6「悪夢の始まり」
「――――」
頭の中でパズルのピースがかちり、と当てはまる。瞬間、石和の思考が真っ白に染まり、身体に電撃が流れたような衝撃が駆け抜けた。肌が泡立ち、眩暈が起こる。平衡感覚が失われ、身体が崩れ落ちそうになる。
「ま……さ、か」
それは最悪の予想だった。そんな筈はない。そんな筈はない。そんな筈はない。あり得ない。自分の予想は大きな的外れだ。そんなことをすれば、すべてが終わる。終わってしまう。第一、戸木原自身も只ではすまないではないか。
「……石和くん?」
傍らで佐々木が怪訝な声で話しかけてくる。だが、石和はその声に答える余裕はない。佐々木の持つインカムを無造作
に掴み、低い声で戸木原に話し掛ける。
「戸木原……お前はさっき言ったな。『リスクを冒さなければ、何も試せないし、何も始まらない』、と」
ガクガクと震える腕を必死に堪えながら、言葉を紡ぎ、問う。自分の推測が間違っていることを祈りながら。
「……答えろ。そのリスクとはなんだ? 第一計画でなにをやろうとしている? お前はひょっとして自分自身の命まで顧みない行動を起こそうとしているんじゃないか?」
石和の言葉に戸木原は一瞬驚いた表情を浮かべたが すぐさま、満面の笑顔で大きく頷き、そして言った。
『驚いたなあ。ちょっとした余興のつもりだったんだけど。まさかこれだけのヒントで真相に辿り着いちゃうなんて。やっぱり石和くんは頭が切れるなあ。第五研究所のメンバーの中でもぴか一の秀才だよ。うん、多分正解。答えは聞かないし、聞いても答えないけどね。面白くなくなっちゃうから。でも多分石和くんの考えている『Dー計画』の予想は合っているよ。リスクは他人だけじゃなく、自分も共有しなくちゃ不公平じゃないか。どうせならみんな仲良くね』
「――――っ!」
最悪の返事だった。呼吸が止まり、心臓の鼓動が加速する。石和は悲鳴のような叫び声を上げた。
「狂ってる……お前は狂ってる! そんなのは――進化じゃない! ただの『混沌』だ!」
『混沌。いい響きだねぇ。僕らは生物の進化する過程のことはまったく分かってないけど、進化の前にはなにかしらの混乱があったと思うんだよね。混乱は混沌に繋がり、新しい道を造り出す。きっと造り出してくれる。それこそが『僕たち』の望む進化だよ。自分の身がどうなろうと僕自身が道標となるなら、本望だよ』
「ふざけるな、そんなことをしたら進化どころじゃない! すべてが終わってしまう!」
石和の叫びに、戸木原は大きく首を左右に振って、目を細めた。
『終わりじゃない。これが始まりなんだよ』
「…………」
ぎりと歯がみしながら、戸木原の目を見る。迷いの一切ない瞳の光。この男は本気だ。本気で自らの命すらも、自分の研究に捧げようとしている。正気の沙汰ではない。
「い、石和くん。いったい何が……?」
傍らで佐々木が困惑した表情を浮かべている。状況が把握できないのだろう。しかし、石和には説明している余裕はない。黙殺して、モニターの中にいる戸木原を睨み据える。
『……さて、名残惜しいんだけど、そろそろお別れの時間だね。これ以上放っておいたら横川さんが本当に死んでしまうし、Dー計画のタイムリミットがもう間近なんだよね。早く準備をしなくちゃ間に合わなくなる。その刻を逃したら、次はいつになるか分からないからね。その好機を最大限に生かすため、万全の準備を整えておかないとね』
「タイムリミット……?」
石和が怪訝な声で反芻するが、戸木原はなにも答えず、微笑を浮かべた。そして、
『それじゃあ、始めようか』
と、言った。
