10「紅い眼、赤い炎」第二段階(了)
夜の大通りを車で疾走する。道路は軽い混雑状況にあった。渋滞というほどひどい状況ではないが、事あるごとにブレーキをかけ、ひたすら動くのを待つことになる。
思うとおりのスピードで進めない苛立ちに石和武士は軽く眉を潜め、舌打ちした。
まあ、いい。考え事をするには丁度いいかもしれない
石和は片手で煙草に火をつけ、紫煙を肺に溜め込みながら、深い思考の世界に潜る。
『……意外な結果がでたよ、石和くん』
佐々木が神妙な顔をして、戸木原の調査報告を行ってきたとき、頭が真っ白になった。
戸木原淳。過去の改竄にこことは違う性格。そして、強固なセキリュティをかけられたデータ・ベース。
胡散臭いなんて、レベルではない。
肺に溜め込んだ紫煙と共にため息を吐く。中でも一番驚いたのは『戸木原淳の性格と周りの評価』だった。
彼が有能な研究員で、彼を尊敬し、従う研究員が何人もいる。まるでここの評価とは真逆ではないか。にわかには信じられない。彼が戸木原淳本人ではない可能性だってある。有能な研究員である戸木原淳を名乗って、この研究室に潜り込んだのかもしれない。
しかし、川上がハックしたデータ・ベースには顔写真も登録されており、それは間違いなく本人のものだったらしい。指紋登録もされており、改竄された可能性は低い。
それに三ツ葉社の研究機関で行っているこの『Dー計画』はどの研究機関よりも機密性の高い重要なプロジェクトだ。そこのリーダーにすり替わろうなど、不可能に近い。
だとすると、考えられるのはひとつ。擬態だ。
あえて、無能を晒すような真似をし、他の研究員達の信用を失わせ、戸木原淳という存在を軽く扱うようにしたのだ。
しかし、そうする理由が分からない。有能で人望が厚い方がなにかと有利だと思うんだが……そうしなければならないなにかがあるのだろうか?
額に手を当てかぶりを振る。なにを考えても、それはあくまでも推測でしかない。何かが起こっている訳でもない。考えても結論など、出る訳などないのだ。
ただ――――嫌な予感は今日一日で格段に増し、不安と懸念は膨れ上がる一方だ。
戸木原淳。軽い気持ちで始めた身辺調査であったが、もう少し深いところまで調べてみる必要がありそうだ。
「けほっ……けほ、けほっ……」
――――と。咳き込む声が聞こえてきて、石和は我に返った。隣の助手席では川原奈々恵が口元を覆いながら、咳き込んでいる。
「ああ。すまん。煙かったか」
言いながら、車の空気清浄機を稼働し、煙草の煙を外に逃がす。すると、川原は半眼でじっとこちらを睨め付けてきた。
「……石和くんて、本当に失礼なヒトよね」
「なんだ? もう平気だろう」
「そうじゃなくて。隣にあたしがいようがいまいがおかまいなし。この密閉空間の中で煙草の煙充満させて、一人の世界に浸っちゃうんだもの。女性をないがしろにすると、ばちがあたるわよ?」
石和は苦笑した。そういえば今日は一人ではなかったのだ。
「いや。悪い。車の運転中だと考え事がよくまとまるから、いつものクセでつい、な」
川原ははあ、と嘆息した。
「いいわよ、別に。こっちも送ってもらってる身だし、文句はいえないしね。でも、意外。石和くんって煙草吸ってたのね」
「家や研究所内ではあまり吸わないからな。プライベートで一人の時、つまりこの車にいるとき以外はほとんど吸わないかも知れないな」
「やっぱり家族の前では吸いにくいのかしら」
「ああ。千恵子はともかく、子供がいるからな。昔はそれなりにヘビースモーカーだったが、すっかり落ちついてしまったって訳だ」
「千恵子と子供達、ね。石和くんも一人前のお父さんしてるのね。なんか可愛いわ」
「男に可愛いとかいうな」
露骨に眉を潜めて言うが、川原は楽しそうな笑みを浮かべている。川原は身を乗り出し、
「ねね、奥さんとの馴れ初めとか、聞いていい? どんな出会いでどんな結婚をしたのかとか」
「お前なあ。暇に飢えた主婦じゃあるまいし、ゴシップ感覚でそんなことを聞くのは止めてくれ」
