Fight 8. 変貌
※本作は読み返して誤字に気付いたなどの理由でしれっと編集されている場合があります。
30分かけて雫子の調合した怪しい薬を飲み干し、あまりの劇物的な味にグロッキー状態となった慧秀はもはや鍼を全身に刺される痛みや刺激に反応する気力すら残っていなかった。
女性三人の前でトランクスだけの下着姿になり、雫子によって次々と身体に鍼を刺され針山のようになっていく最中でも、彼のメンタルにはもはや羞恥心の類を抱く余裕すらない。
雫子としては強張りも抵抗も全くと言っていいほど無くなった慧秀の身体はこれ以上ないほど鍼を打ちやすかったが、涙霧としてはやはり姉弟子として心配になる。
「橋爪くん……全く喋らないんですけど……大丈夫なんですか?」
「うーん……。一日分の気合いを全てあの薬を飲み干す事に使っただろうから仕方ない」
未だ慧秀の舌には変な後味と痺れるような感覚が残る。呼吸をすれば胃から薬の成分が吐息に乗って這い上がってくる気がして、余計に気分が悪くなる。バトル・ファック部への復讐のために命懸けで殺人術を体得する決意を固めたばかりの慧秀だが、既に満身創痍だった。
「よしっ、鍼も刺し終えた」
そうこうしているうちに、雫子は施術を終える。
全身のありとあらゆる丹田に繋がる点穴に鍼を刺し、慧秀の身体はついに“気”を覚醒させるための下準備を終えた。
「零花、涙霧。お前達もより純粋な“気”を練り直すんだ───」
三人の黎命流使いが慧秀の肌に手を当てる。
「……?」
いきなり触られて少し困惑する慧秀だが、彼にはもはやその行為の意味を問う余裕はない。それを察した涙霧が説明する。
「気にしないで。橋爪くんの身体に一番浸透しやすい“気”を練るために必要なことだから」
「昨日の戦いでは、そんな事してる素振りはなさそうでしたが……」
「相手を傷付ける目的の“気”なら時間かけて練ったものじゃなくていいんだけど、今回はどちらかというと医療的な使い方だからね」
いわば活法と殺法の違い、といったところか。
よくは分からないが、慧秀としてはそれで納得せざるを得ない。
「全員大体掴めたか?」
「うん」
「はい」
そしていよいよその時がやってくる。
慧秀も流石に緊張する。事前に「確実に意識は失う」と警告されたばかりだし、丹田があるのはいずれも人体の急所と言っていい部分だ。
そんな危険な箇所に同時に“気”を打ち込まれる事に危険を感じない方がおかしいだろう。
特に、慧秀は昨日の一件で気を用いた攻撃の凶悪さを知っている。その気になれば彼の周りにいる三人の女性は簡単に慧秀を殺せると思うと、今更ながら恐ろしくなる。
「気休めだが、目は閉じておけ」
とはいえ、薬の影響で彼にはもう動く気力はない。無論この期に及んで逃げるつもりなど毛頭無いが、「もしやあの薬は逃げられないようにするためのものだったのでは?」と勘ぐってしまう。
雫子のアドバイスに有り難く従い、慧秀はぎゅっと強く目を閉じる。
「私が眉間の上丹田を点く。ここは脳に近いツボ故に一番難易度が高い。私がやった方がいいだろう」
「涙霧は背中の方から中丹田を刺激してくれ。間違っても心臓止めるなよ?」
「零花は下丹田の担当だ。身長的にもやれるのはそこしかない」
雫子が役割分担の指示を出し、それぞれが慧秀の担当部位に拳面を軽く当てる。
「”気”を打ち込んだら間髪入れずに“揺面掌”だ。鍼が刺さったまま倒れ込むのは危険だが、こんなに沢山刺さっていては倒れる前に一本一本手で抜くのは不可能だからな。身体の表面を揺らして鍼を弾き飛ばす」
(物凄く怖いことを言っている……)
揺面掌……。『継ぎ目崩し』と同様、黎命流の技の一つだろうか?
