4「昌美の決意」
新井博士は瞬間物質転送装置を使った『ある研究』のことを知り、怒りのまま、人類進化促進塾へ乗り込んだ。その研究の責任者が戸木原淳。新井博士と戸木原が言い争いをしていた目撃証言があることから、それは間違いないだろう。
そして、それが原因で人類進化促進塾の地下へと監禁されてしまった。それに見かねたのか篠塚登喜夫という人類進化促進塾の研究員が、新井博士を監禁から解放し、脱出させた。そして、この廃ビルの中で逃亡生活を続けていた。簡単に話をまとめるとこういうことだ。ここで、大きな疑問点がふたつ浮上してくる。
まずひとつめ。新井博士の言っていた事件とはなんなのか。
これに関しての情報はまったくない。先程昌美に聞いてみたが、新井博士が失踪した原因はまったく知らないと言うことだった。
……と、なると、事件の概要を知っていたのは、篠塚登喜夫だけということになる。
新井博士は瞬間物質転送装置があったから、起きた事件だと言っていた。そして、それを阻止するが為に自分の人生を犠牲にした。よほどのことだろう。
しかし、これは予想がつく。明らかとなった三つの駒から結論を導き出せる。
瞬間物質転送装置を使用した事件。
α細胞を持ち出していた戸木原。
人外の怪物となった新井博士。
三つの駒が揃ったことにより、疑惑が確信に変わった。
そう……戸木原は人体とα細胞を融合する実験を秘密裏に行っていたのだ。
第五研究所で無能を装っていた戸木原が。影で生物とα細胞の融合に成功していたということだ。石和達の第五研究所では遺伝子操作を行うことにより、ようやく融合と安定を果たせたというのに。戸木原はその一歩先をいっていたのだ。
何故、動物ではなく、ヒトを使った研究が進められていたのか。それは分からないが。
「それにしても……いったいアイツは何者なんだ?」
小さな声で独りごちる。国内で最高と言われるスタッフが集まった研究所の研究を影であっさり追い越すとは。恐ろしい才能の持ち主だ。
第五研究所で見てきた戸木原博士からはまるでイメージが湧かないほど、ギャップのある実力者である。同一人物であることが疑わしくなるほどに。
(いや……本当にヤツは俺の知っている戸木原と同一人物なのか? やはり、戸木原を名乗る別人じゃないのか?)
そんな疑問が湧いてくる。
以前、戸木原は無能を装っていたと推測したが、本当にそんな装いが可能なのだろうか?
数日ならともかく、半年も演技した人格を装うには無理がある。そんなことをしても、必ず何処かボロが出るはずなのだ。
目的も不明瞭だし、そういった人格面に関してもなにかがおかしい、違和感がある。
おそらく――戸木原にはまだ、何かがあるのだ。それを調べる必要がありそうだ。
ふたつ目。新井博士と篠塚が何処へ跳んだのか。
戸木原が人類進化促進塾にいたことから、施設の中にある瞬間物質転送装置に跳んだと考えるのが妥当だが、それだけでは確信が持てない。石和は額に手を当てながら、
「あんた、行き先は知らないのか?」
と、昌美に向けて言った。
「え?」
「新井博士と篠塚の跳んだ場所だ。二人の世話をしていたんなら、最後に二人が何処にある瞬間物質転送装置へ跳んだのか。分からないか?」
昌美は俯きながら、かぶりを振った。
「……分かりません。瞬間物質転送装置を造っていることは知っていましたが、目的も行き先も教えてもらえませんでしたから」
「人類進化促進塾の中、という事は考えられないか? 戸木原はそこの研究員だったんだろう?」
「可能性はありますけど……篠塚くんからも人類進化促進塾に瞬間物質転送装置があるなんて話は聞いたことありませんので、なんとも……その、すいません」
頭を下げようとする昌美を手で制して、再び思考の底に潜る。なにか……なにか方法はないか? 人類進化促進塾の中に瞬間物質転送装置があり、そこへ跳んだと呼べる確信があれば、なにかの切り口になるかもしれない。五十二台の瞬間物質転送装置の場所が分かれば、確信が持てるのに――――
「――――っ!」
そこでようやく『ソレ』に思い当たった。そうだ。手がかりは、ある。
石和は瞬間物質転送装置の横にあるコンソールに駆け寄り、パネルに指を滑らせた。しかし、反応がない。網膜と指紋の照合が得られないと扱えないようだ。