「いいじゃない。そもそも女はそういう会話が好きなのよ。年齢に関係なくね。それにあたし達のグループで結婚してるのって石和くんだけじゃない? 興味を惹くのはごく自然のことだと思うんだけど。まだあたしの家まで時間かかりそうだし、今後の参考の為にも是非聞かせてほしいわ」
「……何の参考だ、何の。べつに語るほどのことは何もない。千恵子とは子供の頃からの遊び仲間の一人で、気付いたら告白されて、気付いたら結婚して、ごく普通に子供が出来て父親になった。それだけだ」
「幼なじみとの結婚かあ……いいわよね。長い想いを遂げたっていうのがロマンティックな感じがして」
「期待にそえなくて申し訳ないが、そんな少女漫画みたいなものじゃない。付き合い始める前まで、そんな感情はほとんどなかった。それ以前は家族的な感覚が強かったからな。自然な流れだよ、ごく平凡な」
「それは石和くん主体の感覚でしょう? 奥さんはそうじゃないんじゃないかしら。さっき奥さんに『告白された』って言ってたし」
「う……」
さりげなく流したつもりだったが、しっかり川原の耳には残っていたようだ。仕方がない。石和は少しだけ千恵子の話をすることにした。
「……あいつは小学校四年の頃、俺の学校に転校してきたんだが、病弱で人付き合いが苦手なやつでな。周りからいじめられてたんだ。それである事件をきっかけにそのいじめから助けてやったことがあった。それから、アイツとはよくしゃべるようになってな。アイツ……千恵子とはそれからの付き合いだ。
小学校、中学校、高校、大学は違ったが ずっとずっと一緒だった。だからかな、俺はアイツの気持ちに気付かなかった。あまりにも一緒にいるのが当たり前すぎて、家族的な好意以外なものが入っていることに全然気付かなかったんだ、七年前、直接告白される、その時までな。千恵子はずっと俺のことを好いていてくれた。小学校の頃から、ずっとな」
「…………」
「俺の初恋はべつの女性だ。初めて付き合ったのもまた違う女性。千恵子はその間、ずっと変わらず俺に接してくれた。いや……ちがうな。変わらずいられるように接してみせてくれていたんだ。だからこそ、俺は彼女の想いに気付かなかったんだがな」
「悪い男だった訳ね。無自覚のうちに奥さんを悲しませてたんだから」
「……否定はしない。千恵子に告白されたとき、もう一人幼なじみがいたんだが、ソイツにも言われたよ。『お前、それはずっと二股かけてきたのと変わらない。無自覚ってのは罪のひとつだ』ってな」
「それって……俗にいう三角関係?」
なにやら川原の瞳と声が好奇心に満ちている。それで石和は我に返った。しゃべりすぎた。七年前の『あの時の事件』と航のことは自分でも思い出したくない。
「……まあ、詳しいことは想像に任せる。最終的に俺は千恵子を選び、彼女と結婚した。後悔はしてない。今となってはなるべくしてなった感じがするしな」
「のろけられちゃったわね。あ~あ、聞かなきゃ良かった」
「おいおい。自分から話をさせていおいてソレはないだろ……川原も結婚すればいい。時期的にも頃合いだろ?」
そう言うと、川原がじっと見つめてくる。
「……川原?」
石和が訝しげに名前を呼ぶと、川原は視線を逸らし、おどけたように両手を広げて、溜息を吐いた。
「……頃合い過ぎて、行き遅れの領域よ。こういう仕事をしてるとどうしてもね。出会いがないのよ。大学もこっち系だとろくな男いなかったし。あ~あ、どっかいい男転がってないかしらね」
「佐々木なんかどうだ? アイツはいい奴だし、信頼できる男だ。俺が保証する」
「佐々木くんかあ……う~ん、誠実そうではあるんだけど――――」
――――と。その時だった。
突如、ずずん、という鈍い音が響き渡り、車ががたがたと揺れた。
「きゃっ! な……なに?」
「激しい振動だ……地震か?」
前方を見ると、信号が青なのに車が進んでいない。ブレーキをかけ、周囲を見渡す。先の十字路で何か騒ぎが起きているようだ。