「集中しろ。五秒経つと同時に打ち込むぞ」
(ご、五秒……?)
あと僅か五秒しか時間がないのか、もう少し心の準備をさせてはくれないのか?
いきなりそんなこと言われたら焦る、何故五秒なのだ。
いや待てそんなこと考えてる間に時が進んだ、いったいあと何秒だ───。
頭をグルグル回してそんな思考をしていた慧秀。焦りで秒数を数えるのも忘れていた彼は、その時が訪れたと認識する事すら出来なかった。
『しゃあっ!!』
三人の女性の声が、寸分の狂いもなく重なり、慧秀の耳に届く。
同時に身体全体にとてつもなく強い衝撃が走った。
(っ、っ──────!!???)
身体がバラバラになったのではないかと錯覚するほどの衝撃、しかし痛みは不思議となかった。実体のない大きな質量が自分をすり抜けていったかのような感覚だった。
そして、その一瞬後。
「うぐっ!!? が、アアアアアアアアアアアアアアアッ!!?!?」
身体全体が焼かれるような熱さが慧秀を襲った。血液が全てマグマに置き換わったかのような、あまりにも激しい熱が全身を駆け巡る。
(あ、つい───)
あまりの熱さとあまりの痛みで、慧秀は瞬く間に意識を手放した。
◇
「黎命流“揺面掌”っ!」
雫子が叫ぶと同時、三人とも同時に両の掌を慧秀にぶつける。
打ち込まれた三人の気が慧秀の体表を駆け巡り、皮膚を激しく揺らす。それによって全身に刺さっていた鍼が衝撃の波によって弾き飛ばされ、全て道場の床に落ちた。
“揺面掌”とは“気”で相手の身体の表面を揺らす技。黎命流の多くの技が相手の内部を攻撃するものであるのに対し、こちらは外側を刺激するという例外的な技だ。
「よしっ、上手くいったな」
雫子は床に落ちた鍼を拾いながら言う。
打ち込んだ”気”の量、タイミング、位置……全て完璧だった。見たところ怪我もなさそうだし、内臓を傷付けた様子もない。大成功と言っていい。
目が覚めたら自分ら同様、”気”を扱えるビックリ人間になっている事だろう。
(とはいえ、これはスタート地点に立ったに過ぎない……)
黎命流にとって”気”を扱える身体になることはあくまで「始まり」である。
武術的な体捌きや現代格闘技的なフットワーク、基本的な打撃や寝技、そして黎命流独自の”気”の操作法やそれを用いた殺人技をこれから身につけなければならない。
さらに人体改造の方もこれで終わりではない。
黎命流には特有の整体法や薬功、鍼灸術などが存在する。関節可動域を極限まで広げ、筋肉量を最大まで増やし、体格を可能な限り大きくし、肺活量やスタミナの上限を底上げする方法がそこにはある。
加えて慧秀は第二次性徴期の真っ只中であり、それらの施術の効果が最も出やすい年頃なのだ。これからの一年間、雫子の手で施術を施し続ければ慧秀は類い稀なる戦闘者の身体を手に入れられるだろう。
「あの~、師匠」
慧秀をどう教えようか、どう改造しようかとこれからの事に心を弾ませていた雫子に、一番弟子が話しかける。
「ん? どうした?」
「橋爪くん……立ったまま気絶してるんですけど……。大丈夫なんですか……?」
そう言われて再度慧秀を見る。
涙霧の言った通り、彼は倒れていなかった。意識を失い、白目を剥いたままだらんと下を向き床を見つめてはいるが、しっかりと二本の足で立っている。
「本当だ、ラオウみてーだな」
それともサウザーだっけか、と自身のあやふやな記憶を疑いつつ、慧秀に近づく。
「なんか異常でも起きたか……? いやでもパッと見そんな感じは……」
額に手を当て、脈を測り、胸に耳を当てて鼓動の音を聞く。一通り確認するが、特に悪いところがあるとは思えない。
(というかこいつ……、本当に気絶してるのか?)
