『満月の夜にだけ実る、我が銀月樹(ムーンハーヴェスト)を奪えると思いまして?』~婚約破棄されて追放された悪役令嬢、実は国の食料を握る唯一の銀果樹使いでしたわ~
「悪役令嬢セレスティア。貴様の陰気な振る舞いは、王家の恥だ」
満座の夜会。銀のシャンデリアが揺れる大広間で、王太子ジェラルドの声が高々と響いた。
「わたしはこの愛らしいマリエルと婚約し直す。貴様は——領地ごと追放だ」
ざわめきが、波のように広がる。
扇で口元を隠した貴婦人たちの、好奇と嘲笑の視線が刺さる。
わたくし——セレスティア・レイフェルトは、ただ静かに立っていた。
喚くこともなく。
涙を流すこともなく。
(そうですか)
胸の内で、わたくしは淡々と呟く。
(木は正直ですのに)
わたくしには、前世の記憶がある。日本の農業試験場で、白衣を着て土と向き合っていた研究員の記憶が。
だからわたくしは知っている。
この北方の小国レイフェルトが飢饉を凌げるのは、たった一本の木のおかげだと。
満月の夜にだけ、銀色の果実を実らせる神木——銀月樹。
その果実「銀果」は、この国唯一の保存食。冬を越すための、非常用備蓄のすべて。
そしてその木を育てられるのは、この世界でわたくし、ただ一人だということも。
「まあ、聞きまして? あの陰気な女、庭いじりばかりしていたそうよ」
ジェラルドの隣で、聖女マリエルが甘い声で笑った。
「果実なんて誰でも採れるわ。あの女がいなくても、月夜に採ればいいだけですもの」
——誰でも、採れる。
わたくしは、そっと目を伏せた。
荒れた指先が、ドレスの下でひとつの果実を握りしめている。誰にも気づかれぬよう持ち出した、小さな銀色の果実を。
(採ることと、実らせること。その違いを、あなた方はご存じないのですわね)
「セレスティア! 聞いているのか!」
ジェラルドが苛立たしげに声を張り上げる。
わたくしは、顔を上げた。
アイスグレーの瞳で、静かに彼を見つめる。
そして——ただ、一礼した。
「かしこまりました。では、失礼いたしますわ」
それだけ言って、踵を返す。
背中に浴びせられる嘲笑を、わたくしは風のように受け流した。
木は正直だ。
愛情を注いだ土地でしか、実らない。
その意味を、この国が思い知る日まで——あと、ひと月。
◇
追放の朝は、驚くほど静かだった。
見送る者などいない公爵邸の門前で、ただ一人、若い侍女が旅装を整えて立っていた。
「リゼル。あなたは残ってもよいのですよ」
わたくしがそう告げると、彼女は迷いなく首を振った。
「何をおっしゃいます。お嬢様の育てた銀果を、辛気くさいなどと言った連中が、これからどんな顔で頭を下げるか——ええ、しっかり見届けさせていただきますとも」
忠義の裏に、静かな怒りを秘めた瞳。
わたくしは、ふっと口元を緩めた。
「そう。では、参りましょうか」
馬車が向かうのは、北の辺境——竜人が守護する荒れ地、ウルズ渓谷。
誰もが「あんな死の土地に送られては終わりだ」と囁いた場所。
だが、わたくしの膝の上には、布に包まれた小さな枝があった。
接ぎ木用の穂木。
あの夜会で握りしめていた果実の、その元となる母樹の一枝。
「お嬢様。王都の木は、どうなるのでしょう」
リゼルの問いに、わたくしは窓の外を眺めながら答えた。
「銀月樹はね、リゼル。育て手が愛情を注いだ土地でしか、実らないのです」
「では……」
「ええ。育て手を失った木は、やがて結実酵素を分泌しなくなる」
わたくしは、膝の上の穂木を、そっと撫でた。
「次の満月に、王都の母樹は——一粒も、実らないでしょう」
リゼルが、息を呑む。
「では、わたくしの木も、わたくしと共に参りますわ」
木は嘘をつかない。土は正直だ。
愛情を注げば応え、切り捨てれば枯れる。それだけのこと。
(さあ、証明いたしましょう。失われて初めて分かる価値というものを)
馬車は北へ、北へと進む。
死の渓谷と呼ばれる場所へ——けれどわたくしの目には、それは新しい畑にしか見えなかった。
◇
ウルズ渓谷は、想像以上に荒れていた。
痩せた土。枯れた木々。飢えた気配が、風に乗って漂ってくる。