「なんだ、いったい……交通事故か?」
「石和くん……見て! あれ!」
川原の指さす先にオレンジ色の光が見える。爛々と輝くその光。夜の闇夜を照らす禍々しい光。車が――――燃えているのだ。
『繰り返す! 犯人は武装解除して、直ちに投降しなさい! さもなくば、発砲する! 繰り返す! 犯人は――――』
『う、う、撃て撃て撃てぇっ! ああああれは人間じゃない! ば化け物だ! 警告なんか意味あるもんか! 拳銃じゃ駄目だ! 重火器の使用要請を出せ!』
『馬鹿者っ! このままじゃパニックになる恐れがある! 私含む五人は犯人を包囲する。ニューナンブ・改を出せ! 他の警官はこの辺りの車をすべて退避させろ! 非常線を張ってこの一画を封鎖するんだ! それと本部へ機動隊の出動要請を! 急げ!』
十字路の中央から、幾多もの声が聞こえてくる。警察だろうか。なにかトラブルが起きてるらしい。混乱して統率が取れていないようだが。
どくん、と胸が大きく脈動する。なんだろうか。ひどく、嫌な感じがする。
石和は、エンジンをかけたままブレーキをロックし、車を降りた。
「ちょっ、ちょっと石和くん。どこいくのよ」
「ちょっと様子を見てくる。すぐ戻る」
川原にそう言って、騒ぎの起きている中心へと向かう。幸い非常線はまだ張られていないようだ。十字路の前には人だかりが出来ている。
『な……なんだよ、アレ。映画の撮影か、なんかかよ?』
『ねえ、なんかやばくない? 逃げた方がいいんじゃ――――』
『うわっ……撃った! 撃ったぞ、いま!』
『え~ウソウソ! 立ってるわよ! ヤバイクスリでもやってるんじゃないの?』
人混みを掻き分け、進んでゆく。一体、なにが起きているのか。
どく、どく、どく、どく。
進むたびに心臓の脈動が早まり、汗が噴き出す。なんなのだろうか、この感覚は。訳が分からない。
『下がって! 下がってください! 今から非常線を張ります! 大変危険ですので、この場より直ちに退避してください! まもなく誘導が始まりますので、こちらの指示に従って、落ち着いて動いてください!』
『あっ……そこのお前! これ以上近くな! 危険だと言ってるだろうが!』
制止する警官の声は石和には聞こえない。前に進んでいゆく。密集した人混みの中に身体を押し込み、先へ先へ、進む。押し込む隙間がないと、石和は両手で強引に人混みを掻き分け、強引に道を造る。周囲から罵声が飛ぶが、やはり石和の耳には届かない。
妙な焦燥感は身体中に行き渡り、何が起こっているか。それしか思考出来なくなっていた。やがて、人混みは途切れ――――視界が開けた。
「な……なんだ、これは――――」
呆然として、石和は呻いた。辺り一面が――――オレンジ色に染まっていた。
車が爆発し、漏れたガソリンに引火したのだろう。十字路の中心が真っ赤に燃えている。 中央には、巨漢の男が立っていた。身長は190cmほどであろうか。ぼろぼろになったワイシャツにあちこちが破れたズボン。
所々に血のような染みがこびり付いている。浮浪者だろうか。
顔は影になっていて石和の位置からはよく見えない。
その巨漢の男を五人の警官が扇状に男を取り囲み、拳銃を構えている。
否。すでに発砲していた。ぱんぱんぱん、と乾いた音が響く。男と警官達の感覚はほんの1.5メートル程度。じりじりと後ずさりながら、警官達は発砲を続ける。警官は常に拳銃を所持しているが、実際使用することはほとんどない。せいぜいが威嚇である。
その拳銃をこうも連射するなど、相手はよほどの凶悪犯なのか。また、クラック・ボールを服用した中毒者が暴れているのだろうか。
警官たちの顔は皆、一様に青ざめている。中には歯をかちかちと震わせている者もいて、身体も緊張して硬直している。あれでは撃っても、的に当たるかどうか怪しいものだ。幸いなことに標的との距離は短い。でたらめな方向に飛ぶ銃弾もあったが、七割の銃弾は男の身体に命中していた。
腰、胸、腹、頭。様々な場所に弾丸が命中し、男の身体が幾度も跳ねる。
