樹海
もうどれくらい歩いただろう。
由利は、深く息をついた。胸いっぱいに呼吸をすれば、むせかえるような緑の匂いが鼻を付く。
足元を覆う丈長い草。
周囲には、黒々とした木々の群生。
由利の白いブラウスは、シャワーでも浴びたかのようにぐっしょり濡れていた。
それが汗の為だけではないことは、一面に漂う濃い霧からも明らかだ。
まるで樹海のような、深い緑。
首筋に張り付く髪を気だるげに掻き上げて、頭を振る。
「…は」
思わずため息が漏れた。
もうどれだけ歩いているだろう。
手近な木の幹に手を預け、空を仰ぎ見る。
視界には白い色彩。そのベールの向こうにうっすらと緑陰が見える。
空は見えない。
足もそろそろ棒になってきた。
視線を落として足元をみれば、泥まみれ、草まみれのパンプスを見出す。
お気に入りの、赤いパンプス。
そんな派手な色、と脳裏で声が蘇る。そういって笑ったのは、同い年の恋人、健治だ。
でも気に入ったのよ。ほら、このバッグと一緒なら全然おかしくないわ。
譲らなかった由利に、健治はそのパンプスをレジに持っていった。
プレゼントな。
そう言って。
まるで昨日のことのように思いだされる記憶に、由利は緩く首を振った。
考えても仕方ないことだと分かっていた。
これはくだらない感傷だと。
だって、健治はもう由利の「恋人」ではない。
とにかくここを抜けなきゃ、と由利は再び両足に力を込める。
ふと、その視界に赤い色彩が見えた。
不思議に思って目を凝らすと、霧の向こうに赤いものが揺れている。
ゆらゆらと、近づいてくる赤い影。
揺れる、赤。
「あれ、どうしたの?」
霧の向こうから、幼い声がした。
「お姉さん、迷子?」
現れたのは、赤いレインコートを着た、小学生くらいの少年。
問いかけられた言葉に由利は口ごもる。
「えっと…」
「僕も迷子なの。出口が分からなくて、ずっと歩いてるの」
由利の言葉を遮って、勢い込んで少年が言う。由利を見上げたあどけない顔には、なるほど散々迷ったのだろう、泥や草の葉がこびりついていた。
きっと今の自分も同じような状態に違いない。
そう思うと、胸の奥に同情がわいてきた。
「お姉さんもよ。一緒に出口を探しましょ」
自然に言葉が口をつく。手を伸べて、少年の顔を拭ってやる。
「ありがと」
ほっとして笑う少年に、知らず笑みが零れた。
ああ、わたしはまだ笑える。
彼の小さな手を握り、並んで歩く。
「ぼく、お名前は?」
「ケンジ」
ぽん、と放られた答えに、心臓が跳ねた。
自分でも愚かな反応だと思った。ケンジなんてよくある名前。たまたま一緒だったくらいで、いちいち反応してしまうなんて。
「…ケンジくんは、おうちはどこなの?」
ぎこちない問いかけを不思議に思う様子もなく、彼は小さく首を傾げて考える仕草をした。
「えっとね…遠いとこなんだ。ずっとずっと先。遠いとこから来たの」
「そう…じゃあ住んでいたおうちの、住所はわかるかな?」
ケンジはふるふると首を振る。
ここを抜けたら真っ先に車を探さねばと由利は考える。きっとここは辺鄙な場所だろう。まず街に出て、それから交番にでも寄って、この子の家族に連絡を。
「お姉さんはどこに住んでるの?」
頭を巡らせていると、ケンジが聞いてきた。
「私は…」
家なんて、ない。
健治と…元恋人と暮らしてきたアパートは、とうの昔に引き払った。
入った時は二人。けれど、引き払った時は由利ひとり。
別れ話の後、健治は一度も戻ることはなかった。
だから由利は一人で荷物を纏めて、アパートを解約した。健治の荷物は彼に貰った新しい住所に送った。今はそこでひとりで暮らしていると、そう聞いた。
「私も…遠いとこに住んでるの。ここよりずっと遠いとこ」
おそろいだね、とケンジが笑う。
そうだね、と笑った。
繋いだ手のひらが冷たい。それを雨のせいにして、由利は歩く。
健治とは婚約までしていた。
ずっと一緒に、このまま幸せになれるのだと信じていた。
けれどある日突然、健治は婚約を解消すると言ってきた。
訳が分からなかった。自分は何か重大な過ちを冒したのだろうか?