そして——その渓谷の主が、わたくしたちの前に立ちはだかった。
「人間が、何をしに来た」
低く、地を這うような声。
身の丈は人の倍近く。鱗に覆われた腕。背には一対の翼。金色の竜眼が、鋭くわたくしを射抜く。
竜人将軍、ガルド・ウルズヴェイン。
リゼルが小さく身を震わせた。
だが、わたくしは動じなかった。
「畑を、お借りしたいのですわ」
「……何?」
「この荒れ地を耕させていただきたいのです。その代わり——」
わたくしは布包みを解き、小さな銀色の果実を差し出した。
「これを、どうぞ」
ガルドの竜眼が、果実を見つめる。
警戒。それから、飢えたような、抑えきれない何か。
彼はゆっくりと手を伸ばし、大きな指で果実をつまむと——一口、齧った。
瞬間。
強面の将軍の、金色の瞳が、みるみる潤んでいく。
「……甘い」
震える声。
「こんなに……甘いのか」
背の翼が、バサ、バサと落ち着きなく揺れた。
わたくしは、思わず目を瞬かせた。
(あら。……可愛らしい方ですこと)
「里の者は、皆飢えている」
ガルドは俯いたまま、絞り出すように言った。
「守れなかった。将軍でありながら……何も」
「ガルド様」
わたくしは、静かに告げた。
「この渓谷、銀月樹の育つ好条件が揃っておりますわ。月光を遮る高い山、澄んだ夜気、酸性に傾いた土壌——満月の夜に、銀の果実を実らせるには、うってつけです」
ガルドが、顔を上げる。
「本当か」
「木は正直ですもの」
わたくしは微笑んだ。
「わたくしが嘘をつく理由も、ございませんわ」
涙もろい甘党の将軍は、しばし呆然とわたくしを見つめ——それから、慌てたように翼を畳んで、ぶっきらぼうに言った。
「……好きに、耕せ。里は、協力する」
そっぽを向いた頬が、ほんのり赤い。
リゼルが、こっそりわたくしに耳打ちした。
「お嬢様。あの将軍様、思ったより……」
「ええ」
わたくしも、小声で返す。
「思ったより、ずいぶんと可愛らしい方のようですわね」
◇
その頃、王都。
最初の満月の夜を、レイフェルト王国は震えながら迎えていた。
「どういうことだ! なぜ実らない!」
王城の温室で、ジェラルドが銀月樹の母樹を睨みつけていた。
満月の光が、銀色の葉を照らしている。
だが——枝には、ひとつの果実も実っていなかった。
「木は勝手に実るものだろう! 例年通りに月が出ているではないか!」
傍らでは、聖女マリエルが必死に木に手をかざしていた。
「聖女の力よ、実れ……実りなさい!」
淡い光が、彼女の手から溢れる。
すると——確かに、枝の先に小さな果実が結んだ。
「実った! ほら、実ったわ! やっぱりわたしにもできるじゃない!」
マリエルが勝ち誇って笑う。
だが。
満月の光を浴びたその果実は——じわりと輪郭を溶かし、銀色の雫となって、地に滴り落ちていった。
「……え?」
また一つ、また一つ。
結んだそばから、果実は月光に溶けて消えていく。
偽果。
育て手の愛情という要を欠いた、まやかしの果実。
「なんで……なんで実らないの!」
マリエルが金切り声を上げた。
「わたしは聖女なのよ! なんで! なんでなの!」
ジェラルドの顔から、血の気が引いていく。
国庫の帳簿を思い出す。
非常用食料備蓄——銀果。冬を越すための、唯一の保存食。
そのすべてが、あの一本の母樹から供給されていた。
あの、「陰気な庭いじり」の女が育てた木から。
「まさか……」
震える声で、ジェラルドは呟いた。
「あの女が、いなければ……木は……」
報告が次々と届く。
国中の銀果備蓄が底をつきかけていること。冬の飢饉が、目前に迫っていること。
「木は勝手に実る」——そう信じて疑わなかった王太子は、今、玉座の間で崩れ落ちるように膝をついた。
失って、初めて。
自分が何を切り捨てたのかを、思い知りながら。
一方その頃、遥か北の渓谷では。
荒れ地だったはずの土に、銀色の若木が芽吹き始めていた。
◇
ウルズ渓谷に、満月が昇る。
そして——荒れ地だった斜面に、一面の銀色が広がっていた。
