8「予感」
ここからは旧版と話はほぼ変わりません。ガンガン進めていきます!
佐々木は第五研究所に配置された自分専用の書斎で前回の実験のレポートをまとめていた。デスクの上に設置されたワークステーションのキーボードを叩き、データの入力を行っている。
「うん、順調だね。アルファ細胞の浸食も大きな乱れもないし、融合バランスも問題なし。この調子でいけば、『鍵』の素体は完成する」
独りごちながら、佐々木は大きく背伸びをした。微塵も進展が見られないDー計画であったが、ここで大きな前進を見せた。むしろ、半年の成果としては上々の結果だ。これで他の研究スタッフにも刺激を得て、士気があがることだろう。
そんな大きな満足感に浸りながらモニターを眺めていると、デスクの脇に設置されている電話から電子音が鳴り響いた。スイッチを押して、回線を繋ぐと、よく知っている声がスピーカーから響いてきた。
『川上だ』
短く、自分の名前を告げる。相変わらず、無愛想な声だった。佐々木は苦笑しながら、その声に答える。
「どうもお疲れ様、川上くん。どうしたんだい?」
『例の件で連絡した。そちらの都合のいい時間に報告する』
数日前に依頼した戸木原博士の調査についてだろう。依頼したのは二日前で、随分と仕事が早い。佐々木は感嘆の声を漏らした。
「ありがとう。よければ、今から平気かな」
『了解した。そっちに行く』
必要最小限の会話で、川上は内線を切った。確かに内線だと誰かに訊かれるかの可能性もあるし、発覚したら川上に迷惑をかけることになる。直接話すほうがいいだろう。
五分もしないうち書斎のチャイムが鳴り、川上がやってきた。佐々木は川上を部屋の中へ招き入れ、椅子に座らせる。入れ立てのコーヒーの入ったカップを差し出すと、川上は無言で小さく頷きながら、コーヒーを啜った。
「で、どうだい。なにか分かったかな?」
川上は静かに顔を左右に振り、佐々木に告げた。
「結論から、言う。戸木原博士が現在行っている研究については何の情報も得ることが出来なかった」
「え? 何の情報もって……まるっきりかい?」
「あの研究グループの管理コンピューターには通常では考えられないほどの強固なセキュリティがかけられている。おそらく『守護者』を使っている。とても自分の手に負える代物じゃない」
「守護者? そ……それって、まさか、あの?」
川上は無言で頷く。佐々木は唖然とした。守護者は軍事防衛プログラム用にMITが開発した、とびっきり凶悪なプログラム防壁である。高度な人工AIを搭載しており、下手に手出しをすれば、あっという間に場所を探知され、ウィルスをばらまかれ、侵入者のコンピューターを破壊する。更に高度なスパイウェアを用い、その侵入者の関係者までをも割り出し、攻撃する。特Aのクラッカーが挑戦し、破滅した話も聞く。そんな防壁、破れるはずがない。
「そんな……大仰なものいったいどこで? いや、それ以前になんで、そんな警戒態勢を敷く必要があるんだろう? いくら機密防衛の為とはいえ、大げさすぎる」
「分からない。ただ、守護者が設置してあると分かった時点で、自分は侵入するのを止めた。無謀な冒険は頭がいい行為とはいえない」
川上の言うとおりだ。こんなことで危険な橋を渡っても、何の特もない。
「――――だが、戸木原博士の性格は単純で直情的だ。過剰なほどのプライド、慢心が隙を生む。例えるなら、正面玄関の鍵は強固なものにし、周りにドーベルマンを配置する程の徹底ぶりだが、裏口には誰にもおらず、しかも鍵が開いているような、間抜け。別ルートから探ってみた結果、色々な情報を入手することに成功した」
何を言われても、無表情、無感動、無反応だった川上であったが、やはり、戸木原の態度にはだいぶ腹を立てていたようだ。言葉の端端にトゲがあるのが分かる。
「別方向で研究グループについて、調べてみた。いま現在、戸木原博士が独立して組んだ研究グループは全部で十二人。その内、五人が鹿島大学付属病院の元研究員、四人が人類進化促進塾の元研究員、そして、三人が元よつのは研究所の元研究員だった」
「よつのは研究所の研究員? その研究員って、まさか――――」
「そう。アルファを最初に調べていた研究員達だ。それだけではない。戸木原教授は鹿島大学付属病院、人類進化促進塾、よつのは研究所、すべての研究所で働いていたことがあり、集まった研究員はすべて過去、戸木原博士に深い関わりがある者達だった」
「な――――」
佐々木は絶句した。戸木原博士がよつのは研究所で働いていたのなど、聞いたこともない。ここに来る以前はたしか神奈川にある、滝村研究所で働いていたという話だったはずだが……。それとも、αに関わる前にいたということだろうか? あるいは――――
「佐々木博士がいま考えている通り。戸木原博士がここに来る前にいたセクションはよつのは研究所。研究対象は実験体αの調査。『あの事故』があったときも、戸木原博士はいた。我々が知らされていた情報はおそらく改変されたモノだ。
たしかに滝村研究所の記録名簿には戸木原淳の名前があったが、コンピューターの中の記録名簿などいくらでも書き換えることが出来る」
考えていることが顔に出ていたらしい。淡々とした口調で川上が告げる。川上は続けた。
