3「慟哭」
エレベーターが下る。一人、その中で石和武士は拳を強く握りしめ、歯がみしていた。
だんっ、と壁を強く叩き、エレベーターがぐらぐらと揺れる。
苛立つ。収穫など何一つ得られなかったふがいなさに心がかき乱される。
「見間違いだと? Dー計画の担当者である俺が見間違えるとでも思っているのか? あれは間違いなくα細胞によるものだ。他にあんな超常能力を持った怪物がこの世に存在するわけがない! ふざけるなっ!」
一人、叫ぶ。島村専務はこの事件に関わっているかどうかは分からないが。あれがα細胞によるものであるならば、なにかしらの事情を知っている筈なのだ。
しかし、島村専務の言葉を何一つ否定できなかったのも事実だった。そして、なにも反論できなかった。悔しいが、現状の『見た』という事実だけでは、反論することができない。状況証拠ばかりで、確かなものは何一つ無いのだから。
戸木原博士のことといい、自分の知らないところでいったい何が起きているのか。
嫌な予感がする。
なにか取り返しがつかないことが進んでいるような……そんな気がする。
とにかく、昨日のことを本格的に調べてみよう。また佐々木と相談して、必要なら川上にも助力を仰ぐ。それから今後の動きを検討しよう。
そんなことを考えながら、地下に到着したエレベーターから降りると、意外な人物がそこにいた。
佐々木勇二郎だった。駐車場を支える太い柱の一つに寄りかかり、俯いている。エレベータから降りてきた音に反応して顔を上げると、すぐさまこちらの存在に気付き、石和の元へ駆け寄って来る。
「お疲れ様、石和くん」
「佐々木、お前どうしてこんな所に? 勤務時間中じゃないのか?」
そう言って、佐々木の姿を見る。仕事時に着用している白衣ではない、スーツ姿だった。
「急用があるって言って、今日は早引けした。あとは川上くんに任せてある」
「お、お前なあ……無茶苦茶だぞ。大した用もなしに早引けなんて、Dー計画の担当者がやることじゃないぞ」
「無茶苦茶なのは自分でも承知している。でも、これは僕にとって大事なことだよ、石和くん……気になって仕方がないんだ」
鋭く告げて、佐々木はじっと石和の眼を見据える。
……眼が充血している。あまり睡眠を取っていないようだ。親友である新井博士のことが心配で仕方がないのだろう。
いや、それだけではない。佐々木の眼には暗い光がある。激しい葛藤の中、何かを決意したような、そんな眼だ。よくない傾向だった。よほどの事がない限り、佐々木が仕事を放棄して、早引けすることなどなかったというのに。
(昨日、佐々木に電話をしたのはまずかったか……ショックが大きすぎた)
頭を掻いて、嘆息する。しかし、遅かれ早かれ知ることだ。ショックを受けるなら早い方がいい。それに事情を一通り知った相談相手が石和には必要だった。未だ混乱していて、これからどうするべきか、頭の中でまとまらないのだ。
「分かったよ、佐々木。でも、ここでこの話は……まずい」
そう言って、石和は周囲を見回した。駐車場に出入りしている社員の姿が目につく。この話を他人に聞かれるのはまずい。石和は歩き出した。行く先は自分の車。車の中なら話も聞かれないだろう。佐々木は無言で頷き、石和の後を追った。
石和は自分の車の前に来るとリモコンキィでロックを外し、すぐさま運転席へ乗り込んだ。続けて、佐々木が助手席に座る。
石和はボックスの中から煙草の入った箱を取りだした。煙草を加え、火をつける。紫煙を肺に入れ、心地よい感覚に身を委ねる。
「お前も吸うか?」
「いや……僕は吸わない。吸えないんだ」
「そういやそうだったな……」
「で、どうだったんだい? 島村専務との話は」
石和は俯きながら、小さくかぶりを振った。
「完全敗北だ。すべて俺の気のせい、錯覚だと。あれは百戦錬磨の強者だな。反論の言葉をことごとく吸い取られていく感じがした。しかもあの威圧感。なにも反論出来なかったし、なにも聞き出すことが出来なかった。話を聞いているうちに本当に見間違えただけなんじゃないかって、錯覚しそうになったよ」
「石和くん自身はどう思ってるんだい? 本当に錯覚だと?」
「馬鹿いえ。あれは見間違いなんかじゃない。間違いなくあれは新井武之博士本人だ。そして、あの眼は『赤眼』だ。俺はDー計画の担当者の一人だぞ。見間違えるはずなんか――ない」
「そう、か……やっぱり……そうなんだ」
佐々木は顔に手を当てて、身体をぶるぶると震わせ始めた。歯を食いしばり、目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。
「……佐々木?」
「へ、変だと思っていたんだ。あれだけ家族を大切にしていた新井さんが、何の連絡もなしに消息を絶つなんて……あり得ないって……なにかあったんだって――っく…」
「…………」