だが、それだけだった。男は倒れない。それどころか、効いた様子すらない。身体に叩き込まれた筈の銃弾が、アスファルトの上へとからからと音を立てて転がり落ちる。
「な……」
効いている、効いていないのレベルではなかった。男の肌に銃創は皆無。貫通はおろか、体内に食い込むこともなく、すべての銃弾を弾き返していた。
違う。これはクラック・ボールでは、ない。確かにクラック・ボールを服用すれば、アドレナリンの異常分泌による力の増大や、麻酔効果などで、一時的に超常能力を発揮することは可能だ。
だが、これは違う。そういう問題ではない。まるきり銃弾を受け付けない肉体を持つ人間など存在するはずがない。
男が動いた。銃弾の雨がなんの障害とならないのであれば。阻む物などなにもないも同然だ。五人の警官の一人に近づき、右手を横一文字に振った。手にはナイフなどの殺傷武器はなにもない。そもそも警官に触れてすら、いない。ただ、男の手刀が何もない空間を薙いだだけ。
にも関わらず――――ずるり、と。警官の首がずれた。
「え?」
首がずれた警官も何が起きたかも分からず。目をぱちくりとさせていた。そのまま、胴と首は完全に分離し、首がごろりと転がった。
ひゅん、ひゅん、ひゅん。
続けて、男は幾度も手刀で空を薙ぐ。今度は三度連続で、無造作に。
ごろん、ごろん、ごろん。
更にみっつの警官の首が鈍い音を立てて地面に落ちた。木から落ちた果実の様に。首のひとつはそのままころころと転がり、人混みの目前で止まった。そして、首が無くなった警官達の膝が落ちて、そのまま跪いた。
ぶしゃあ、と。四つの警官の身体から血が勢いよく吹き出し、辺り一面を赤く紅く染め上げてゆく。それはまるで、公園にある噴水のような――――
「う……うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
「きやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫が辺り一面に鳴り響く。それは警官と一般人の混じり合った恐怖の悲鳴。
それが――――混乱と、殺戮の始まりだった。
すでに連携も抵抗もなにもない。一人残った警官が、一目散に逃げ出した。すでに警官という立場など関係ない。ひとつの個として、ひとつの生物として、死から逃れ、生を渇望する。そして、その想いは伝染する。警官から、市民へと。最悪の事態だった。
避難誘導を待つ暇もなく――――人々はそこから逃げ出した。周りの者を押しのけ、踏みつぶし、逃げる。車に乗っていたモノは車を捨てて、逃げる。そこまで頭の働かない者は後ろに後続車がいるのにもかかわらず、車をバックさせる。
車同士の衝突。そして、炎上。爆発。連鎖反応。オレンジ色の光が広がってゆく。たちまちのうち、平和だった十字路の通りは戦場と化した。
男は逃げる者を殺さない。目の前にある障害を排除してゆくだけ。それが車であろうが、ヒトであろうが、関係ない。手も触れず、不可思議な『力』を持って、切断し、壊し、己の行く道を開拓してゆく。その破壊と進行は誰にも止められない。
「そんな……そんな馬鹿な……」
そんな混乱の最中、石和はその場に立ちつくしていた。大きく目を見開いて、ただ、呆然とその男を見つめる。
恐怖で身体がすくんだ訳ではない。自分が危機的状況であることを感じてない訳でもない。目の前にあるその事実が、ただひたすら信じられなかった。
影で先程まで見えなかった顔。その瞳。街頭の近くに歩みを進め、その顔が白日の下に晒される。
「そんな……馬鹿な……」
同じ言葉をもう一度繰り返し、再びその男の姿形を確認する。
赤い、紅い不気味なほどに鮮やかな瞳。
それはまるで宝石のような輝きを放つルビー状の瞳。
それはヒトではあらざる眼。
そして、その顔――――一度しか会ったことのない顔だが、決して忘れない印象を持つその男。風貌は変わり果てていたが、間違いない。
――――新井武之博士だった。