6「嫉妬」
水族館を出て、久しぶりの外食を終えると子供たちは疲れたのか、帰りの車の中で寝入ってしまっていた。マンションの駐車場に到着してもまったく起きる様子がない。千恵子はことみを、石和は勝義を背負い、自分たちの部屋へ向かった。
寝間着に着替えさせて、勝義の部屋のベットに寝かせる。
「むにゃむにゃ……お父さん……まんぼう……イルカ……アザラシ……えへへ……」
随分と水族館が気に入ったらしい。勝義は寝言で今日見てきた海洋生物の名前を唱えながら、笑顔を浮かべていた。
そんな勝義の頭を撫でながら、石和は眼を細めて笑う。
「またいこうな」
と、小さな声で語りかけ、静かに部屋のドアを閉じた。
「どう? 武ちゃん」
リビングに戻ると千恵子がコーヒーをカップに注ぎながら、待っていてくれた。
「ああ。よく寝てる。疲れてたのかな」
「勝義もことみもあんなにはしゃいでたもの。無理もないわ。はい、武ちゃん。お疲れ様」
そう言って、石和に湯気のでたコーヒーカップを渡す。石和は椅子に座り、カップを受け取る。
「さんきゅ。千恵子も疲れたろ。お疲れ様」
「ううん。楽しかった。水族館に行ったのなんて久しぶりだったから」
千恵子は首を左右に振って笑う。石和も同様だった。久しぶりの水族館は刺激的で、童心に返ってしまった。子供たちと一緒にはしゃいでしまったのが、今になって気恥ずかしく感じる。
「まあ、川原には感謝だな。水族館に呼ばれたときは本気で首を傾げたがな、結果的にはいい気分転換になった」
はははと笑いながら、コーヒーを啜る。ブルーマウンテンの味が疲れた身体に心地よい。そんな石和を千恵子はじっと上目遣いで見つめる。
「……ねえ、武ちゃん。どうして今日、水族館に行ったの?」
「ん? 電話の時、言っただろう? 昨夜の事件のことだよ。川原の親戚の刑事が詳しく話を聞きたいって言うからだよ」
「なんで水族館なの? べつに水族館じゃなくてもいいじゃない。それに昨夜の事件のい事だって、他にも大勢の人がいたのに武ちゃんだけ、呼び出されるなんて……おかしいよ」
目を逸らして、俯く。石和は眉を潜め、
「なんだよ、やけに絡むな。別に深い意味なんてないぞ。刑事のヒトが水族館好きだっただけで――――」
そこまで言って、ようやく石和は理解した。千恵子の様子がおかしかった理由はそういうことだったのか。石和は深く嘆息すると、千恵子の両頬を掴み、ぐいと引っ張った。
「ひゃっ! ひゃ、ひゃけひゃん、ひはい! ひゃにひゅるほっ!?」
「お前な……勘違いも程々にしろ。俺は川原の親戚である刑事に会いに行ったのであって、川原とデートする為に水族館で待ち合わせした訳じゃないぞ」
「――――っ!」
両頬が引っ張られた顔で大きく目を見開く千恵子。石和の推測は図星だったようだ。千恵子は慌てて、首を左右に振る。
「わ……わひゃひ、ひょんなほほ、ほほっへはい」
「嘘つけ。じゃあ、何で川原を避けたり、変な事追求してきたりするんだ。千恵子らしくもない。佐々木がこの前言った冗談でも真に受けたのか? 川原は仕事の同僚で、それ以上でもそれ以下でもない。本当だ。第一、俺が川原と逢い引きしたと仮定して、なんでわざわざ水族館へ行くことをお前に言わなきゃいけないんだ? 自分から浮気してますって、公言しているようなもんだろ、それは。そんな場に家族なんか呼ぶわけがない。だろう?」
そう言って、手を放す。引っ張った両頬をすりすりと撫でながら、千恵子は涙目で呻いた。
「痛い……武ちゃん、ひどい……ぐす」
「ひどいのはそっち。信用されてないのはショックだ。もう少し、俺を信じてほしい」
「だって……あの人の目が言ってた。武ちゃんのこと好きだって。綺麗なヒトだったし、仕事であたしよりも長い時間いられるし、不安にならない筈……ないよ」
石和は無言で椅子から立ち上がった。千恵子の後ろに回り込み、身体をぎゅっと両手で抱きしめた。
