼前にあった。これに乗れば、地下から地上へ上がれる。この廃ビルから抜け出すことが出来る。背後を見やるが、まだ『能力者』達はドアを突破してないようだ。これからのことは分からないが、これで一時の安堵を得ることが出来る。
石和は息を乱しながら、エレベーターの脇に付いているボタンを押した。ボタンなど一度押せば充分であるが、はやる気持ちを抑えられず、何度もボタンを連打してしまう。
……しかし、扉はその気持ちに答えることはなかった。開かない。何故か、ドアが開かない。
「え……?」
何かの間違いかと思い、再度ボタンを連打する。が、やはり結果は同じだった。搬入用エレベーターの扉は固く閉ざされたままだった。
「はあ、はあ……ど、どうしたんだい、石和くん。早くエレベーターに乗らないと『能力者』が……」
「開かない……エレベーターが動いてないんだ」
「え?」
背後にいた佐々木が目を丸くして、エレベーターの前に駆け寄り、ボタンを押す。石和と同様、何度も何度も繰り返し押すが、それでもエレベーターは微動だにしない。
そもそも、妙だ。エレベーターの稼働ランプすら点灯していない。つまり、このエレベーターには――――
「そ、そんな……このエレベーター、電源が入っていない!?」
絶望的な声で佐々木が叫んだ。
「でもどうして! 来るときは普通に動いていたのに!」
石和は無言で大きく頭を左右に振った。
分からない。分からないが、ここで立ち往生しているわけにも行かない。いつ、『能力者』がここへ来るかも分からないのだ。
「通常のエレベーターを調べよう。佐々木は非常口を! どこかに非常階段があるはずだ」
「わ、分かった!」
石和の指示に佐々木は頷き、二人は再び駆けだした。通常のエレベーターは搬入用エレベーターの近くにあり、すぐに見つけることができた。しかし、搬入用エレベーター同様、何度ボタンを押しても、ボタンが点灯することも、扉が開くこともなかった。
「はあ、はあ……石和くん、だ、駄目だ。非常口は見つかったけど、ドアがロックされていて開かないんだ!」
再び搬入用エレベーターの前に戻ると、佐々木が悲痛な声で告げた。
「こっちもだ。稼働ランプすら点灯していない」
石和がそう言うと、佐々木の顔が青色に染まった。つまり、それは。この廃ビルの地下から抜け出せないことを意味していた。完全にこの巨大な密閉空間に閉じこめられてしまったことになる。
「だけど、いったい何故? 廊下の電灯はついているし、瞬間物質転送装置・改の電源は健在のままなのに、どうしてなんだ?」
佐々木の疑問はもっともだ。電気までもネットで管理している訳ではないだろうから、システムを乗っ取られたとは考えにくい。だとすれば、他に動かない理由があるはずだ。
なにかの拍子で電源が落ちたのか。それとも、昌美が意図的に電源を落としていたのか。昌美はそんな素振りを見せていなかったか……
「……そういえば、昌美がこの搬入用エレベーターを動かすとき、なにかしていなかったか?」
石和の呟きに佐々木は頷き、
「う、うん……携帯電話をなにかいじっていた気がする」
と、言った。
「――――」
そうだ。思い出した。この廃ビルは巧妙にカモフラージュをしているので、外部からはこの搬入用エレベーターが稼働しているかどうかは分からない、と昌美は言っていた。
つまり、このエレベーターは動かないのではなく。通常の方法では動かないように細工されていたのだ。昌美が携帯電話を操作した後に搬入用エレベーターは動いた。おそらく、昌美がいじっていたあの携帯電話。電波をある箇所に流すことによって、稼働するような仕組みにでもなっていたのだろう。だとすると、この搬入用エレベータを稼働させるにはあの携帯電話が必要ということになる。
しかし、昌美はもういない。転送時に携帯までは向こうへ持って行ってないと思うが、『能力者』を閉じこめたあの部屋に置いてある可能性が高い。
とてもではないが、今からでは取りには戻れない。危険すぎる。
「くそっ!」
石和は一人悪態付きながら、額に手を当てた。
どうすればいい? どうすればいい? なにか……なにか方法があるはずだ。必ず方法はある。ない筈がない。もしなければ、携帯電話になにかしらの異常があった場合、昌美達も外に出られなくなってしまうではないか。必ずそれのトラブルに備えて、別の予備を用意してあるはず。
