5「違和感」
「さてさて、それでは僭越ながら、わたくし、川原奈々恵が乾杯の音頭をとらせていただきます! 本日の実験の成功を祝しまして――――乾杯!」
『乾杯!』
会議室の中で、皆の声が重なり合い、缶ジュースがかちん、とぶつかり合った。石和はそのまま、ジュースを喉の奥に流し込み、強烈な炭酸のはじける感覚に身をゆだねた。それと同時に実験の疲労をも吹き飛ばす衝動が胸を奥からせり上がってくる。口元が弛み、笑みの形になるのが押さえられない。
「や……やった! やったぞ! 我々はついに偉業を成し遂げた! 『鍵』の精製に成功したのだ! ははははははっ!」
戸木原が胸を大きく反らし、大声で叫ぶ。いつもの恥ずかしい戸木原の叫びだが、今回ばかりは自分も同じ事をやりたい気分だった。仕事中ということで、缶ジュースが代用品となったが、アルコールが入っていたら、自分も声を出してはしゃいでいたかもしれない。
それほどの嬉しさが身体中を駆けめぐっている。
やった。とうとうやった。実験は成功したのだ。
量子分解された実験体とα細胞は一つに融合した後も、拒絶反応は発生しなかった。α細胞はじわじわと浸食してゆき、β細胞はこちらの思惑通り、α細胞と上手く『適応』するために細胞が上手く変化し始めた。実験が終了し、二時間が経過しても、暴走は始まらない。α細胞とβ細胞の融合は順調に進んでいた。このまま何もトラブルが起きなければ、統一体である『鍵』が完成する。
半年間の苦労が身を結んだ瞬間だった。
「これでようやく、Dー計画の第一段階の研究に一区切りがつきそうね。おめでとう、石和くん」
言いながら、川原が缶ジュースを差し出してくる。石和は自分の持つ缶をかちん、とぶつけて、微笑んだ。
「まだ、α細胞が全身に行き渡った訳じゃないから、油断は許されない状況ではあるがな」
川原は苦笑いを浮かべ、片手で髪の毛をかきあげた。
「もう……石和くんは心配性ね。生体データを一通りチェックしたけど、不安になるような動きは一切なかったじゃないの。このままきっと、上手くいくわよ」
「だといいがな。なんにしろ、ここまで上手く言ったのは川原たちが『柔らかい細胞』というα細胞に『適応』する細胞を作り上げてくれたおかげだ。ありがとう川原。それに川上も」
「ふふふ、どういたしまして。もっと褒めてくれていいわよ」
「…………」
川原は胸を張って、そんな軽口を叩いたのに対して、川上は無言で頷いただけだった。相変わらずの態度であるが、いつもより嬉しそうな表情を浮かべているような気がした。
川上もこの第五研究所が設立された頃から、この研究に取り組んできたのだ。それなりに思うところはあるはずだ。石和は佐々木のほうに顔を向け、
「佐々木も。α細胞を遅延させるナノマシンなんて、ここにいるスタッフだけでは造れなかった。佐々木がいてくれて本当によかったと思う」
佐々木はあははと笑った。
「まさかこんなところで『NEXT』の研究が役立つとは思わなかったよ。世の中、どこで何が役立つかわからないものだね」
心なしか、声のテンションがいつもより高いような気がする。佐々木もそれだけ、今回の実験が成功したことが嬉しいのだろう。
「石和くんも! 的確で冷静な分析があったからこそ、やるべき課題を浮き彫りにすることが出来たんだよ。僕は石和くんの功績も大きいと思うなあ」
佐々木の褒め言葉に、石和は苦笑しながらかぶりを振った。
「いや、俺はみんなのようにα細胞の性質を変えるような発見や開発は何も出来なかった。俺の功績なんて、ほとんどないに等しいと思う。俺はせいぜいみんなの手伝いをした程度だ」
川原は口に手をあててく、すくすと笑った。
「謙遜も程々にしないと嫌みになるわよ。石和くんの知識と優れた洞察力にどれだけ助けられたか分からないわ。わたし達だけの力じゃここまで辿り着けなかった。そう思うわ。本当よ」
「そうだよ。それに瞬間物質転送装置を使った分解融合を思いついて、原案を出したのは石和くんだったじゃないか。瞬間物質転送装置を使うという発想が浮かばなければ、今回の実験の成功はあり得なかったんだから。川上くんもそうは思わないかい?」
佐々木の言葉に川上は頷いた。
「……川原博士と佐々木博士の言うとおり、だと思う」
「過大評価もいいところだと思うがな。まあ、今回の実験の成功はみんなが力を合わせた結果だということで。本当にみんな、ご苦労さん」
言いながら、缶ジュースを目線まで掲げて、笑った。すると、
「石和くんの言うとおりだ。この私、戸木原淳が率いる第五研究所のメンバーはこの三ツ葉社の中でも選りすぐりの最高の頭脳なのだよ。我々五人がいれば、必ずDー計画は現実のものとなるだろう! 第一段階の『鍵』の精製は完成したも同然だし、このまま第二段階の素体まで一気に造り上げてしまおうではないか!」