なかなかはっきりとした理由を言おうとしない健治を問い詰めて、やっと聞きだした。
「他に、好きな人が出来た」
目の前が真っ暗になった。
信じたくなかった。これは悪い夢なのだと、健治は冗談を言っているのだと思いこもうとした。
胸の中に渦巻いた感情をもてあまして、結局何も言えなかった。
去っていく後姿をただ呆然と眺めて、由利の恋は終わった。
いや「恋」などではない。由利にとっては「世界」そのものだった。
それから、2、3度会った。
アパートは出る、荷物はここの住所に送ってくれ、鍵と指輪はここに。
事務的なやりとりのあと、去り際に彼が言った。
「ごめんな」
じわりと視界が滲んだ。
今までの時間は、たった一言で終わってしまった。
自分たちの関係は、もうその一言分の価値しかない。由利にとっては終われない恋。けれど彼にとっては既に過去の恋だった。
「お姉さん?泣いてるの?」
は、と視線を向けると心配顔のケンジと目が合う。
「違うわよ。雨よ」
頬に手を当てて、自分が泣いていたことに気付いた。慌てて誤魔化す。
「悲しいことがあったの?」
ケンジが慰める口調になった。こんな子供に気を遣わせるなんて、情けない。
そう思っても涙は止まらない。
ふと、どうでもいいような気になった。
ここは見知らぬ場所で、手をつないだ相手は知らない子供。
「…うん。お姉さんね、大好きなひとに振られちゃったぁ」
ぽろりと零すと、少し胸が軽くなった。
「約束、してたんだぁ。ずっと一緒だねって。でも…彼は別のひとを好きになっちゃった」
ぽろぽろと涙があふれて止まらない。自分でも可笑しいくらい泣いている。
「その人のこと好きなの?振られたのに?」
ケンジが首をかしげて聞いてきた。
子供らしい、真っ直ぐで残酷な問いかけ。
そうだ、と由利は思う。振られて傷ついて、それでもどうしようもなく好きだと思う自分がいる。
思いを貫けないことも、諦めるしかないことも分かっているのに。
傷つくのがわかっていても、好きなのだ。
「…そうだね。多分、すき」
曖昧に笑った。
「…ふうん?」
理解しかねる様子でケンジは首を傾げる。
「お姉さんは、優しいんだね」
「え?」
「自分に嫌なことしたひとなのに、好きなんでしょ?僕にはできないなあ…」
ケンジはふと由利から視線を外した。
どこか霧の奥を透かし見るような様子で、呟く。
「僕には出来なかったよ。許すことも好きでいることも…」
子供にしては大人びた口調。その大きな瞳に宿った暗い輝きに、由利はどきりとする。
「でもね、お姉さんは好きだよ。嫌なことなんて絶対しないよ」
けれど、ぱっと由利を仰いだその表情は、子供らしいあどけないもので。
先ほどの表情は光の具合のせいかと結論付けて、由利は微笑む。
「ありがと」
「だから、手はなしちゃ嫌だよ」
ケンジの声が心細い響きを帯びる。
「はなさないよ」
「ほんとに?約束だよ、手を放さないで」
ケンジは念を押すように繰り返す。
不安げに揺れる眼差し。
見捨てられることを恐怖する、子供。
「…約束するよ」
手を強く握って言った。
それから他愛もない話をしながら歩いた。
どのくらいの距離を歩いているのか、どのくらいの時間が経っているのか、さっぱりわからなくなっていたが、気にならなかった。
不安はあった。けれど、それすらもどうでもいいような気になっていた。
誰かと一緒に歩く。それがひどく楽しく、安らいだ。
「あ。あっち明るいよ、お姉さん!」
ケンジが明るい声を上げた。
その声に目を向けると、遠くの方に明るい光が見えた。その様子から人工のそれだと分かる。とすれば、街灯か…ともかく自分以外の誰かが拵えた明かりだ。
胸の中に湧き上がる安堵に、心細かったことに改めて気付いた。
「ほんとね、そろそろ抜けるのかしら?」
「よかったね、これで安心だね」
ケンジが嬉しそうに言った。
それに笑顔で答えて、繋いだ手をきゅっと握った。
これで安心だと思った。
ケンジも由利も、安全な場所に帰ることができる。
ケンジの手を引っ張るような勢いで、由利は足を動かす。ケンジもそれに不服を唱えることなくついてきた。恐らく、はやる気持ちは由利と同じなのだろう。
これで助かる。
もう一人ではないし、辛くない。
『楽になれる』
忙しく歩きながら、胸に落ちた呟きに、ふと首を傾げた。
楽に?
