1「異形の棲む部屋」
長い長い螺旋状に造られた階段を下ってゆく。周りには離れた場所に電灯が定期的に配置されているが、それぞれの電灯の位置が離れているため、やたら薄暗い。階段の横幅はさほど大きくないのも手伝って閉鎖的な印象を受ける。先行きの見えないその光景が昌美の想像力を掻き立て、身体を突き動かす原動力となってゆく。
この奥にはなにがあるのか。篠塚がいるのだろうか。早まる心臓の鼓動。呼吸を乱し、ただひたすら下を目指してクリーム色をした無機質な階段を駆け下りる。
篠塚に会いたい。
篠塚の声が聞きたい。
篠塚に頬を撫でてもらいたい。
篠塚に抱きしめてほしい。
ただ、篠塚のことだけを頭に描き、横川昌美は走り続ける。
微塵もペースを乱すことなく。二分余りの時間を全力疾走し、ようやく長い下りの終着地が見えた。地下のフロアへと辿り着いたのだ。
眼前にあるのは大きな扉。中央にあるレバーをがちゃりと回すと、ドアが開いた。鍵はかかっていないようだ。扉を開き、一片の躊躇もなく、その中へ入った。
「はあー、はあー……こ、こは……」
昌美は胸に手を当て、乱れに乱れた呼吸を必死に整えながら、周囲を見回した。
巨大な部屋だった。部屋という表現は正しいのか。そんな疑いを持ちたくなるほどの、大きな空間が広がっていた。900平方メートルはあるのではないだろうか。その部屋に幾列にも別れたベットらしきものが設置されていた。シーツも何もない、皮で出来た大きな、大きなベット。それが部屋の奥まで、定期的な配置でずらりと並んでいる。いったいいくつのベットが設置されているのか。見当も付かない。それほどの数だった。
そこに――『何か』が寝ている。
がしゃがしゃ、と音を立てる『何か』。奇妙な、獣の様な呻き声を上げる『何か』。
部屋のあちこちのベットから、そういった奇妙な音が聞こえてくる。ここからではベットに寝ているモノがなんであるのかは分からない。
「う……」
昌美は右手で鼻と口を覆った。ひどい悪臭がする。何かが腐ったような、そんな臭い。それに動物園などでよく漂っている特有の臭い……獣臭がする。その他にもよく分からないモノが入り交じり、ひどい悪臭となって昌美の鼻を刺激した。
「う……ごっ、ごほっ!」
昌美は込み上げる吐き気を必死に堪えながら、後ずさりをした。
異様だ。これだけ広い空間にこんなにも濃密な悪臭が充満しているのは。いったい何なのだろうか、ここは。尋常ではない空気が漂っている。
ここまで自分を突き動かしてきた感情の熱が急速に下がり、冷めてゆく。代わりに沸き上がってくる感情は異質なモノに対する恐怖。
これ以上はいくな。危険だ。見なくてもいいものまで、見てしまう。きっと後悔することになる。
そんな想いが頭の中をじわりじわりと蝕んでゆく。気付けば、身体が小刻みに震えていた。昌美は大きく頭を左右に振って、その気持ちを無理矢理振り払う。
怖くなどない。ここがどんな場所であろうが関係ない。篠塚を助けるのだ、絶対に。
昌美はTシャツをたくし上げ、腰に挟んでいた拳銃――――グロックを取り出し、両手で握った。トリガーに手をかけ、安全装置を外す。そして、昌美はゆっくりとした足取りで、歩き始めた。無尽蔵に並ぶベットへと近づいてゆく。
オオー………ン
なにか……声が聞こえる。犬の遠吠えのような、甲高い声。そして、合間に聞こえるじゃらじゃらと鉄と鉄がかち合うような音。獣をベットに鉄の鎖で拘束しているのだろうか。
タ…イ……マ……ケ…テ
否。獣では、ない。呻き声の他になにか聞こえる。弱々しく、はっきりと聞こえないが。昌美が耳にし、理解できる言語。ヒトの声だった。
イ、タイ……サ……タスケテ
「っ!」
助けを懇願する声。やはり、間違いない。ヒトが寝ているのだ。昌美はおそるおそると、一定の距離を保ちながら、ベットの中が見える位置にまで移動した。
「え……?」
瞬間――昌美の意識が凍り付いた。そこにはよく分からないものが、いた。予想通りそれは獣ではなかった。だが、ヒトでもない。生き物の基本構造を無視した歪な物体。
曖昧な表現であるが、それしか言いようがない。言葉に出来ない。こんな生物はみたことも聞いたこともない。
全長三メートルはあるだろうか。全身が鮮やかな蒼色で、その皮膚は鱗にも似たモノがびっしりと敷き詰められている。腕らしきモノがあるが、長さも太さもまちまちで、指の数も右手は五本、左手は八本と統一性がない。何故か足は三本あり、昆虫にも似た細い毛が生えている。鱗に覆われた一メートル半はあろう尻尾がびくびくと蠢いている。首の先に顔はなく、代わりに腹の部分にヒトの顔らしきモノがあった。顔の左半分は焼けただれたようなケロイド状。浮き彫りになっている右顔は肌色で、唯一人間らしい形状をした部位であるが、目がヒトのそれとは違う。まるで宝石のような鮮やかで、不気味な眼球だった。眼球がぎょろりと動き、昌美の方へ向く。赤い紅い、ルビーの様な目が大きく見開いた。