と、石和の背後から、戸木原が陶酔したような表情を浮かべながら、そんなことを言ってくる。川原がそれに笑顔を浮かべながら、便乗した。
「そうね。散々、研究が煮詰まってた分、その反動で一気に加速した感じだし、このまま第二段階の素体も一気に造り上げちゃいましょうよ!」
大きく両手を広げて、そんなことを言う。佐々木が苦笑いを浮かべて、首を傾げた
「あははは、そう行きたいところだけど、世の中そこまで甘くないんじゃないかな。特に第二段階の研究は第一段階の研究より難しいと言われているしね」
「だな。そう簡単に事は運ばないと思う」
石和は頷いて、佐々木に同意する。現在、αの絶対世界線は近接した位置に並び、それが平行に進んでいると思われる。第一段階で精製する『鍵』はα世界とβ世界の因子が均一に混じり合ったもので、この素体を軸として、近接するα絶対世界線をこちら側に引き寄せることが出来る特殊な生物だ。。
だが、それを行うには莫大なエネルギーが必要不可欠となる。いくら近接した世界とはいえ、世界そのものを動かすのだ。生半可なエネルギーでは世界を動かすことなど出来ないだろう。
『鍵』を莫大なエネルギーに耐えうる素体にすること。そのエネルギーを自在に操作する装置を開発すること。それが第二段階で成すべき事であるが、その実現は極めて困難なモノになると予測されている。川原は眉をしかめ、
「もう二人とも……実験の成功でせっかく盛り上がっているのに、水を差すようなこと言わないで頂戴。テンションが下がるじゃないの」
と、両手を腰に当てて、言う。
「川原くんの言うとおりだ。もっと前向きに考えたまえ。成せば成ると言うではないか」
相変わらず口先だけは立派な男である。そもそもこの男は第一段階の研究においても、何の功も成していない。よくもまあ、自信満々でそんなことをいえるものだ。
いつものように反論したい衝動におそわれたが、石和はそれを喉元でぐっ、と押さえた。川原の言うとおりだ。せっかくみんな盛り上がっていい気分になっているのだから、わざわざそれをぶちこわすような、空気の読めないことはしたくない。なによりも今日は自分もいい気分でいたいのだ。戸木原の言葉を黙殺して、缶を傾け、ジュースを飲んだ。すると、戸木原は自信満々の笑みを浮かべ、
「それに――安心したまえ。私の頭の中にすでに第二段階の構想は出来ている。これを実行すれば。第二段階の研究は完成したも同然だ」
――――そんな、意外な台詞を言った。
「っ! ……げほっ、げほっ!」
戸木原のその発言に石和は大きく目を見開いて、咳き込んだ。驚いた拍子に気管にジュースが入ってしまったようだ。川原や佐々木も大きく目を見開き、ぽかんとしている。
「え? そ、それは本当……なんですか、戸木原博士」
半信半疑といった表情で訊く、佐々木。戸木原はうなずきながら、にやり、と笑った。
「無論だとも! 君たちはただ私についてくればいいのだよ。そうすれば第二段階の研究は順調に進み、最終段階までたどり着くことができる! もはやDー計画には何の不安もないということだよ! ははははははっ!」
そう言って、高らかに笑う。石和は怪訝な面もちで、戸木原を睨め付けた。あからさまに胡散臭い。自制しようと思っていたが、我慢できない。石和は半眼で、戸木原に問うた。
「では、戸木原博士。詳細を是非とも教えていただきたいモノです。問題点はいくつかあります。どういったエネルギーを流用するのか。そのエネルギーをどこから持ってくるのか。そして、その莫大なエネルギーを『鍵』という生命体の中で活動させるのか。その問題点を戸木原博士はどうやって一挙に解決させるのでしょうか?」
自分でも意地の悪い言い方だと思うが、止まらない。第一、あおったのはあちらだ。自信満々に告げたからには、答えてもらわないと気が済まない。莫大な戸木原はふん、と鼻を鳴らし、人差し指をちっちっ、と左右に振った。いちいち動作が大げさな男である。
「どうも君らは第一段階で煮詰まったときのように、凝り固まった考え方が消えていないようだな。そこが君たちの限界なのかね? ふふふ、仕方がないな。では、逆に訊こう。『鍵』を動かすにはエネルギーが必要だ。そのエネルギーは何が一番適していると思うかね?」
「生体エネルギーでしょう」
石和は間髪入れず、答えた。『鍵』という素体が生物である以上、それが一番適切である。『鍵』は機械ではないのだ。それ以外のエネルギーだと、素体が適応しきれない可能性がある。
だが、問題はどうやってエネルギーを変換するかだ。Dー計画を行うには世界をも動かす莫大なエネルギーを生体エネルギーに変換して、『鍵』にそそぎ込む必要がある。万一、生体エネルギーに変換する方法が思いついたとしても。どうやって、『鍵』の素体を莫大なエネルギーに耐えうるものにすればいいのか?