そのとき――だった。突如として、部屋にある機器に異変が起こった。先程からモニターの片隅で表示され続けていた奇妙な文字の繰り返し。これが巨大な文字となって、戸木原の映る中央のモニターを除く全域に浸食し始めた。
彼 天より降りる エホバ 天をたれてくだりたもう 御足のもと暗きことはなはだし エホバくだりて かの人々の建つる街と塔を見たまえり いざ我らくだり かしこにて彼らの言葉を乱し互いに言葉を通ずることを得ざらしめん ゆえにその名は バベルと呼ばる。禍なるかなバビロン そのもろもろの神の像は砕けて地に伏したり彼天より降りるエホバ天をたれてくだりたもう御足のもと暗きことはなはだしエホバくだりてかの人々の建つる街と塔を見たまえりいざ我らくだりかしこにて彼らの言葉を乱し互いに言葉を通ずることを得ざらしめんゆえにその名はバベルと呼ばる。禍なるかなバビロンそのもろもろの神の像は砕けて地に伏したり彼天より降りる――――
幾度も幾度も赤い文字で繰り返される旧約聖書の一節。それがOS画面の上に刻まれ、赤い字に犯されてゆく。瞬間物質転送装置・改だけではない。新井博士のメッセージを見るときに使用していたワーク・ステーションのモニターにも同様の現象が発生し、画面が赤色に染まっている。
「な……」
石和は唖然として、周囲を見回した。慌ててコンソールに指を滑らすが、反応は皆無。OS画面はまったく変わらない。赤色の文字に埋め尽くされたままだ。
「駄目だ! 認証も入力もまるで受け付けてくれない!」
傍らで佐々木がコンソールを必死に叩きながら、悲鳴のような声をあげる。こうなるともう、網膜や指紋認証も何の意味も持たない。この部屋にあるコンピューター関連の機器は完全に使い物にならなくなっていた。
強制侵入されたのだろうか。防火壁を突破された様子など微塵もなかったというのに。こちらが気付かないうちに侵入されたのかも知れない。
いや、もしそうだとしても、スタンド・アローンであるワーク・ステーションにまで影響が及んでいるのはおかしい。ネット回線に繋がっていない、しかも独立したコンピューターに侵入するなど、物理的に出来るはずがない。あり得ない。
「っ! ……そうか、これか!」
石和は懐から、黒い携帯を取り出し、開いた。部屋中のコンピューターと同様、携帯の液晶画面が旧約聖書の一節で埋め尽くされている。
昼間、人類進化促進塾で遭遇した一人の少女。彼女はこの黒い携帯に触れて、こう言った。
『禍なるかなバビロン その諸々の神の像は砕けて地に伏したり』
これがどういった現象でこうなったのかは分からない。だが、これだけは間違いない。あの少女は『能力者』だ。そして、あの少女は戸木原の指示でこの黒い携帯に何かを仕込んでおいたのだ。その結果がいま起きているこの現象であり、あの少女の力なのだろう。
おそらくは。今までのすべての行動は戸木原に筒抜けだったに違いない。
「くそっ!」
自分が今まで気付かなかった迂闊さに腹が立つ。石和は歯を食いしばりながら、黒い携帯を思いっきり床に叩きつけた。ばきん、と音を立てて携帯が真っ二つに割れ、電源と共に液晶から字が消え失せるが、周囲の状況は何一つ変わらない。瞬間物質転送装置・改も。ワークステーションも。この部屋にあるすべてのコンピューター関連の機器は赤い旧約聖書の一節に支配され、一切使用できない。すべては手遅れだった。
そして、状況は次の段階へと移行する。
瞬間物質転送装置・改の機器からがりがりとハードディスクを読み込む音が聞こえてくる。モニターを見ると、赤い字で埋め尽くされたモニターの下でOSが勝手に動き、画面がくるくると切り替わっている。それに伴い瞬間物質転送装置・改のカプセルが淡い光を放ち、低い唸りを上げ始めた。