確かに今は苦しい。
住むところを失くして、恋人も失った。自分の心が帰る場所なんて、どこにもない。逃げ場がない今の状況は、苦しくて仕方がない。
『私は、逃げたかったの』
そうだ逃げたかった。
何も考えたくなかった。健治のことも自分のことも。
この先の未来なんて、想像もしたくなかった。
彼の隣を歩くのは、自分ではない別の誰か。
自分はこんなにも彼を愛している。それなのに、彼の隣にはいられない。
灼けるようなこの想いを抱えて、遠くから眺めていることしかできない。
悲しみ。怒り。嫉妬。
どす黒い感情が体の奥から湧き上がって、自分が自分でなくなるようで。
そんな自分が恐ろしくて、気が触れてしまいそうだった。
『だから逃げた…ここに』
ぎしり、と体が軋んだ。
「…っ?」
急に足の重みを感じた。あまりの重みに、足が止まる。
「…お姉さん?」
不思議そうにケンジが尋ねてきた。それに首を振って応えた。
「…大丈夫、なんでもない…ちょっと疲れたみたい」
そう取り繕うが、疲労などでないことは由利自身がよくわかっている。
どうしたというのだろう。
先ほどまであれほど軽かったのに。
『でも彼はいない』
心臓が跳ねる。
息苦しくて、胸を押さえた。
「そんなの、当たり前じゃない…」
こんな鬱蒼とした所に、健治がいるはずはない。彼はあの新しい住所にいる。2LDKのマンション。
表札に二人分の名前があった。
見たことのない、名前。
『私はひとり』
彼と別れて、由利はひとりになった。ひとりで生きていくしか、なくなった。
けれど、彼はそうではなかったらしい。
「健治は…あの子と一緒」
好きな人ができたと言っていた。
その子との人生を、彼は選んだのだ。
鳴らした玄関のチャイム。
出てきたのは長い髪の可愛らしい女性。幸せそうな笑顔が眩しくて、痛くて。
彼女の肩越しによく見慣れた後姿が見えた。
『たったひとりで、逃げた』
「ひとり…」
「僕もいるよ」
呆然と呟いた声に、子供の声が重なる。
「ひとりじゃないよ、僕もいる。ずっと一緒にいるよ」
繋いだ手をぎゅうと握り、ケンジが力強く言う。
「大丈夫だよ。だから、行こう?」
手を引かれて、ケンジが指す先には人工の明かり。
そうだ。
行かなければ。
行けばきっと、この胸の苦しさもなくなる。
「苦しさも辛さも、なくなるよ。誰もお姉さんを苦しめないし、傷つけない」
胸の苦しさが少し楽になった気がした。
目の前の明かりがひどく暖かく、輝いて見える。
「もう苦しまなくていいんだよ。彼も恋人もいないから」
心臓が、大きく脈打った。
彼も恋人もいない。
その言葉が引っかかる。果たして自分が望んでいるのは、そんな現実だろうか。
否、それよりも、これは現実なのか。
疑念がむくりと湧き上がる。
そうと考えると急に何もかもが色褪せて感じられた。
周囲の霧。緑陰。樹海のような、深い緑。
『私はいつからここにいる?』
自問しても答えはすぐにでてこない。ここに至るまでの記憶がない。
「お姉さん?」
不安げに、ケンジが声をかける。
咄嗟に視線を落として、胸に落ちた響きにぞくりとした。
『この子は何?』
あどけない表情は子供のそれだ。
外見上は何も不自然な所はない。
けれど、訳もなく由利は不安になる。
「どうしたの?早く行こう?」
「…だめ。私、行けない」
首を振った。なぜだか、この先に行ってはいけない気がした。先ほどまであれほど温かく見えていた光が、今は冷たく感じられた。
「どうして?」