問題は山積みである。これを一朝一夕に解決できるとは思えない。戸木原はふふん、と高圧的な笑みを浮かべた。
「分かっているではないか。ではもう一つ質問させてもらおう。川原くんと川上くんの開発した『柔らかい細胞』はどういった特性を持ったものだったかね?」
「どうって……それはα細胞の浸食に対して、飲み込まれないよう『適応』するためのものに決まって――――」
と、石和の言葉が途中で止まった。それでようやく戸木原の言わんとしている事が分かった。石和は右目に手を当てて、呻くように呟いた。
「そ……そうか。そういうことか。迂闊だった。どうして、こんな単純なことに気が付かなかったんだ!」
「え? え? どういうこと? どういうこと?」
「僕らにも分かるように説明してくれないかい? 訳がわからない」
川原と佐々木が石和と戸木原の顔を交互に見ながら、困惑した表情を浮かべている。戸木原は得意満面で答える。
「だから、『柔らかい細胞』の特徴は『適応』することなのだろう? その特色はなにもα細胞に限ったことではないだろう。だとすれば、話は簡単ではないか。『柔らかい細胞』を使って、『鍵』の素体を莫大なエネルギーに耐えられるような細胞に『適応』させればいいのだよ」
川原と佐々木は大きく目を見開いた。
「た、確かに! 他のエネルギーならともかく、生体エネルギーなら、『柔らかい細胞』は『適応』しようと働くかもしれない!」
「ある程度細胞をいじって強化する必要があると思うけど、確かにいけるかもしれないわね。理論的には充分、可能なはずよ」
こちら側の反応に満足したのか、戸木原は両腕を組んで、豪快な笑い声を上げた。
「ははは、そうだろう、そうだろう。だが、それだけではないぞ。先程、エネルギーを生体エネルギーに変換する必要があると、言っていたが、そんなモノは必要ない。
あの『水の水晶』だが、あれは莫大なエネルギーの結晶なのだろう? あれを上手く分析し、生体エネルギーを蓄積できる素体を『鍵』とは別に造ってやるのだ。つまり、生きたエネルギーの貯蔵庫だよ。そして、それを上手く『鍵』とつなぎ合わせることが出来れば――――」
――――『鍵』は稼働し、αの絶対世界線をこちらに引き寄せることが、出来る。つまり、Dー計画は成る。戸木原は自信満々な声で、皆にそう告げた。
『…………』
川上、川原、佐々木、石和が沈黙して、戸木原に目を向ける。信じられない、というのが、石和の正直な感想だった。また、見当違いなことを述べて、それだけで終わると践んでいたのにーー実際、口にした言葉は、これ以上ないくらい的確なアイディアだった。
戸木原の言ったことは、正しい。言うほど簡単なことではないにしろ、方向性は決して、間違っていない。この方向で煮詰めていけば、Dー計画は現実のものとして、稼働することになるのではないか。
「ん? どうしたのだ、皆。静まりかえって。私の提案があまりにも的確なので、ビックリしたのかね? 簡単な事だからこそ、気付きにくい。まあ、こういった盲点に気付くのも実力のうちということだよ」
高圧的な態度で、「はははは」と、笑い声を上げる。相変わらずの傲慢な態度に腹が立ったが、何も言い返せない。戸木原の言うことは間違っていない。
単純なこと程、見逃しやすい。それに気付かなかった自分が馬鹿だった。そして、それに気付いた戸木原が一枚上手だった。そういうことだ。統括主任の名は伊達ではなかったということだろうか。
「何というか……言葉がないわね。完敗だわ。見事です、戸木原博士」
「うん。僕もエネルギー変換という概念に概念に囚われて、その方法を思いつかなかったよ。科学者は自由な発想がもっとも重要というけど、僕らはまだ凝り固まった概念に囚われていたみたいだね」
川原と佐々木が素直に自分達の力不足を認め、戸木原博士を賞賛した。石和は何も口にしなかったが、胸中では己の敗北を認めていた。もし、この案を自力で出したのならば、戸木原に対する認識を改めなければならないかもしれない。