「そして、もうひとつ。戸木原のいた研究所や施設、そのすべての人間が、戸木原博士を崇拝している。よって、他の研究所から情報を引き出すのは非常に困難と思われる」
「崇拝って……あの戸木原博士をかい?」
にわかには信じられない話である。石和武士がよく愚痴っているのを聞くが、彼の気持ちもよく分かる。理性より感情が先行し、すぐヒトに怒鳴り散らす。ヒトを使うのは上手いが、このD-計画の研究で役立つような功績を挙げたことなど只の一度もない。そのくせ、根拠のない、絶対的な自信を持っている。世間的に見て、嫌われる部類の人間と見ていいだろう。その戸木原博士が慕われていたというレベルを超え、崇拝されていたなど、佐々木にはちょっと考えられない。
「佐々木博士は意外に思われるかもしれないが、ここ以外での戸木原博士の評判は悪くない。むしろ、逆だ。公式発表はされていないモノがほとんどだが、各研究所では彼が筆頭に行った研究はかなりの成果を挙げ、評価されている。さすがに細かな研究内容は分からなかったが。過去の彼の噂を耳にしたが、『冷静沈着な切れ者』と言っていた。人望も高かったらしい」
「――――」
……なにがなんだか分からない。ここにいる戸木原博士とは何一つかみ合わない。話を聞くとまるで別人ではないか。本当にそれは戸木原博士なのだろうか。同姓同名の別人ではないのだろうか。それに彼の行動は不可解だ。
結晶をなじませる実験体を彼らだけで造る、と言ったこと。守護者などという大げさな防壁で武装していること。そして、彼の過去……
何一つかみ合わない。何一つ分からない。
正直、軽い気持ちで、この調査を始めたのだが、蓋を開けてみれば、瓢箪から駒、どころの話ではなかった。
「この事を感覚的に石和くんは分かっていたんだ……なんの根拠もなしに。すごい勘をしているなあ。ビックリだよ」
感心する他ない。佐々木ははあ、と溜息を吐いた。
「…………」
その様を川上はじっとみつめていた。まるで何かを観察するかのように。その視線に気付いて、佐々木は我に返った。
「え……なに? な、なんか僕の顔についているかな?」
言いながら、佐々木は顔に手を当てる。川上はかぶりを振った。
「何でもない。自分が得た情報は以上だ。結局、頼まれた研究の内容はまったく分からず仕舞になってしまった。謝罪する」
そう言って、川上は無表情のまま頭を下げる。
「そんな……充分だよ。それにわざわざ僕の頼みで危ない橋を渡る必要なんて、ないんだ。安全な範囲でって、頼んだときに言っただろう? 本当にありがとう、川上くん。感謝する。謝礼は弾むよ」
「いらない。金には特に不自由していない」
「でも、労働にはそれなりの報酬がないと。君にはもらう権利がある。そして、僕には報酬を払う義務がある」
「今回の件は他人事ではない、自分にも関わることだ。だから佐々木教授の頼みはただのきっかけに過ぎない。佐々木教授が気にする必要はない。それに……」
川上は目をそらして、言った。
「……自分は佐々木博士のことを尊敬している。NEXTの開発は素晴らしい。それを可能にする技術もだが、コストの低さ、用途の広さもすごいと思う。NEXTが完成し、実用化すれば、多くのヒトの命が救われることは間違いない。頑張って、NEXTの完成を目指してほしいと思ってる。そんな素晴らしい開発をしている佐々木博士からお金を受け取るなど、出来ない……だから、報酬はいらない」
相変わらず、無表情で淡々としているが、目をそらしたところを見る限り、照れているのだろう。川上が尊敬していると言ってきたのは、正直、佐々木にとって意外だった。
佐々木と川上は別に親しい間柄ではない。Dー計画が発動してから、知り合った中であるし、川上は寡黙な性格なので、特に親しくなるきっかけもなにもなかった。
そんな相手から、尊敬の言葉を聞くのは意外であり、くすぐったくもあった。
しかし、同時に単純に嬉しいとも思う。こういった応援の言葉は励みにもなる。
だから、佐々木はその感情をそのまま口にした。
「ありがとう、川上くん。僕はその言葉を聞きたくて、NEXTの研究をしているのかも知れない。だから、その言葉はすごく嬉しい」
「…………」
「だけど、お礼をしないと僕の気が済まない。川上くんがどう思うと、けっきょくは頼んだのは僕だからね。お金がイヤだったら、別のものにしようか。そうだな……飲みなんかどうだろう?」
「む。飲み?」
「うん。こう見えて、僕はけっこう酒好きでね。いい店はそれなりに知ってるつもりだよ。いくつか、ボトルキープしている店もあるし。川上くんもいける口だろう? 僕が選んだその店で、もてなす。もちろん、すべて僕持ちだ。これなら、いいだろう?」
「確かに酒は人並みに好きだ。しかし、報酬は――――」
「これが駄目ならエッチな店とかしか残ってないんだけど……そっちのほうがいいかい?」
「っ!」
普段、表情をまったく変えない川上の顔が、一瞬だが、驚愕の表情に歪んだ。顔も心なしか、紅い。……驚いた。ほんの冗談だったのだが、こんなに動揺するなんて。下ネタ系にはまるっきり弱いのかも知れない。無表情に戻った川上は――――しかし、顔は紅いままで、
「……飲みでいい。感謝する」
と、小さく呟き、カップに残っていたコーヒーを一気に煽った。佐々木はその挙動を可愛らしく思い、笑った。