ケンジが大きく目を瞠る。信じられない、というように。
「…帰らなきゃ」
「帰るってどこに?」
「…健治のところ」
自分でも何故そんな言葉がでたのかわからなかった。
これ以上先に進んではいけない。その思いに突き動かされ、気付けばそう答えていた。
「どうして?お姉さんはもうイラナイって言われたんだよ?なのに帰るの?」
ケンジの言葉が胸に刺さる。
彼が「帰る場所」ではないことは、わかっている。由利は思い出の存在。二度と恋人には戻れない。
それでも。
「それでも、帰りたいの…ごめんね」
ケンジの顔がくしゃりと歪んだ。
「イヤだよ。僕と一緒にいて」
ケンジが涙すら溜めて懇願する。必死の形相で、放すまいと手を握り締める。
「一緒にいて。一人になんてしないから。僕と一緒なら安全だよ、苦しいことも辛いこともない」
苦しみも悲しみも忘れて、一緒に。
「約束したよ、ずっと一緒って。手を離さないって!」
ケンジの言葉に、記憶が重なった。部屋を去る、見慣れた後ろ姿。
その必死の叫びは、由利自身の叫びだった。
ずっと一緒だと婚約までしていたのに、どうして。
去っていく後姿にぶつけたかった、醜い言葉。
物分りのいいフリをして、口に出せなかった言葉だった。
「…ごめんね。でも…それでも…彼がいないと寂しいの」
彼がいない世界は、きっと楽だろう。自分の傷も悲しみも見つめなくて済む。
けれど、きっと寂しい。
好きだと想う気持ちも、憎いと想う気持ちも、まだ残っているから。
そんな感情がなくなってしまう世界は、きっと味気ない。
「彼のこと、やっぱり好きなの」
好きだから、同じ世界で生きて行きたい。辛くても、苦しくても。相手の存在を世界のどこかで感じていたい。
「ダメだよ」
不意に、ケンジの声が暗い響きを帯びた。
「お姉さんは、約束したんだよ。僕の手を離さないって」
一転して穏やかな口調。繋いだ手を、きつく握られる。
「だから行こう」
ケンジが由利を仰いだ。
息を呑む。
ケンジは笑っていた。
先ほどまでの泣き顔が嘘のように、笑っている。不自然なまでに楽しげに。
その笑みに寒いものを覚え、無意識に由利は後退さる。
ケンジは手を離さない。
しっかりと由利の手を掴んだまま、笑う。
「僕と一緒にいてくれるんでしょう…?」
虚ろな瞳。古井戸の奥のような、深淵の闇。
肌が粟立った。
「っ、いや!」
咄嗟に、由利は振り払う。
ケンジは数歩ふらついて、振り払われた己の手に視線を落とした。
「…そっか…」
頼りなく呟く声に、由利ははたと我に返った。
得体の知れない恐怖はあったが、罪悪感が湧いてくる。
「あ…」
何かを言おうとして、ケンジの表情に声を失う。
手のひらを見詰めるケンジの表情は、すべての感情が剥がれ落ちていた。
能面のようにつるりとした顔。作り物めいたその姿。
「残念、ゲームオーバーか」
幼い唇をニッと歪めて、哂った。
赤いレインコートが、風もないのに揺れる。
周囲の木々が、急にけたたましく騒ぎ始めた。
人の囁きのような、葉擦れの音。木立の間を抜ける強い風の叫び声。
「…っ!?」
不意に足元がぐらついた。
見下ろす先には、いつの間にあったのか、漆黒の闇が口を開けている。
「あと少しだったんだけどなぁ…」
残念そうな、ケンジの呟きを耳にしたのが最後。
「あの、大丈夫ですか?」
戸惑いがちにかけられた声に、由利は体を強張らせた。
目を開けると、コンクリートの床が目に入る。足元の赤いパンプスは綺麗な光沢を放っていた。
一瞬、自分が何をしていたのかわからなくなる。