問題はその方法だ。電源が入らないのはそういう風に細工したからであって、使えないわけではないのかもしれない。つまり、通常の回線に戻せばいい。それが出来る場所といえば……。
と、その時。ここに入ってきたときに昌美と話していた会話が石和の脳裏に過ぎった。
『電気はどこから持ってきているんだ? ビル本体があの有様じゃ通常の電力は持ってこれないだろう』
『ここには小型の発電施設があるので、それですべて賄ってます。ガスや水道、光回線なんかも使えるように改良しました。その辺りは法に抵触する手段をいろいろ使ってるので、割愛しますけど』
――――それだ。この地下のフロアには発電施設がある。それに連動した電気を司るコンソールのようなモノがあるに違いない。
「佐々木、昌美を転送する前に補足マニュアルを読んだよな? あれの中の項目に発電施設の項目がなかったか? 俺は途中までしか読まなかったが、確かそんな感じの項目があった気がするんだが」
記入されていた可能性は高い。電圧や電源が落ちてしまったとき、必ずなんらかの処置が必要になるからだ。佐々木は腕を組みながらしばし考え、
「う、うん……そういえば、あったような気がする。ソーラーシステム型の小型発電機。太陽光をエネルギー変換して、蓄電池にためるタイプのヤツが設置されているとか」
「間違いない。それだ。瞬間物質転送装置を使用するには相当の高圧電流が必要とされる。それらを管理するコンソールが必ずある。多分、そこにエレベータの回線を戻すシステムも搭載されているはずだ!」
「で、でも、もしなかったら?」
「この廃ビルという限られた条件下で、瞬間物質転送装置・改なんてとんでもないものをあの二人は造ったんだ。必ずなにかしらの予防策を講じてあるさ。万が一閉じこめられた場合、必ずどこかに何かが用意してある。すべての抜け道を塞いだのも籠城を想定してのことだろうしな。搬入用エレベーターが稼働しなくても、非常用口か、通常エレベーターの電源か、どこかに抜け口を造ってあるに違いない。そして、一番可能性が高いのがその発電施設を司るコンソールなんだ! 佐々木、その発電施設の場所はわかるか?」
佐々木は頷き、T字路の左の方角を指さした。
「うん。こっちにまっすぐ行って、突き当たりのT字路を左折。そのまままっすぐに行って一番奥の部屋がその施設だった筈だよ」
石和はちらりと背後を一瞥しながら、
「分かった。もう時間もない。俺は一か八か発電施設のコンソールに賭けてみたい。佐々木、お前はどうだ? 俺の賭けに乗るか? それとも他に方法があれば――――」
佐々木は大きくかぶりを振り、すかさず答えた。
「ないよ。石和くんのいう事はもっともだし、可能性が高いと思う。そして、僕には他に方法が思いつかない。だったら、発電施設のコンソールに賭けてみるよ」
「そうか。それじゃあ……」
石和はポケットからあるモノを取り出した。
インカムだった。予備としてポケットに忍び込ませておいたものだ。最初から佐々木に渡しておけばよかった。そうすれば、昌美も同時に佐々木の意見も聞きながら、行動できただろう。今更言っても仕方のないことだが。
石和は自分が持っているインカムとの同調を終えると、スペアのインカムを佐々木に放り投げた。佐々木が驚いた表情でインカムを両手で受け取った。
「こ、これは?」
「見ての通りインカムだ。回線は繋がってるから、スイッチを入れれば通信は出来る。ネットや中継機を経由していないから、通信距離はそんなに遠くないが……まあ、この地下施設で使用するには充分な筈だ」
「ど、どういうことだい、石和くん。なんで、こんなものを?」
困惑する佐々木に石和は低い声で告げた。
「佐々木、お前は一人で発電所にいってくれ。俺はここに残る」
「え……?」
意味が分からない。佐々木はそんなの表情を浮かべていた。石和は顔を後ろに向けて、顎をくい、と捻った。石和が顎で指す場所はいま逃げてきたばかりの廊下の道。
ごん、ごん、ごん、ごん。
遠くから鈍い音が響き続けている。奥のドアがぐしゃぐしゃに変形しているのが遠目にでも分かった。すでにドアの原型は留めていない。あれほど厚い鉄で出来たドアが今にも壊れそうだった。
「こ、こんな短時間で……」