「佐々木!」
カプセルの元で泣き崩れている佐々木に向かって叫ぶ。
「こっちに来きてくれ。コンソールの認証を解除するんだ!」
「え……?」
涙に濡れた目をこすりながら、困惑の表情を浮かべる佐々木。説明するのももどかしく、石和は佐々木の腕を引っ張り、無理矢理コンソールにある椅子に座らせた。
「ちょ……うわわわわっ! な、なんなんだい、石和くん。今日の君はなんかちょっと乱暴だよ。ちゃんと説明してくれないと、訳がわからな――――」
「説明はあとだ! この機械の認証はお前でないと解除できない。認証して、コンソールを扱えるようにしてくれ! 調べたいことがあるんだ」
石和の一方的な言い方に佐々木は混乱した表情を浮かべたが、「わ、わかった」と、言って、パネルを操作して認証画面へと移動した。
網膜認証スキャンに顔を近づけ、赤外線が網膜をスキャンする。コンソールの傍らにあるプレートに左手を当てる。網膜スキャンと指紋認証の機械から、『ピッ』という音が流れ、コンソール画面に『complete!』という字が表示された。これで認証は解除されたはずだ。再び石和はパネルに指を滑らせる。
「第五研究所で使っていたOSとほとんど変わらない……これなら大丈夫だ」
独りごちながら、手慣れた手つきで画面を切り替えてゆく。
「い、石和くん……いったいなにを? そのコンソールになにがあるっていうんだい?」
戸惑いを隠せない表情で、聞いてくる。石和は手を休めずに、
「瞬間物質転送装置の場所を調べるんだ。もし、この機械が本当に現存する五十二台の瞬間物質転送装置へ跳べる機械であるのなら、瞬間物質転送装置がある場所が記録されているはずだ。そして、最後に跳んだ使用履歴が残っているとしたら――――」
佐々木ははっ、とした表情を浮かべ、叫んだ。
「そうか! 新井博士が跳んだ場所が特定できる!」
石和は頷いた。
「そうだ。おそらくそこが新井さんの言っていた事件の元凶となる場所だ。そこを調べれば、なにかわかるかもしれない!」
言いながら、石和はコンソールのエンター・キィを押した。画面が切り替わり、地図が表示される。
アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス……日本を始め、様々な国で赤いマークが点灯している。この赤い点が瞬間物質転送装置がある場所に違いない。てっきり国内だけで使用しているのかと思っていたが、世界のあちこちに設置していたようだ。地図の外にも赤い点があり、そこには有人宇宙施設『あおぞら』と書かれている。
「すごい……宇宙まで」
大きく目を見開きながら、佐々木が呟く。『あおぞら』は三ツ葉重工が携わった宇宙ステーションの名前だ。おそらく物資の搬入に瞬間物質転送装置を利用しているのだろう。新井博士の望んだ使用用途だ。これを期に宇宙進出が一気に進むのかも知れない。
日本にカーソルを合わせ、ボタンを押す。すると、日本国の地図と共に設置された施設の名前がずらりと表示された。国内の瞬間物質転送装置の数は全部で三十一台。半分以上の瞬間物質転送装置は国内にあるようだ。施設や会社名をひとつひとつ調べてゆくが……そこに人類進化促進塾の名前はなかった。石和は眉を潜めた。
「人類進化促進塾じゃ……ない? だとしたら違う研究所か? いったい何処に?」
「石和くん、使用履歴を調べられるかい? 各地の地図を出すより、そっちのほうが手っ取り早いと思う」
石和は頷き、メニューを開き、『使用履歴』のウィンドウを出す。履歴が消去されていたら、足取りは掴めなくなってしまうが……果たして、残っているのだろうか? 万感の想いを込めて、石和はエンター・キィを押す。すると、画面が切り替わり――――
「……あった」
小さな声で、呟く。画面には四つの履歴が表示されていた。
『十二月九日 AM 02:15 鹿島大学付属病院 11GATE』
『十二月九日 AM 02:18 鹿島大学付属病院 11GATE』
『十二月九日 AM 03:26 鹿島大学付属病院 11GATE』
『十二月九日 AM 03:29 鹿島大学付属病院 11GATE』
日付はつい最近のものだ。転送先は石和の知らない場所だった。
「鹿島大学付属病院? ……なんで病院に瞬間物質転送装置が?」