月光を浴びて、無数の果実が淡く輝いている。銀月樹の果樹園。竜人の里を潤す、命の実り。
「セレスティア様! 里の者が、腹いっぱい食べられるなど、何年ぶりか……!」
竜人たちが涙ながらに集まってくる。
子どもたちが銀果を頬張り、笑い声が渓谷に響く。
ガルドは、その光景を眺めながら、隣に立つわたくしを見た。
そこへ——リゼルが駆けてきた。
「お嬢様! 王都から、使者が」
渓谷の入り口。守護結界の光る壁の向こうに、王家の使者が立っていた。
「セレスティア様! どうか、どうか王都へお戻りを! 国が、国が飢えて——」
わたくしは、静かに歩み出た。
結界越しに、使者と向き合う。
「まあ。木は勝手に実るのでは、ありませんでしたの?」
「そ、それは……」
「マリエル様が、月夜に採ればよいと仰っていましたわ。どうぞ、そうなさってください」
使者が、青ざめて言葉を失う。
そのとき、ガルドが一歩前に出た。
金色の竜眼が、冷たく使者を見下ろす。
「この渓谷は、我が守護結界の中だ。セレスティアは、里の恩人。指一本触れさせん」
低い声に、大地が震える。
わたくしは、そっと微笑んだ。
「お聞きの通りですわ。それに——たとえわたくしを連れ戻したところで、無駄ですのよ」
「な、なぜ……」
「銀月樹は、育て手が愛情を注いだ土地でしか実らない。王都の土は、もうわたくしの土ではありませんもの」
わたくしは、荒れた指先で、銀色の果実にそっと触れた。
「我が銀月樹を——育て手ごと奪えると、思いまして?」
静かな声。
だが、それは法でも、剣でもない、覆せぬ裁定だった。
木は実らない。
ただ、それだけの、揺るがぬ摂理。
使者は、崩れるように膝をつき、やがて力なく去っていった。
断罪の刃を、わたくしは一度も振るわなかった。
ただ、自然が——木が、正直に応えただけ。
愛情を注いだ者に実り、切り捨てた者から去る。
それだけのことだった。
◇
使者が去った後の渓谷は、穏やかだった。
銀色の果樹園を、満月がやさしく照らしている。
わたくしが一本一本、木の様子を見て回っていると——背後で、翼のはためく音がした。
「セレスティア」
ガルドだった。
強面の将軍が、なぜか落ち着きなく、翼をバサバサと動かしている。
「……あの、だな」
「はい?」
「その……」
言葉に詰まる。
金色の瞳が、あちこちを彷徨う。甘い物に目がなく、涙もろく、感情表現が壊滅的に下手な竜人将軍。
わたくしは、静かに続きを待った。
やがて彼は、意を決したように、まっすぐわたくしを見た。
「ここに……いてくれ」
低く、けれど震える声。
「里は、お前がいなければ、また飢える。……いや、違う。それだけじゃ、ない」
ガルドの頬が、月光の下でも分かるほど赤く染まる。
「俺が……お前に、いてほしいんだ。ここに」
バサ、バサ、と翼が忙しなく揺れた。
わたくしは——ふっと、目元を緩めた。
宮廷で「陰気だ」「辛気くさい」と侮られ続けたわたくし。
誰にも必要とされず、切り捨てられたわたくし。
そのわたくしに、この不器用な将軍は、まっすぐ「いてほしい」と言う。
「ガルド様」
わたくしは、荒れた指先で、そっと銀の果実をひとつ摘み取った。
そして、彼に差し出す。
「わたくしの木は、愛情を注いだ土地でしか実りませんの」
「……ああ」
「この渓谷には——もう、たくさん実っておりますわ」
ガルドが、はっと息を呑む。
その意味を悟った将軍の瞳から、また、ほろりと涙がこぼれた。
「泣かないでくださいまし。甘い物なら、これからいくらでも実らせて差し上げますから」
「……甘い」
果実を齧ったガルドが、涙声で呟く。
「本当に……甘いな、これは」
リゼルが少し離れた場所で、そっと目頭を押さえていた。
荒れ地だった渓谷に、銀色の果樹園が広がる。
わたくしは、ようやく——本当の居場所を見つけた。
そして数日後。
王都から、三度目の使者が渓谷を訪れた。
わたくしは、月光の下でそれを聞き、静かに答えた。
「——お断りいたしますわ」
次の満月も、その次の満月も。
わたくしの木は、この愛しい土地でだけ、銀色に実り続けるのだから。




