第四話 蜂蜜入りホットミルク
「うぅ、22時過ぎてる……」
灯里は小さな声で呻いた。
灯里が定時退社する直前に、成木ーー灯里にミスを被せた社員ーーが「明日までの仕事を忘れていた」と言い出して、必死に頑張ってなんとか終わらせたところだ。
「お疲れさまでした!お先に失礼します!」
灯里は成木に形ばかりの挨拶をして、会社を出た。
(最悪だけど、明日が休みでよかった……)
一刻も早く家に帰りたくて、早足で駅に向かう。
駅の改札が見えてきたところで、背後から「神見さん!ちょ、足速っ」と声が聞こえて振り向く。
「成木さん……?」
成木の家は反対方向なのに。
なんだか嫌な雰囲気を感じ取った灯里は、肩にかけているトートバッグの持ち手を強く握る。
「神見さん、最近きれいになったよね」
「は……?」
「俺が入社した頃は冴えない感じだったのに。今の神見さんなら、付き合ってあげてもいいよ?」
成木はニヤケ顔を浮かべて灯里に近づいて来る。
「絶対イヤ!」
灯里は弾けるように改札に向かって走り出した。スニーカーを履いていて、本当に良かった。
背後から成木が叫ぶ。
「俺にそんな口聞いていいのか!?大伯父さん…社長に言いつけたら、会社にいられなくなるぞ!」
「!」
運良く最寄駅に行く電車が来て、飛び乗ることができた。
幸い成木が来る前にドアは閉まったものの、電車が動き出しても灯里の震えは止まらない。
(怖い……もうあの会社辞めたい……でも働かなきゃ生きていけないし、ソレイユ・ヴェールにも行けなくなる……)
灯里が思いつめているうちに最寄駅に到着した。
ふらふらと改札を出た灯里の脳裏に、ある可能性が浮かぶ。
(このまま家に帰って大丈夫……?家の住所、成木が知っててもおかしくない)
しかし、この辺りは田舎なので、徒歩圏内にビジネスホテルなどない。
電車に乗ってビジネスホテルがある大きな駅に行くべきかーーしかし成木が追いかけて来ていたら、鉢合わせる可能性がある。
(どうしよう、どうしたらいいの……)
ーー気がつくと灯里は、ソレイユ・ヴェールの前にいた。
営業時間はとっくに過ぎているので、店内は薄暗く、ドアノブに"Closed "のプレートがかかっている。
(私、何やってんだろ……。家に帰ろ。まさか家まで追いかけて来ないでしょ、うん)
灯里は自分に言い聞かせながら、くるりと方向転換をしようとした時。
「……灯里さん?」
カフェのドアが開き、中から私服姿の翡翠が出て来た。
「パティシエさん……、私の名前……」
「ええ、いつも来てくださる常連の方は覚えております。顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
閉店後の店に押しかけたのにも関わらず優しい対応。
張り詰めていた心が緩んだのか、灯里の両目から涙が滝のように流れ出す。
「!中にどうぞ」
翡翠は一瞬目を見開いたものの、すぐに扉を大きく開き、灯里を向かい入れた。
店内に入り、翡翠に促されて灯里は近くの椅子に腰を下ろす。そして、翡翠が差し出した白いタオルに顔を埋める。
けれど涙は止まらない。
翡翠が場を離れた気配がして、灯里は気遣いに感謝しながら涙が枯れるまで静かに泣いた。
顔をあげると、翡翠が厨房から戻って来るのが見えた。
手に持っているのは、マグカップ。
「蜂蜜入りのホットミルクです。……よろしければ」
翡翠は灯里の前にマグカップを置いた。
灯里はマグカップを両手で包む。じんわりとあたたかい。
次第に手の震えが治まっていく。
マグカップを持ち上げて少し飲む。
優しい甘さが口の中に広がる。お腹が暖まり、灯里はようやく落ち着くことができた。
「……ぁ、ありがとうございます……」
「……何があったか聞いても?」
翡翠の心配そうな声音に灯里は頷く。
ぽつりぽつりと経緯を話す間、翡翠は静かに聞いていた。
話し終えるや否や、口を開く。
「灯里さんは事務職だとおっしゃってましたよね?」
「は、はい」
「パティスリーもカフェも繁盛して人手が足りなくなって来たので、事務員を増員しようと考えていたところでして……いかがですか」
「えっ!で、でも私なんかに勤まるのか……」
「指導にあたる事務員は優しい人ですし、社員になればソレイユ・ヴェールのスィーツ等を社割で食べられます」
「お願いします!」
スィーツに釣られた灯里に、翡翠は笑みを浮かべる。
「そ、それじゃ私、家に帰りーー」
「もし成木が追いかけて来ていたら、危険です。ここは二階が住居仕様になっていて、今は親戚が来た時に泊まるくらいしか使ってないので、今夜は二階に泊まってください」
「そんな、お世話になるわけには……」
「家に帰れても、不安が消えないでしょう?」
翡翠の言葉に灯里はハッとする。
(確かに、成木が来るかもって不安で眠れなさそう……)
「私は裏手にあるマンションに住んでいるので、何かあれば連絡してください」
翡翠はそう言いながら、メモ用紙に自身の電話番号を書いて灯里に渡す。
「ありがとうございます……パティシエさんのお名前、翡翠さんとおっしゃるんですね」
「そういえば名乗ってなかったですね、私ソレイユ・ヴェールのオーナー兼パティシエの雨宮 翡翠と申します。では、二階に案内します」
STAFF ONLYのドアを開き、奥にある階段を登ってゆくと、玄関のような扉があった。
翡翠が鍵を開けて靴を脱いで上がったので、灯里もそれに倣う。
「右側が洗面所で、奥が浴室です。これは従姉が来た時に置いていったメイク落としや化粧水なので、使って構いません」
「は、はいっ」
「部屋はこちらです。今シーツだけ代えますね」
案内された部屋はベッドと小さな本棚、デスクのある寝室。海外のホテルといった雰囲気だ。
手早くベッドシーツを交換する翡翠の後ろで、灯里は何度も頭を下げる。
「何から何までありがとうございます……!」
「灯里さんは私の恩人なので、お役に立ててうれしいですよ」
「お、恩人!?」
灯里が驚きで固まっている間に翡翠は、「ではおやすみなさい」と微笑んで去っていった。
(恩人についてはまた今度聞こう……ホッとしたら急に眠気が……)
灯里はよろよろと洗面所に行って顔を洗い、歯磨きをなんとか終えてベッドに倒れ込む。
(落ち着く匂いがする……明日休みで本当によかった……)
灯里はあっという間に眠りに落ちていった。
続く