ここはどこで、自分は何をしていたのだろう。
「すみません、あの…」
一向に反応しないこちらを不審に思うらしい相手が、再び声をかけてくる。
「…大丈夫です。ちょっと、めまいがして」
慌てて言い繕って、顔を上げた。
そこには長い髪の女性がいる。
年齢は由利と同じ位だろうか。可愛らしい印象の、見覚えのある女性。
そしてその肩越しに見知った姿が見えた。
健治。
その瞬間、由利の脳裏に今までの記憶が蘇った。
由利は、健治に貰った新しい住所を訪ねたのだ。
由利の住んでいたところから遠く離れたそこを、紙切れ一枚で訪れるのはなかなかに骨が折れた。
会ってどうしようという確固たる目的があった訳ではない。
ただ逢いたかった。
逢って、話がしたかった。
それが無理なら、彼の元気な姿を遠くから眺められたら、それでいいと思っていた。
けれど、そこに二人分の名前を見つけたとき。
由利の中で何かが首を擡げた。
全く考えていなかったと言えば嘘になる。
健治は「好きな人ができた」と別れを切り出した。
もしかしたら、という思いが多少なりともあった。
でなければどうして、由利の鞄の中にナイフが忍ばせてあったろう?
どこかでそうであって欲しくないと、願っていた。彼はまだ一人でいるのだと。一人の孤独を抱えているのは自分だけではないのだと、そう思いたかった。
けれどそれは、ただの自分の願望で。
現実は残酷に目の前に突きつけられている。
そうと感じた時、由利は玄関のチャイムを押していた。
逃げたかった。
この現実から目を逸らして、甘い夢に浸りたかった。悲劇のヒロインとして、醒めない眠りに付きたかった。
鞄に忍ばせたナイフ。
近くの量販店で買ったばかりのそれを、出てきた瞬間に使おうと、決めていた。
憎悪も恐怖もなかった。まるで夢のようなぼんやりとした感覚の中で、ただ殺意だけを抱いていた。
そう、ついさっきまでは。
「あの、どちら様ですか?」
目の前の女性は、不審に思いながらも首を傾げて問いかけてくる。
この女性が、健治の想い人。
まさか自分が前にしている相手が、殺意を持って訪れたとは思うまい。
「サチ?どうした?」
玄関での会話を不審に思ったのだろう。奥の方から声がした。
懐かしい声に、涙が出そうになる。
「すみません、部屋を間違えたみたいです」
慌てて、由利は頭を下げた。
「えっ…」
「ほんとごめんなさい、あの…さよなら」
一瞬だけ部屋の奥をちらりと見て、由利はすぐさま取って返した。
きっと、健治には見えなかっただろう。
それでいい。
さよならを言えただけで、いい。
見上げると、高い空が見えた。
青く青く、どこまでも澄んだ空。
脳裏に濃霧に覆われた森の中が浮かぶ。
あれはきっと、由利の脳がみせた白昼夢だっだのだろう。
まざまざと思い浮かぶ、赤いレインコート。彼もまた由利の想像の産物。
けれど、と由利は思う。
もしあのまま彼の手をとってあの明かりの所まで行っていたら、どうなっていたのだろう。
ずっと一緒だと繰り返していた少年。楽になれる、と感じていた。
あの場所で我に返らなかったら。
自分は、なにをしていた?
ぞくりと、肌が粟立った。
鞄に忍ばせたナイフが、急に重みを増したような気がした。
「…ただの想像よ」
ナイフを取り出して、呟く。手近なごみ箱に向かって放り捨てる。
ナイフは金属質な音をたてて、ゴミ袋の奥に落ちていった。
赤いレインコートが翻る。
風もない、鬱蒼とした森の中。
あどけない表情で、子供が笑う。
「お姉さん、迷子?」