「でも、信じたくなかったんだ。どうしても無事でいる望みを捨てきれなかった。だ、だから、僕は……っ! っく、なんで……そんなことが出来るんだろう? ひどい……ひどすぎるよ! あの人に……α細胞を……あ、新井さん……っ。ううっ……」
あとはもう言葉にならなかった。佐々木は涙を拭うことすらせず、泣き始めた。石和はなにも言わなかった。佐々木の顔を見ることもしない。紫煙を肺に吸い込み、吐き出す。 灰が尽きたら、新しい煙草を咥え、火をつける。その作業を単調に繰り返す。石和と新井の面識はただ一度だけ。昨日の光景を見て驚愕があったが、悲しみはない。
佐々木の気持ちは分かるが、痛みは分かち合えない。それが分かると言うのはただの同情であり、偽善だ。同情は優しさではない。
だから、石和は告げる。冷たく、無慈悲に。佐々木がやろうとしていることを止めなくてはならない。
「止めておけ」
淡々とした声で。石和はそう言った。
「……え?」
「佐々木が考えていること、分かるぞ。新井さんの家族に今回のことを打ち上げ、この事を世間に公表するつもりだろう? それをきっかけに今回の主犯を捜し出し、三ツ葉社そのものを訴えようとしている。違うか?」
佐々木は俯いたまま何も言わなかった。どうやら図星の様だ。石和は続けた。
「止めておけ。真相はお前の心に留めておくだけにしろ。いいじゃないか、行方不明のままで。真実を語っても心の傷が広がるだけだ。それにα細胞の存在は極秘扱いだ。どんな理由があろうと外部に漏らすことは許されない。こんなことは言わなくても分かってるはずだろ? 第一、真相を話したところで、信じちゃくれないさ。別次元の生物の存在なんかな」
「……石和くん、それ――本気で言ってるのかい?」
「本気もなにも俺は正しいことを言っているだけだ。お前のやろうとしていることは無謀な特攻だ。勝ち目も何もない、新井さんの家族を巻き込んだ自己満足だ。そんな行為に意味なんかあるわけがない」
「――――っ!」
佐々木は激高して、石和の胸ぐらを掴んだ。もの凄い形相だった。普段の温厚な顔は影を潜め、強く歯を食いしばり、血走った目で石和を睨み付けている。こんな佐々木の姿を見るのは初めてだった。
「君になにがわかるっ! 君にっ……僕の気持ちがわかるのか! 新井さんは親友だった! 最高に大事な僕の友達だったんだ! その友達が実験体に使われたんだぞ! 君にも分かってるはずだ。α細胞に浸食された生物は二度と元には戻れない! 絶対にだ! それを分かっていながら、こんな非道な行いをしたヒトを許せるかい? 許せるわけないだろっ! せめて仇を討ってあげなきゃ、新井さんは浮かばれないんだっ!」
「だから、それが自己満足だって言ってるんだ! 落ち着いてよく考えてみろ! 新井博士の家族が真相を知ったら、どうなるか! 無事に済むと思っているのか? 昨夜の事件であれだけ被害をだしたのにも関わらず、平然と真相を揉み消すような連中だぞ。確実になんらかの手段で、口封じをされる。残酷なようだが、現在の状況を維持するのが一番安全なんだよ!」
「あ……」
「そして、それはお前もだ。そんな真似をすればお前もただじゃ済まない。Dー計画の担当者であることなんて関係ない。いや、逆だ。状況を理解しているからこそ、真っ先に狙われる。そして、下手すれば新井博士の二の舞だ。α細胞を強制投与されて同じ道を辿ることになるかもしれない。これが無謀な特攻でなくてなんだというんだ、お前は!」
「……ぼく、は……」
「お前の気持ちがわかる――――なんて傲慢なことは言うつもりはない。俺と新井博士は一回あったことあるだけの、それだけの存在だ。俺は知人以下の人間の為に涙を流せるほど聖人じゃない。だが、α細胞の事はお前だけの問題じゃないだろう? 俺にだって、怒りはあるし、こんなことにα細胞を使いやがった馬鹿をぶん殴って いや、ぶち殺してやりたいんだ!」
「うっ……うううっ……」
「だからこそ、感情は抑えろ。ここで無謀な行動を起こしたところで、何にもならない。考えろ。どうすれば主犯を捕らえ、引導を渡すことが出来るのか。冷静に理論的に考えるんだ。それに……忘れるな。佐々木。お前が新井博士と親友だったように、俺はお前を親友だと思っている。そのお前が無謀な特攻をしようとしているのを、止めないわけにはいかないんだよっ!」
「ううううっ……うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――っ!!」
佐々木は号泣した。石和の胸ぐらを掴んだまま、うずくまるようにして。石和のズボンにいくつもの水滴がこぼれ落ち、吸い込まれてゆく。
なんともやるせない気持ちが沸き上がるが、やはり石和は何も言わない。
佐々木の狂おしく号泣するその姿を眺めながら、落ち着くまで。なにも語らない。ただ、見守り続ける。それが石和にできる唯一のことだった。