額に手を当てて、考える。訳が分からない。隣で佐々木がモニターを覗き込みながら、
「いや……川上くんに調査を頼んだとき、戸木原博士が造った研究員のメンバーに鹿島大学付属病院の名前があった。これもひょっとして、戸木原博士が絡んでいるんじゃないのかな」
「病院に戸木原が? まさか」
「大学病院の半分は研究機関として機能しているし、可能性はあるんじゃないかな。この病院の資金提供が三ツ葉社であるなら、ここに瞬間物質転送装置が置いてあっても不思議じゃないと思う。それに病院なら――――」
佐々木の声がそこで途切れた。
……人体実験の素材に事欠かない。そう言いたいのだろう。
石和は目を細め、鹿島大学付属病院の見取り図を画面に出した。随分と細かいところまで調べられるようだ。この病院に設置されている瞬間物質転送装置は全部で四つ。独立した地下のブロックにあるらしい。石和は画面の見取り図を指さし、
「見ろ、佐々木。この地下の部屋――入り口がない。別のブロックに瞬間物質転送装置が一台設置されている。そして、この施設の中には三台の瞬間物質転送装置がある」
「つまり……瞬間物質転送装置がないと中に入れない仕組みになってるってことだね。三台のウチ一台は出入り用の送信機。そして、もう二台は研究用に使用されているものなんじゃないかな」
「多分な。一つの施設に四台に、瞬間物質転送装置がないと入れない建物、か。それだけで充分いかがわしい香りがするな……」
更に調べてみると、四台のうち、二台の瞬間物質転送装置の欄に『Danger!』と赤い文字が表示された。どうやら、このマークが付いている場所には転送できないらしい。
「なんだ? 回線が遮断されているのか……いや、違う。OSのプログラムが書き換えられているんだ。侵入防止の為か?」
佐々木はかぶりを振り、
「だとしたら、他の二台も書き換えられているはずだよ。場所も同じ部屋にあって、二台だけプログラムが書き換えられているってことは――――」
「……大当たり、ってことだな」
石和が皮肉気に唇を歪めて言い、佐々木が深々と頷いた。
間違いなく、ここには何かがある。
新井博士と篠塚が跳び、帰ってこなかった場所――――ここで人体をベースにした『鍵』が造られていたに違いない。
さて、これからどうするべきか。鹿島大学付属病院のことをどこかのデータ・ベースで調べるべきか。それとも。
……そこでようやく気付いた。横川昌美が何故、自分たちをここへ連れてきたのか。佐々木に遺言となったビデオディスクを渡す。それもあっただろうが、それだけではない。
『力を貸してほしいんです』
搬入エレベーターの中で。彼女は自分たちに向けて、そう言っていた。
つまりは、そういうことだろう。
「アンタはまだ諦めてないんだな。そして、その為に俺たち……いや、佐々木をここに来るように仕向けたって訳だ。違うか?」
石和は昌美に向けてそう訊くと、深々と頷いた。
「私をその転送先に跳ばせてください。篠塚くんを助けたいんです」
「駄目だ」
にべもなく石和が告げる。昌美の顔が強ばった。
「何故です? 篠塚くんを助けるには他に方法がないんですよ。そして、あなた方は新井博士がああなってしまった真実を知りたいはずです。だとしたら、この機械を使うのは必然の筈です」
「万全の用意をして挑んだはずの新井博士と篠塚が帰ってこなかったんだ。こちらの位置は補足されていないかもしれないが、それでも警備は強化されているだろう。突発で俺たちが跳んだところで、すぐさま補足されるのがおちだ。危険すぎる」
「カメラを持って、転送します。ネット経由でこちらでモニター出来るカメラです。それを使って現場を押さえれば、万が一私が捕まっても、そちらにメリットが――――」
石和は立ち上がり、コンソールをばん、と強く叩きながら激高した。
「誰がそんなことをしてほしいと頼んだ! いくら真実を掴むためとはいえ、自分の犠牲を前提にした行動をするなんて間違っている!」
「でも、そのくらいの覚悟をしないと、篠塚くんは助けられません! あたしにはその覚悟があります! あたしが犠牲になったって構わない! 篠塚くんを助けられるなら、それでも構いません!」