触診するうちに、雫子は疑問を抱く。
(なんかどう見ても、自分の足でちゃんと「立って」いるような気がする───)
普通、気絶した状態で立っているというのは、単に「倒れていないだけ」である。意識を失っている人間が自身の筋肉や骨を操作して「立つ」なんて事は普通出来ない。気絶する寸前に取っていた姿勢がたまたま直立であり、失神して身体がそのまま固まって崩れない状態が偶然続いているだけだ。
だが、今の慧秀は触診で軽く押されても踏ん張って倒れないようにしている、ように思う。体重や力をかけたらその分の反発を返してくる気がするのだ。
(気絶したフリか? いや、そんなはずない。この手法で丹田を覚醒させられたものは、絶対に皆急激な身体の変化に耐えきれず意識を手放す。それは黎命流の歴史に於いてただ一つの例外もない)
第一、仮に耐えられたとしても気絶したフリをする理由など慧秀にはない。
じゃあ何が起こっている、と雫子が考え込み始めたその時だった。
突如、慧秀の手が彼女の腕をガシッと掴んだ。
「っ!?」
突然の事に驚く雫子だったが、掴んできたその腕を咄嗟に逆に捻り上げようとする。
(───いや駄目だ! 下手に返したら慧秀の腕を痛めてしまう!)
直前で思いとどまった雫子の選択はそのまま慧秀に投げられる事だった。
「くっ───」
中学入りたての子供とは思えないほど凄まじい力で、慧秀は大人である雫子を床に引き倒した。
雫子はあえてそのまま力に逆らわず倒れ、慧秀の腕から逃れる。
「ウゥッ、ウガァアアアアアアアッッッ!!!」
しかしそれだけでは終わらない。
獣のような雄叫びを上げながら、慧秀は倒れた雫子目掛けて足を踏み下ろさんとする───!
「ちぃっ」
だが、その足は空振り道場の床を踏み抜くに留まった。甲高い音を立てて床材が壊れ、木屑が宙に舞う。
雫子は咄嗟に床を転がり、慧秀の踏み付けから逃れていた。すぐさま立ち上がってバック・ステップを踏み、慧秀から距離を取る。
「師匠っ!?」
「お母さん!」
一連の流れを目撃した涙霧と零花が叫ぶ。
その心配の声を聞くと同時、雫子は二人に指示を飛ばした。
「零花は部屋から出て安全なところに避難しなさい! 涙霧は慧秀止めるのを手伝え!」
「「は、はいっ!」」
返事するや否や、零花は襖を開き部屋から離脱する。いくら黎命流の英才教育を受けているとはいえ、まだ10歳の実子を危険には晒せない。
「師匠! 橋爪くん一体どうしちゃったんですかっ!?」
涙霧は突然起きた緊急事態に混乱していた。
慧秀は今、絶対に意識を保ってなどいないはずなのだ。他者への攻撃どころか歩くことすら出来ない状態でなければおかしい。
なのに、突然暴れ始め雫子に襲いかかり始めた。白目を剥き、もはや言葉にもなっていない獣のような叫びを上げながら容赦のない攻撃を加えてきた。しかも、その威力はとてもこの間まで小学生だった少年の出せるそれではない。何もかもが涙霧の理解を超えていた。
「原因に心当たりはある。けど、まさか……」
「心当たり? それは一体なんなんですかっ!? 橋爪くんは元に戻るんですかっ!?」
慧秀を連れてきたのは涙霧だ。このような事態になった事に涙霧は大きな責任を感じていた。だからこそ、この場で最も慧秀を助け出せる可能性のある雫子に食ってかかる。
しかし、師はとても冷静だった。
肉食獣のような目つきと共に、唸り声を上げながら暴れる慧秀を睨んで雫子は言う。
「おそらく───“気”の暴走だ」
「気の暴走!?」
暴走する慧秀の運命は!?