そして、あちこちの歯が抜け落ちた口がぱくぱくと動き、言葉を紡いだ。
イタイ……ミ……タ、スケ、テ
異形の右手がゆっくりと昌美に迫る。
「ひっ……!」
昌美は短い悲鳴を上げ、ベットから更に距離を取った。じゃらじゃらと鳴り響く鎖の音。
ベットのあちこちに鉄の鎖がついた拘束具が取り付けられており、ベットから離れることは出来ないようだ。
なんなのだろうか。この生き物は。無茶苦茶だ。デタラメ過ぎる。まるで子供の落書きをそのまま具現化したかのようだ。こんな生き物がいるはずがない。昌美は息を飲んで周囲を見回した。
それは化け物の博覧会だった。
眼球がやたら大きく、爬虫類の様な鱗に覆われた頭で、身体が女性であり、腹部が妊娠したように膨れ上がっている生き物。
毛細血管が剥き出しで、下半身がまったく存在しない生き物。
身体のあちこちが腐食して全身が緑色になり、どろどろに溶けても、なお生体活動を続けている生き物。
足が八本あり、手が一本しかない奇形児のような生き物。
身体が透明なゼリー状で、内臓の活動がすべて透けて見えるヒトの形をした生き物。
青紫色を大きな球体状の身体に、顔面、、両手両足が滅茶苦茶な位置にある、肉団子のような生き物。
顔が成人女性にも似た容姿なのに、身体が何故か生まれたての赤ん坊の様に未成熟な生き物。
すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて、すべて――――
そのどれもが異なる形状をしており、まともな生き物はひとつとして、なかった。声が聞こえる。異形の雄叫び。イタイ、タスケテ、コロシテと哀願するような人語。笑い声も聞こえる。泣き声も聞こえる。ぐちゃぐちゃと。ぴちゃぴちゃと水がしたたる様な音も。じゃらじゃらと鉄の鎖がかち合う音も。幾多もの声と音が重なり合い、昌美の鼓膜にざくざくと突き刺さる。なにもかもが滅茶苦茶で、ぐちゃぐちゃで、混沌としている。
違う違う違う違う違う。これは夢だ。現実のものではない。だって、あり得ない。これがこの世のものだ、なんて――――
「うっ……ぐっ、う――――」
あまりのおざましさに耐えきれず。昌美は吐き気が込み上げて来て、その場にうずくまった。口を押さえ、必死に堪えるが、耐えきれない。昌美は嘔吐した。
「げ、げほっ……げほっ!」
吐瀉物といっしょにぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。気付けば手が強ばり、ガクガクと痙攣していた。手だけではない、身体全体が震え、身体に力が入らない。足がすくんでしまって、動けない。初めての感覚だった。いや、少なからず、こういった感覚の経験はあるが、ここまで強烈な衝動は初めてだった。
恐怖、という感情。身体が動かなくなる程の感情の揺さぶり。怖い怖い怖い、ここから逃げ出したい。そんな負の感情が昌美の身体の中を駆けずり回り、頭が真っ白になり、なにも考えられなくなってゆく。
――――と。
「神は天に辿り着こうとした人々を裁き、混乱させたが、その行為はそんなに罪深きことなのか?」
その時だった。かつん、かつん、と。床に響き渡る足音と共に。何かの声が昌美の鼓膜に入り込んできた。
「……っ!」
昌美は身体をびくん、と震わせ、心臓を鷲づかみされたような感覚に囚われた。異形の呻き声ではない、ヒトの声だった。謳うような口調で。なにかを訴えかけるような、熱を帯びた言葉を続ける。
「否。天を目指すというのは、遙かなる高みを目指すこと。愚者から賢者へと昇華したいということ。我々は進化しなければならない。次世代の進化は人の手で造り出さなければならない。なぜなら我々は他の生物にはない、知恵の力を手に入れた選ばれた種族なのだから。新たなる進化の鎖は我々の手で紡ぐのだ。神の元へ近づこう。それが長い長い道程であったとしても。着実に一歩、一歩と。昇っていける力が我々にはあるのだから」
聞き覚えのある声だった。昌美は息を止めて、背後へと振り返った。そこに一人の中年男が立っていた。白髪を後ろにまとめたオールバック。人懐っこそうな笑ったような顔の造りの男。綺麗な白衣を身に纏い、笑顔で昌美を見下ろしている。
「あなた……は」
間違いない。人類進化促進塾のスーパーバイザーとして入り、今では塾内のすべての実権を握る男。新井博士を、そして、篠塚を窮地に追い込んだ男。
――――戸木原淳だった。