「馬鹿なことをいうな! 新井博士や篠塚がなんでアンタに何も言わず、跳んだのか分からないのか? アンタを巻き込みたくない為だ! そのアンタが跳んで二人が喜ぶと思っているのか! 命を粗末にするな!」
「自分の大切なヒトを助けたいと想うのがいけないことなんですか! なにもしないで諦めるなんて事、私にはできません。トキくんを助けたいんです! このあたしの手で!」
石和の言葉に一歩も怯まず。彼女は真摯な表情でそう言い返した。石和は椅子に座り直し、俯きながら、嘆息した。
「残酷なことを言うようだが……篠塚が無事でいる可能性はかなり低い。新井博士がどうなったかは知っているだろう? 生きていても篠塚がああなってしまっている可能性は否定できない」
「……分かってます。可能性が限りなくゼロであることは。それでも。自分のこの目で確かめるまで、私は絶対諦めません。トキくんは私の大事な、大事な人なんです。私の半身といってもいいくらいの。私はあの人がいないと生きていけない。だから、私を……跳ばせて……ください。っ……お願い、します」
「…………」
言葉の最後の方は声が震えていた。泣くのを必死に堪えているようだ。
昌美のその言葉に。
石和はかつての自分を想い出していた。
『きっとお前は……俺の半身なんだ。だから、お前がいないと生きていけない。そんな当たり前の事にも、今まで気付けずにいたんだ、俺は。ごめん、ごめんな……千恵子』
七年前のあの日。航と決別したあの夜。
自分は千恵子を抱きしめながら、そう言った。その言葉に偽りはない。そして、その想いは現在でも変わらない。自分は彼女がいないと生きていけない。だから、もし彼女に何かがあれば命がけで護るだろう。
昌美も同じだ。眼に宿る強い光と表情がそれを表している。だから、昌美の気持ちが痛いほどよく分かる。自分が同じ立場であったら、誰が反対しようが、間違いなく跳ぶことを選ぶだろう。
……だが、それでも。彼女を跳ばすべきではない。石和はそう思う。これは自分ではない、他人の生き死に関わる問題だ。それならば自分や佐々木が跳んだ方がまだ――――
「五分」
と、その時だった。石和が頭の中で葛藤を続けていると、佐々木が唐突に口を開き、そう言った。
「え?」
「ぜったいに無茶はしない。感情を先行させて行動しない。手がかりがあっても、なくても五分で必ず戻る。これがこの瞬間物質転送装置・改を使う条件だ。守れるかい?」
佐々木はそう言って、五本の指を強調するように手のひらを昌美に突き出した。昌美はぽかん、としていた。そんなにあっさりと承諾するとは思っていなかったのだろう。
「佐々木! お前までなにを!」
石和の言葉に佐々木は苦笑いを浮かべて言った。
「本当は……僕が行きたい。僕が跳んで新井さんの無念を晴らしてあげたい。だけど、この装置は僕しか扱えないんじゃそうもいかない。もし僕が捕らえられたら、そこで終わってしまうからね。だから……横川さんの意志を尊重してあげようと思う」
「危険だ。ミイラ取りがミイラになるだけだ」
「それでも、いくしかないと思う。川上くんに調査を頼むことが出来なくなった以上、僕らの力で真相を掴むチャンスはここにしかないんだ。だから五分だけ。臆病すぎるぐらい慎重になって、跳ぶんだ。逆に言えば発見されなければ、僕らは何度も跳ぶことが出来る。やってみる価値はあると思う。横川さん、もう一度言うよ。五分だ。守れるかい?」
昌美は表情を引き締め、深々と頷いた。
「はい。守れます。必ず五分で戻ってきます」
その言葉に佐々木は微笑み、
「石和くんもそれで納得してほしい」
と、言った。
「しかし……」
「…………」
「…………」
佐々木と昌美の目を交互に見る。目の奥に決意の光を宿してしまっている。石和は知っている。こういった目をした人間にはなにを言っても無駄であることを。
正直、危険な博打である。しかし、佐々木のいうことはもっともだった。川上の情報収集が使えなくなった現在、これしか前へ進む方法はない。
それに石和には決定権はない。この瞬間物質転送装置・改は佐々木に委ねられ、その使い道を選んだのだから。忠告はできても止めることは出来ない。
無理矢理止めたところで、二人は躊躇わず転送先へ跳び、目的を果たそうとするだろう。
(仕方が……ない、か)