「見ての通りだ。あれじゃあ扉が壊れて、子供達が出てくるのは時間の問題だ。二人で一緒に発電施設に行って戻ってきたら、確実にドアは壊されて、あいつらは出てきているだろう。そして、その後は間違いなく『能力者』の餌食になる。だから、ここは分散する方が得策なんだ。佐々木は一人で発電施設に行って、出口になる電源を探してほしい」
「だ、だけど、それじゃあ……石和くんはどうするんだい?」
「言っただろ。ここに残るって。時間を稼ぐ。囮になって『能力者』達が発電施設に行かないようにする」
「無茶だ!」
佐々木は大声で叫んだ。
「石和くんだって身を持って知ったじゃないか! 『能力者』はヒトの規格を逸脱した化け物だ。僕たちなんかじゃ絶対かないっこない! しかも僕たちには対抗する武器も何もない。それなのに一人で残るなんて滅茶苦茶だ! 死んでしまう!」
「別にアレに対抗しようなんて思ってない。佐々木が突破口を開くまで、逃げ回るだけだ。なんとかやってみるさ」
「それでも無理だ! 二人で発電施設のコンソールを調べるべきだよ。そのほうが効率よく調べられる」
「駄目だ。コンソールを調べている最中に襲われたら、一巻の終わりだ。逃げ場がないし、『能力者』に発電施設を破壊されたら、今度こそ、外に出る手段がなくなってしまう」
「だったら、僕が! 僕が代わりに残る!」
「言い出しっぺは俺だ。それにここの発電施設のコンソールにも佐々木の網膜と指紋登録が施してあるかもしれない。もし、そうだったら、どうする?」
石和の問いに佐々木は口淀んだ。
「だ、大丈夫だと思う。新井博士と篠塚さんがいなくなっても、横川さんは一人でここを動かしていたんだから」
「……かも、しれないな。だが、可能性はゼロじゃない。そうなった場合、俺が行ってもその行動が無意味になり、そのタイムラグで間に合わなくなるかもしれない」
「だ、だけど……だけど……っ!」
佐々木の顔がくしゃくしゃに歪む。今にも泣き出しそうな顔だった。石和は苦笑しながら、右拳の甲の部分で、佐々木の胸をとん、と軽く叩いた。
「勘違いするなよ、佐々木。俺は死ぬ気なんて、さらさらないからな。一番生き残る事が出来そうな手段を選んだ。それだけだよ。俺には千恵子がいる。子供達がいる。あいつらの為にも、俺は生きなきゃいけない。だから、やられたりはしない。絶対だ。上手く逃げおおせて見せるさ」
「いさわ……く、ん」
「それにあいつらの『能力』には欠点がある。気付いたか? 『能力者』は視覚を利用してEPS領域を造り出しているから、視界を遮断してしまえば、EPS領域は展開出来なくなるんだ。こいつを上手く利用すれば、能力は使えなくなり、ただの子供になる。何とかなるさ」
「うっ……ううっ……い、いさわく……」
佐々木はぼろぼろと涙を零し始めた。石和は佐々木のその濡れた瞳を見ながら、告げる。
「俺の賭けに乗るって言っただろ? だったら、俺の指示に従ってくれ。ここから脱出できるかどうかは佐々木、お前次第だ。頼んだぞ」
佐々木はしゃくり声を押さえ、零れる涙を両手で拭いながら、苦笑いを浮かべ、
「んっ……前々から思ってたけど、石和くんの言う事って、なんだか偉そうだよね。同じ研究所責任者である僕らにも指示出すのに違和感がないっていうか」
と、言った。
「む。そうか?」
「しかも、無自覚。見てて違和感がないし、やっぱり石和くんはリーダーに向いてるんだよ。第五研究所の統括になったらどうだい?」
「よせよ、俺にはリーダーは向いてない。気まぐれで、我が儘だからな」
石和は唇を笑みの形に歪めながら、拳を佐々木の胸元に突き出した。佐々木が力強く頷きながら拳を握り、石和の拳に、こん、と当てた。
「頼んだぞ」
「うん。石和くんも無茶はしないで……と、言っても無理だよね」
「ああ。相手が怪物だからな。無茶しないと生き残れない」
「だったら、約束してほしい。絶対に死なないで。生きて、二人で必ずここから脱出しよう」
「ああ。俺は死なない。絶対にだ」
互いに頷くと、再び石和と佐々木は拳同士を重ね合わせた。そして、それが作戦開始の合図となった。佐々木は駆けだした。一刻も早く発電施設にたどり着き、地上への扉を開放するために。石和はその姿を見送る。佐々木が突き当たりの道を左折し、その姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめ続けた。
