2「起床」
「う……」
石和武士は低い呻き声を上げて、目を開いた。カーテンの隙間から光が差し込み、小鳥の囀りが聞こえてくる。どうやら、朝の様だ。石和は額に手を当てながら、ゆっくりとベットから身を起こした。
「くそ……酒飲んで寝ると、いつもこれだ。あれから何年も経つってのに……」
独りごちながら、長めに伸びた前髪を掻き上げ、首を左右に振る。夢と分かっていても過去の記憶を追体験するのはあまり気分のいいものではない。あの時の忌々しく、やるせない気持ちはもう二度と味わいたくないというのに。
七年前の決裂はもう起きてしまったことで、もう取り返しはつかない。いくら後悔しても仕方がないことなのだ。
自分が間違っていたのか。彼が間違っていたのか。それとも……彼女が間違っていたのだろうか。今となってはもう分からない。きっと明確な答えなどないのだろう。
あえて、答えを探すのならば、それはきっとすべてだ。
自分も、彼も、彼女も。すべて間違えていた。お互いに少しずつずれた歯車が不和をもたらし、長い間築き上げてきた平穏で居心地のいい環境を自分たちで破壊してしまったのだ。どちらにしろ、もうどうにもならない。彼――航との関係はもう終わってしまったことだし、万が一再会できたとしても、どうしていいのか分からないのだから。
「さて、と。気分を切り替えないとな」
一日の始まりからこんな憂鬱な気持ちを抱えていたら、仕事にも支障が出そうだ。気分を振り払うため、窓のカーテンを開いて、陽光を部屋の中に入れる。光が差し込み、石和は眩しげに目を細めた。窓を開けてベランダに出ると空は一面青空が広がっていた。
今日は快晴のようだ。もう十二月の半ばだが、今日は心なしか暖かい。過ごしやすい一日になりそうだ。
「……とは言っても、こっちは施設に引きこもってのお仕事だからな。天気はあんまり関係ないんだがな」
そんなことを呟きながら、石和はベランダから地上を見下ろした。石和がいま居る部屋は十一階建てのマンションの五階で、街の景色の様子が一望できる高さだ。すでに夜の人気のない静寂の時間は終わりを告げ、ちらほらスーツを着込んだサラリーマンの姿が石和の目に映った。。壁に立て掛けている時計を見ると時間はまだ六時三十分。勤務地が遠い人間ならば、そろそろ出掛けなければならない時間だろう。
まだ少し早いが、自分も少し準備しておいた方がよさそうだ。石和は窓を閉め、寝間着からスーツへの着替えを終えると、リビングルームへと向かった。
※
「あ、おはよう。武ちゃん」
キッチンへ行くと、小柄な女性が柔らかい笑顔で、挨拶をしてきた。柄が少し入った白いブラウスに紺のロングスカート。その上にピンク色のエプロンを羽織り、朝食の準備をしている。
石和千恵子。石和武士の妻であり、二児の母でもある。背中まで伸びた黒い髪の毛をグリーン色のリボンで束ねている。整った顔立ちだが、瞳が大きく童顔なので、身長が低いのも相まって、周囲には年齢よりも幼く見られがちである。
千恵子に挨拶を返し、食卓につく。テーブルの上には海苔、鮭の切り身、納豆、卵焼きなどが人数分置かれている。オーソドックスな和風のメニューだった。千恵子が湯気の出たご飯とみそ汁を持ってきて、石和の前に置く。
「今日は早いんだね。もう少ししたら、起こしにいこうと思ってたんだけど」
「ああ。今日は少し早く目が覚めちまってな。勝義とことみはまだ寝てるのか?」
千恵子は頷き、答えた。
「二人ともまだぐっすりだよ。昨日の誕生会あんなにはしゃいでたものね。まだもうしばらくは寝かせてあげるつもり。武ちゃんこそ、大丈夫? 昨日結構飲んでたみたいだけど」
石和はご飯と鮭の切り身を口にしながら、「大丈夫だ」と、言った。
「俺はこう見えて、酒はそこそこ強いからな。しかし、佐々木がな……」