瞬間物質転送装置・改が 起動しているのだ。
「石和くん、送信機が受信機に勝手に切り替わっている! モードも原子分解から量子分解に変更されている! どこかにシステムが乗っ取られているんだ!」
佐々木が狼狽しながら、叫ぶ。
「い、いや、違う。原子分解と量子分解のモードが同時に展開しているんだ。な、なんだ、これは……プログラムが書き換えられてる!?」
「くっ……」
どうにかしてシステムを取り戻せないかと必死にコンソールを叩くが、やはり反応は皆無。こちらの入力はまったく受け付けない。電源を落とすことすら出来ない。
「くそっ、どうにか……どうにかならないのか!」
『無駄だよ』
と、楽しそうな戸木原の声が響く。
『そちらのシステムはこちらが把握しているからね。入力は一切受け付けないよ。いま、瞬間物質転送装置・改は完全にこちらの権限で動いている』
「ぐっ……い、一体なにを――――」
呻くような声を絞り出した石和に戸木原は満面の笑顔で、右手をすっと前に差し出しながら、言った。
『贈り物だよ。僕から石和くんと佐々木くんへ。色々お世話になったお礼。喜んでくれると僕も嬉しいなあ』
次第に瞬間物質転送装置・改の転送カプセルが大きなうなり声を上げて、本格的に稼働する。部屋のいたる場所でラップ音がぱちぱちと鳴り、蒼白い電光がスパークする。強烈な白い光が視界を覆い、まぶしくてまともに目を開けていられない。石和は両腕で光を遮り、目を細めた。転送時に発生する放電現象。
こちらの意志とは無関係に――――何かが強制的にこの場所へ転送されてくる。
戸木原は笑顔のまま、カメラのレンズに指に付着していた昌美の返り血を塗りたくった。モニター一面が紅く染まり、戸木原の顔が見えなくなる。
『今までご苦労様。そして、改めて礼を言わせてもらうよ。ありがとう、石和くん。本当に助かったよ。万が一生き延びることが出来たら、また話す機会があるかもしれないね。僕はその日を楽しみにずっと待ってるよ。それじゃあ、またね。石和くん、佐々木くん』
その不吉な言葉に石和は反射的に手を伸ばし言葉を発しようとしたが、その前にモニターの電源は切れてしまっていた。インカムもノイズが走り、なにも聞こえない。向こうで完全に通信を遮断してしまったようだ。
そして、それと同時に。部屋中を包み込んでいた瞬間物質転送装置・改のカプセルから発せられていた強烈な光が消え失せていた。あれだけ激しく唸りを上げていた機器の稼働音も止み。静寂が辺り一面を支配していた。
その心臓の脈動が大きく、石和の体内に響く。
瞬間物質転送装置・改のカプセルの中に目を据える。空だったカプセルの中に。
なにか、ある。なにか、いる。誰か――――いる。
カプセルの扉がばしゃん、と音を立てて開く。『ソレ』はゆっくりと蠢き、しかし、しっかりとした足取りで、この地に舞い降りた。
小さな身体と、小さな足と、小さな手。小さな頭とあどけない顔。しかし、瞳には外見相応の色はなく、機械の様な無機質さが宿っている。一糸まとわぬ姿で、その場に立ちつくしている。
先程、モニターの中で惨劇を演じていた少年。
戸木原が人工的に造り上げた『新しい子供』。
『能力者計画』の成果そのもの。
『能力者』の姿が石和達の眼前にあった。
少年はすぅっと、目を細め、
「禍なるかな、バビロン。その諸々の像は砕けて地に伏したり」
と、旧約聖書の一節を口にし、次の瞬間、部屋が大きく鳴動した。それは常識の枠に囚われた現実の時間に終わりを告げる合図であり、非現実的な悪夢が始まる合図でもあった。
――――石和は大きく目を見開き、絶望に身を震わせた。