「うむ。君たちはまだまだ未熟な若輩者だ。だが、気に病むことはない。君たちには見込みがある。君たちは私が統括するチームの一員なのだから。努力を怠らなければ、きっと私に追いつける日がやってくる! せいぜい精進するがいいぞ、みんな。はっはっはっ!」
……もっとも性格の認識を改める必要はまったくなさそうだが。戸木原は右の人差し指をぴっ、と立てて、続けた。
「さて。諸君。ここでひとつ提案があるのだが、第二段階の研究、私に先行してやらせてもらえないかね?」
佐々木が眉を顰めた。
「え……何故です?」
「実は先日、川原くんから、『水の水晶』の欠片を一部頂いたのだが、それを私直属のA班のスタッフに見せたら、非常に興味を示していてね。先程の第二段階の構想を口にしたら、是非とも自分達の班を主軸にして、研究を進めてみたいと、懸命でね。完成の目処が立ってきたとはいえ、まだ、第一段階の作業が完全に終わったわけではないし、君たちも色々と作業で忙しいはずだ。どうだろう? A班のみが先行して、先に第二段階の研究を行うというのは」
「A班のみで、ですか?」
川原が言葉に戸木原が頷く。
「A班のスタッフだけなら、抜けても第一段階の作業にはさほど支障がないと思うのだが。君たちは第一段階の作業が終わり次第合流してくれればいい。その間に少しでも第二段階の研究を進めておきたいのだよ。そのほうが少しでも時間が短縮できて、効率がいいだろう?」
「そういうことでしたら」
「ええ、別にいいんじゃないかしら。特にトラブルもなく進めば、一班ぐらい抜けても、支障はないと思うし。ねえ、石和くん」
「…………」
「……石和くん?」
「あ? あ、ああ。別にいいと思うが」
川原は怪訝な表情を浮かべ、顔を覗き込んでくる。
「どうしたのかしら。石和くん、なんか変よ。酔ったの?」
「アルコールなんか微塵も入っていない只の炭酸飲料でどうやって酔うことができるのか、詳しく教えてもらいたいんだが。俺は特異体質の持ち主か?」
半眼で石和がそう言うと、川原がくすくす笑った。どうやら、またからかわれたらしい。
「ありがとう、諸君。感謝する! だとすれば、善は急げだな! A班の連中にさっそく教えてやらねば、ならん。急いでいかねば! これからA班の研究で、留守にすることが、多くなると思うが、君たちは第一段階の作業に専念しておいてくれたまえ。それでは失礼する!」
口早にまくし立てて、そう言うと、戸木原は缶ジュースを片手に握ったまま、会議室から抜けて、駆けていった。その様を見送りながら、佐々木は苦笑いを浮かべた。
「相変わらず、落ち着きのない人だなあ。別に話は明日でもいいのに」
「……なあ、佐々木」
「ん? なんだい」
「一つ聞きたいんだが……A班のスタッフって、どんなメンツだ?」
石和の質問に佐々木は首を捻って、答えた。
「う~ん、僕はあの班とはあまり面識がないから、詳しいことは知らないなあ。戸木原博士が直接指揮しているグループってことぐらいしか……どうかしたのかい?」
「いや、ちょっと、気になってな……」
目を細めて、曖昧な答えを返す。確かに一班ぐらい抜けても、作業には支障はないだろうがーー何故、そんな第二段階の研究を急ぐ必要があるのだろうか?
戸木原が異様に『冴えている』ことといい、どうにも不自然さを感じる。この違和感には覚えがある。以前、第二実験室で戸木原を見たときに感じた不可思議な空気。
あれに似ている。そんな気がした。
……どうにも、嫌な予感がする。
石和は額に手をあてて、大きくかぶりを振った。考えすぎだ。何の根拠もないのに、そんなことを考えるなんて、どうかしている。
「どうにも疲れているみたいだな……」
石和が小さく独りごちると、その様を眺めていた川原がきょとんとした顔で、首を傾げた。
「……やっぱり、酔っぱらっちゃったのかしら?」