千恵子は『あー』と言って、苦笑いを浮かべた。昨日は息子の誕生日会を行い、第五研究所の同僚である佐々木勇二郎博士を呼んでいたのだが、帰りは顔を真っ赤にして、ひどい有様だった。あまりにも泥酔状態がひどいので、家に泊めようと何度も引き止めたのだが、『大丈夫、大丈夫』といって、タクシーに乗って帰っていってしまった。あのあと無事に家へ戻れたのか。少々心配である。
しかし、佐々木は酒好きと聞いていたが、あれほど弱いとは……酒好きがアルコールに強いとは限らない。それを実感させるには充分な有様だった。
「まあ、佐々木のことだ。二日酔いが原因で今日出社してこれない、なんてことはないだろうがな。心配はいらないさ」
「あはは。そうだね。でも、佐々木さんにも感謝だね。わざわざうちのイベントに出てくれて、場を盛り上げてくれて。ことみも勝義も懐いているみたいだし、いい人だね」
「第五研究所の連中はみんな個性派ぞろいで、プライベートでは付き合いづらいが、佐々木は例外だからな。グループの中でも一番空気が読めるヤツだし、まめに周囲に気を配っている。グループの中じゃ一番まともで社会的なヤツじゃないかな」
そう言いながらみそ汁をすする石和に千恵子はくすくすと笑った。
「珍しいよね。武ちゃんがヒトのことをそんな風に褒めるなんて。ちょっとビックリだよ」
「む。そうか?」
「うん。天変地異が起きないか、心配な位」
「それは言い過ぎだろ……」
自分はそんなに他人に優しくないのだろうか。心配になる。職場でもそんな風に見られてるのかもしれない。
「あははは、冗談だってば。武ちゃんはぶっきらぼうなところがあるけど、すごくすごく優しいもん。みんなに自慢できる最高の旦那様だよ」
臆面もなくそんなことを言う千恵子。石和は顔が熱くなるのを感じながら、ごほんと咳払いをした。
「ま、まあ、ともかく。佐々木は気軽に話せるいい奴だってことだ。また連れてくることもあるだろうから、その時は歓迎してやってくれ」
千恵子は頷きながら、笑顔を浮かべた。
「勝義とことみも喜ぶと思う。是非って伝えといて。武ちゃん」
「ああ」
佐々木も独身の一人暮らしで、いつも一人寂しく酒を飲んでいるとぼやいていたから、頻繁に誘ってやれば喜ぶかもしれない。近いうちにまた食事にでも誘ってみるとしよう。
「ごちそうさま。さて、と。それじゃあ、そろそろいくかな」
石和は空の食器をキッチンの洗い場に置き、壁のハンガーにかけてあるコートを身に纏うと、玄関に向かって歩き始めた。千恵子が少し意外そうな顔を浮かべながら、後を付いてくる。
「もういくの? いつもよりだいぶ早いよ」
「研究所に新しい機材が届いてな。今日からソイツを使った研究が始まるから、早めに行って準備しておきたいんだ」
「そうなんだ。じゃあ、今日は遅くなるのかな」
「どうかな。分からないが、なるべく早く帰れるようにするよ。勝義とことみが起きている時間までには必ずな」
「うん。待ってる。お仕事頑張ってね、武ちゃん」
「ああ。行ってくる」
靴を履きドアを開けると、千恵子が、
「あ、武ちゃん。忘れ物だよ」
と言った。石和が振り向くと、千恵子が背伸びをして石和の唇にキスをしてきた。
「っ!」
大きく目を見開く石和に千恵子は頬を赤らめて、はにかんだ。
「えへへへ。いってらっしゃいのキス。子供達がいるときには恥ずかしくて、最近出来なかったし。たまにはしたいなあと思って」
「い、いってくる」
石和は顔が熱くなるのを感じながら、ドアを閉じた。すでに結婚して五年も経つというのに、どうにもこういった事に慣れを感じない。相手が千恵子だからだろうか。不思議なモノだ。千恵子も千恵子で未だ新婚時代と微塵も代わらない接し方をしてくるので、たまに気恥ずかしくて、たまらなくなってくる。まあ、悪い気はしないのだが。
石和は唇に指を当て、目を細め一人微笑むと、駐車場へ向かうためにエレベーターへと乗り込んだ。