「た、武ちゃん?」
「いいか、俺たちは結婚してもう五年経つが……それでもやはり照れくさいものは照れくさい。だから、一回しか言わない。いいか……よく聞けよ」
ごほんと、咳払いして、石和は言った。
「千恵子――――お前が好きだ。愛してる。昔も現在も。そして、これからもずっと」
「――――」
「俺は他の女にどんなに言い寄られようが好きにならない。絶対だ。何故なら千恵子、お前は俺の半身そのものだからだ。『あの時』も言っただろう? 俺はお前がいないと生きていけないんだ。七年経った現在でも……その想いは変わらない」
「武……ちゃん」
「だから、その……もっと自信を持ってくれ。俺に愛されてるって……自覚してほしい…………って、ああクソ、ったく。やっぱ恥ずかしいな。こんなことを男にわざわざ言わせないでくれ」
「武ちゃ……ひっく……ご、ごめ……ううっ……」
両肩に回した石和の腕を両手でぎゅっと掴んで、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「やれやれ、母親らしい余裕が最近出てきたと思ったんだが、やっぱり千恵子はいつまで経っても『泣き虫チエ』のままだな」
「っく……だって……だって……あたしが強くなれるのは武ちゃんがいるからだよ。武ちゃんが好きだから……っひっく……」
「俺もだ。だから、頑張れる。もう変な事で不安になるな。分かったな……千恵子」
「うん……うん……ごめんね、武ちゃん……」
千恵子は何度も頷き、涙を零し続ける。石和は強く抱きしめ、落ち着くまでこのままでいることにした。
……こうしていると想い出す。七年前のあの日のことを。
かつての恋人と別れた日。親友と決別した日。そして、千恵子と恋人同士になったあの日。 千恵子、石和、そして、幼なじみの……航。
三人はいつも一緒だった。小学生の頃から、なにをするのも一緒。学年によって、仲間が増えたりすることもあったが、中心はいつもこの三人だった。
大学は互いに違ったが、家が近所同士のこともあってか、付き合いが途絶えることは無かった。だが、あの日。すべてが崩壊した。航と本気で感情をぶつけ、殴り合い、そして、石和と千恵子の前から去っていった。
……航が『あの時』最後に言ったことを想い出す。
『気付かなかったのか? ははは、お前は鈍いからな! いつも一緒にいるから、家族感覚でずっと接してきたと思ってたんだろ。だけど、それは罪だ。気付かないことでヒトを傷つけることだってあるんだ! お前が千恵子ではなく他の誰と付き合おうと構わないさ! だが、その時、なんで千恵子の想いに気付き、距離を取らなかった? なんで幼なじみとしてずっといることを千恵子に強要させた? それが、どれだけ千恵子を苦しめてきたか分かっているのか? こんなことになった元凶はお前自身なんだよぉっ!!』
「――――」
石和は即座に頭の中から振り払った。あの日は特別な日であったが、同時に最悪の日である。石和にとっても、千恵子にとっても。わざわざ想い出して憂鬱になることもないだろう。
「武……ちゃん?」
千恵子が潤んだ瞳でこちらを見ていた。難しい顔をしているのを見られたようだ。千恵子に悟られたくない。石和は千恵子の唇を奪い、口を塞いだ。
「んんっ!? んっ……んふっ……」
舌を入れて唇を貪る。そのまま千恵子の胸に手を持ってゆく。千恵子のブラウスのボタンを外し、肩をはだける。下着をたくし上げ、両手で柔らかな乳房を堪能する。
「んっ……んんぅっ……あっ……た、武ちゃん……好き……大好き……」
この髪も、唇も、乳房も、秘所も、温もりも。
すべて、すべて、すべて、すべて、すべて。
自分のものだ。誰にも渡さない。絶対に。航には――――渡さない。
千恵子の言葉に応えるように。石和は静まりかえったリビングの中で千恵子を抱いた。