「さて、と」
石和は独りごちながら、正面の廊下へと目を移した。
ごん、ごん、ごん、ごん。
廊下の奥から鈍く響く、扉を叩く音。扉を破壊する音。単調で一定なリズムを刻み、その音が続く。不気味だ。音が一つ、また一つと鳴り響く度に心臓が鷲づかみされたような感覚に囚われる。
遠目からでも分かる。もうすでに扉としての機能が失われつつある。ぐにゃりと歪んだその扉は溶けた飴を彷彿させた。あの調子ではあと十分も持たないだろう。
腹を括らなければならない。
気付くと、額からぽたぽたと冷たい汗がこぼれ落ちていた。両手を見ると、指がふやけるほど大量の汗でぐっしょりと濡れていた。その手が小刻みに揺れている。震えている。手だけではない。両足も大きく震え、己の意志では止めることが出来ない。
「ったく……俺も意地っ張りというか強がりというか。我ながら呆れるな……」
冗談めいた一人の呟きさえ、震えている。声も、身体も、心も、すべてが震えている。
怖いのだ。怖くて、怖くてたまらない。
本当はこんな場所に留まりたくなどない。
モニター上でみた昌美のあの姿。目の当たりにした『能力者』の『能力』。瓦礫の蓑虫と化した佐々木の姿。思い返すだけでぞっとする。あれともう一度、しかも自らの意志で対峙するなど正気の沙汰ではない。ましてや、こちらには対抗する武器などは一つもないのだ。こんな状況で佐々木が突破口を開くまで、どうやって時間を稼げばいいのか。まるで分からない。
何処かの部屋に入り込んで、部屋を暗くしてやり過ごすか?
駄目だ。そんなことをしても意味がない。あの『能力者』達の目をすべて引きつけなければ、囮としての意味がなくなる。そうなれば、発電施設に行った佐々木にまで被害が及んでしまうだろう。
どこかの部屋におびき寄せて電灯を破壊して、部屋を真っ暗にし、そのまま閉じこめてしまうか?
それも駄目だ。なんの武器もない状態ではブレーカーの破壊に時間がかかる。鈍器を探し、壊している間あまりにも無防備になるので、その間に『能力者』のEPS領域に捕らえられてしまえば、それで終わりとなる。
それに部屋を暗闇にしてしまうと自分自身も視界を奪われてしまうので、諸刃の剣である。EPS領域の消失も視界の遮断が原因だと状況から推測しているが、ひょっとしたら、なにかの例外があるかもしれない。視界の遮断だけに依存するのは危険すぎる。
……なにも、浮かばない。なにも、突破口が見つけられない。
次の瞬間に扉が破壊され、『能力者』が目の前に現すかもしれないという、この状況で、打開策のひとつもない。これで怖くない方がどうかしている。
だが、佐々木の前でその姿を見せるわけにはいかなかった。自分が恐怖し、『能力者』に対し、何の策もないことを知ったら、間違いなく佐々木はこの案に反対しただろう。二人で発電施設にいく案を強く押したに違いない。
しかし……それでは駄目なのだ。恐怖による不安は紛れるかも知れないが、それだけである。確実に『能力者』に追い込まれ、地上への帰還が困難となる。
だから、おそらくこれが現状で生き残るために必要な最善の方法。二人で生き残るために。やるしか、ない。
「……『能力者』に姿をさらしながら、逃げまくる。捕まったら、ゲームオーバー。ははは、まるで鬼ごっこだな」
一人笑いながら、そんなことを呟く。鬼ごっこ。勝義によく付き合わされたのを想い出す。千恵子と三人で公園の中でよく遊んだものだ。少し気恥ずかしい想いをしながらも、童心に返るのも悪くないと思った。運動が苦手で、あたふたしながら逃げ回る千恵子。笑いながら追いかける勝義。楽しかった。柄ではないかも知れないが、そう思える時間だった。
……そうだ。これも鬼ごっこだと思えばいい。子供達とのたわいのない遊び。どうやったら子供達に捕まらずに済むか。楽観的に考え、挑んでみよう。
どんなときでも冷静的に理論的に。そうすれば必ず突破口は見つかる。見つかるはずだ。
そう信じよう。
「千恵子……頼む。俺を護ってくれ」
最愛の妻を頭に思い描く。彼女の元へ必ず帰る。彼女を抱きしめる。強く強くそう念じ、その想いを糧とし、挫けそうになる心を、身体を奮い立たせる。
そして、石和は動き始めた。生き残るための最善の方法を探す為に。
――――そうして、世界で一番危険な鬼ごっこが始まった。