お兄ちゃんの席
『学校でお兄ちゃんの席に座る』
ノートに書いたその願いを見つめながら、私は小さく息を吐いた。
――本当にできるのかな?
お兄ちゃんの席に座るなんて、ちょっと大胆すぎるかもしれない。
でも、どんな気持ちで授業を受けているのか、お兄ちゃんの見ている景色を感じてみたかった。
ノートに願いを書いたとき、お兄ちゃんは「へぇ、有紗、そんなことしたいのか?」と笑っていたけれど……本当はどう思ってたんだろう?
私は少しドキドキしながら、朝の準備を終えた。
私はお兄ちゃんより少し早く学校に着いた。
――今なら、誰にも見られずにこっそり座れるかも。
私はこっそりと3年生の教室へ向かった。
お兄ちゃんの席は、窓際の前から二番目。そこに近づいたとき、胸が高鳴るのを感じた。
「……お邪魔します」
私はそっと椅子を引き、静かに座る。
――ここが、お兄ちゃんの場所……!
目の前には黒板、窓の外には春の陽射しが差し込んでいる。
「……お兄ちゃん、いつもここで授業を受けてるんだね」
そのとき、背後から聞き慣れた声が響いた。
「なーに勝手に人の席に座ってんだ?」
「っ!? お、お兄ちゃん!?」
私は驚いて振り返る。そこには、腕を組んで私を見下ろす智希がいた。
「へぇ、ついにここまで来たか。そんなに俺のこと好きか?」
「ち、違うよっ! その……ちょっと気になっただけで……」
「ふーん?」
智希はニヤリと笑う。
「どう? 俺の席、座り心地は?」
「え、えっと……なんか、落ち着くかも」
「へぇ~。俺のこともっと知りたくなった?」
「……っ!」
智希は私の反応を楽しむように、さらにからかう。
「そんなに俺のことが気になるなら、代わりに授業受けてくれる?」
「そ、それは無理だよ!」
「じゃあ、ノートに『お兄ちゃんの席に座れた!』って書いとけよ?」
「……もう、お兄ちゃん意地悪!」
私はぷくっと頬を膨らませた。
でも、お兄ちゃんはそんな私の様子を見て、楽しそうに笑っている。
「それで? どうして俺の席に座りたかったんだ?」
「えっと……お兄ちゃんがいつもどんなふうに過ごしてるのかなって思って」
「ふーん?」
智希は私の言葉を聞くと、少しだけ目を細めた。
「そっか」
「え?」
「なんでもない」
私はお兄ちゃんの顔をじっと見つめる。
からかってくるばかりだったけど、なんだか少しだけ嬉しそうな表情をしている気がした。
「お兄ちゃん、もしかして、嬉しかった?」
「は? 何言ってんの?」
「だって、ちょっと笑ってるよ」
「別に? ただ、有紗がバカなことするからおもしろかっただけ」
「むぅ……素直じゃないなぁ」
「何が?」
「本当は嬉しかったんでしょ?」
「調子乗んな」
智希は軽く私の額を指で押す。
私はちょっとむっとしながら、でも嬉しくなった。
「じゃあ、また座ってもいい?」
「ダメに決まってんだろ」
「えー、ちょっとくらい……」
「その代わり、家ではずっと俺のそばに座っててもいいぞ?」
「……え?」
智希はさらっとそんなことを言って、私の頭を軽くぽんぽんと撫でた。
「ほら、もう自分の教室戻れよ」
「……うん」
私はちょっとドキドキしながら、自分の教室へと戻る。
お兄ちゃんの席に座るのは、たった一度きりの冒険だったけれど――。
それだけで、すごく嬉しかった。