佐々木も昌美も。二人とも覚悟を決めている。だとしたら、自分も腹を括らないといけないだろう。石和は大きく溜息を吐き、観念した。
「……好きにしろ」
昌美の表情が和らぎ、笑顔が広がった。
「佐々木さん、石和さん……その、どうもありがとうございます!」
深々としたお辞儀をする昌美に石和は無言で手を振って、立ち上がった。
「だが、やるからには徹底的にだ。俺と佐々木、二人でこのコンソールを操り、0.1秒でもはやく、こちらへ戻ってこれるようにフォローする。アンタも感情に流されたり、現場でパニックになったりしないよう、心の準備をしておいてくれ」
「わかりました」
昌美は力強く、頷いた。
「佐々木、このOSの中にマニュアルは入っているか? 基本動作は第五研究所にあるものと変わらないみたいだが、受信機と送信機の切り替えなんかは覚えておかないとすぐに対応できないだろう」
佐々木はコンソールのパネルを叩きながら、
「ちょっと待って……うん、入ってる、入ってる。そうだね。基本動作は一緒だし、切り替えもそんな難しい操作は必要ないみたいだ。石和くんだったら、すぐ扱えると思う」
「シュミレーション・プログラムは?」
「勿論、入ってる。通常操作から緊急時の対処の仕方まで。その辺の市販プログラムより丁寧な造りだよ」
「上等だ。じゃあ、一つずつこなして、練度を上げてゆこう。向こうに人がいない時を狙い、彼女を転送させる。その後、五分以内にむこうの瞬間物質転送装置を送信機に切り替え、こちらへ再転送。シュミレーションを納得いくまでやるぞ」
言いながら、上に羽織っていたコートを脱いだ。コートを着たままでは操作がしにくい。 この部屋は暖房も効いているし、上着がなくても支障はないだろう。
――――と。その時、石和は妙なことに気付いた。自分の胸元が光っている。青白い光が着ているジャケットの中からこぼれ出ている。
なんなのだろうか、この光は。胸元に手を入れ、探る。
「……携帯?」
人類進化促進塾の中で横川昌美から渡された黒い携帯だった。携帯全体が蒼白い光を放っている。この光は以前見たような気がする。
そう……人類進化促進塾の中で、幼い少女に携帯を触られた時だ。
あの時ほど強烈な光ではない。小さく淡いものだが、この蒼白さはあの時のものだ。
(あれは白昼夢じゃなかったってことか? この携帯はいったい……?)
右手で掲げて、まじまじと眺めていると、やがて光は消えてなくなった。それっきり光らない。携帯を開いて中身を確認したが、着信もメールも来ていなかった。
「それじゃあ、まずマニュアルを出して、と。じゃあ石和くん、これを読んで――って、どうしたんだい? 携帯なんかぼうっと眺めちゃって」
きょとんとした表情で訊いてくる佐々木。石和は携帯から目を離さず、
「なあ、佐々木。その……変なことを訊くんだが。携帯って光るものなのか?」
「え? そりゃあ光るんじゃないかな。メールや着信が来たときに」
「いや、そういうんじゃない。その携帯全体が蒼白い光に包まれる変な現象というか」
「???」
「いや、分からないのならいいんだ。なんでもない」
手を振って、話を打ち切り、昌美の元へいく。
「なあ、この携帯なんだが……」
「ああ、それですか。ただの使い捨て携帯ですので、そちらで処分して頂いても――――」
「いや、そうじゃなくてだな。この携帯って、なにか特別な機能があったりするのか? 例えば携帯全体が蒼白い光を発するような機能とか」
昌美は少し考え込み、
「いえ、特になにも。基本的な性能だけで、そんなオプションはなかったと思います」
と、言った。
「…………」
では、さっきの光はいったい何なのだろうか。薄気味が悪い。
「お~い、石和くん。なにをしてるんだい? マニュアルを確認して、シュミレーションを始めよう」
背後から、佐々木が急かしてくる。考えても分かりそうもないし、なにか実害がある訳でもなさそうだ。石和は黒い携帯を再び胸元にしまい込み、コンソールのパネルに手を伸ばした。
「悪い。それじゃあ始めようか」
石和は気付かなかった。携帯を閉める瞬間、液晶に不可思議な文字が浮かび上がっていたことに。それは――――人類進化促進塾の中で白い少女が口にした、奇妙な言葉だった。
禍なるかなバビロン そのもろもろの神の像は砕けて地に伏したり――――