Fight 11. わかくてひっしなひと
「臥薪嘗胆って言葉があるでしょう?」
慧秀は唐突に言う。
「……薪の上で寝てた夫差と、毎日胆を舐めてた勾践の話のこと?」
中国の春秋時代。紀元前に存在していた二人の武将の有名な話だ。
戦に敗れその傷が元でこの世を去った呉の先代王の無念を晴らすため、後継に指名された夫差は毎日固い薪の上で寝て自身を傷め付け、部下に毎日「お前はあの時の屈辱を忘れたのか」と言わせる事で復讐心を鈍らせず、敗北の記憶を決して忘れないよう身体に刻み付けた。
毎晩繰り返し思い出される屈辱を糧に自身を鍛え、国を強くし、やがては仇である越を破ったという。
そして、その時に夫差に敗れた勾践もまた夫差同様修羅になった。
毎日肝を舐め、その劇物のような刺激と共に「お前はあの屈辱を忘れたのか」と自分に問い続ける事で、己の中の怨嗟と雪辱を日々燃やし続けた。
結果、夫差への逆襲を果たし彼を破り返した。という話である。
「夫差と勾践が何故そこまでしたのか……。それは一度自分を下した相手を打倒するというのは、生半可な覚悟では叶わないからですよ」
慧秀は断言する。
「普通の人間は一度敵わなかった相手に再び挑み、ましてや勝つなんて真似はとても出来ません。目の前にそいつが立つだけで酷く痛め付けられた記憶がフラッシュ・バックし、思考は乱れ身体は震え、身に付けた技術もまともに使えなくなってしまうんです」
確かに、闘志を失わないというのは簡単な事ではない。
それは涙霧も分かっている。
「俺にとっての薪と肝は、食事制限と学校生活の制限です。固いものの上で寝たり、苦いもの舐めるよりは日常を戦いのために犠牲にする方がよほど効果的でしょう?」
「橋爪くん……」
慧秀とて人間だし、まだ子供だ。
自分で選んだ道とはいえ、受験勉強を乗り越えて掴んだ学校生活を、青春をバトル・ファック部との戦いのために半ば犠牲にするのが辛くないわけがない。
だが、その辛さこそが屈辱を忘れず復讐心を滾らせ続けるための薪と肝になるのだ。
「俺は決して強い人間ではありません。だから毎晩、ベッドに横になるたびに『キツい』『もうやめたい』と弱音を吐きそうになります。まさにその瞬間、俺は自分に問うんですよ」
お前はあの日の屈辱を忘れたのか。
外道畜生共にあっさりと騙され弄ばれ、なす術なく辱められた事を忘れたのか。
あの日に抱いた憎しみを、怒りをどこにやったのか、と。
「黎命流に入門したその日、俺は奴等にされた事を事細かに書き起こしました。毎晩、寝る前にそれを読んで記憶をフラッシュ・バックさせてから寝るんです」
まるで部下に毎晩叫ばせ続けた夫差の如く、慧秀は自分で自分のトラウマを蘇らせる。そうすることで慧秀は屈辱を、怒りを忘れずにいられるのだ。
バトル・ファック部の連中をぶち殺したい。特に自身を最も甚振った大井川湘子と鹿島晴恵は絶対に許さない。
その思いを、復讐心を萎ませる事なく保ち続けることが出来るのだ。
そして醸成された復讐心は慧秀を焦らせ、奮起させ、また過剰な鍛錬へと走らせてくれる───。
「そういう事情で、俺は一日の全ての時間が自分が強くなる事に結びついていないと気が済まないんですよ」
「……そうなるように自分で自分に暗示をかけたんでしょう?」
「心配しないでください。確かに体操部は好きで入ったわけじゃないし、友達との付き合いも健全とは言い難いかもしれないですけど、それらは確実に俺が強くなるための道を拓いてくれています。強くなるための時間を過ごしていれば、俺はちゃんと自分を保てますから」
慧秀はいつもと変わらないような表情と声色で、そう言った。
彼はバトル・ファック部と対峙するその日まで、自分の中に芽生えた復讐心と怒り、そして屈辱の炎を絶やさないようにするため夫差と勾践と同じ事をすると決めた。
それは自分で自分を傷め付けながら、自らに「あの屈辱を忘れたのか」と問う事。その“自分に与える痛み”……夫差や勾践にとっての薪と肝に相当する何かとして“青春を戦いのために犠牲にする事”を選んだ───。
そんな話を聞いて安心出来るはずがない。むしろより心配になった。
(橋爪くん。私にとってあなたは弟弟子であると同時に、私がバトル・ファック部から助け出せた人でもあるんだよ……)
自分の手が届かなかった、間に合わなかった者達。バトル・ファック部の毒牙にかかり、一生モノの傷を受けた被害者達を知っている涙霧にとって、そうなる直前で慧秀を救い出せたという事実は大きなものだった。
だからこそ、自分が助けた慧秀がこのまま無理をし続けて壊れるような事にはなってほしくない。
涙霧は慧秀の話を聞いた事で、解決の糸口が見えてくる。
(根本的な問題は、橋爪くんの戦う動機にある気がする……)
涙霧はそう考えた。
バトル・ファック部に傷付けられた自尊心、あるいは男としての尊厳───。
慧秀はそういった、目には見えない自分の大切なものを取り戻すために戦おうとしている。
自分のために戦うからこそ、自分をとことん犠牲に出来る。
涙霧の目には慧秀がそんなメンタルになっているように見えた。
その動機自体を責められるはずがない。心の傷の大きさは当人にしか分からない。そうせねばならない、と本人が確信しているなら他人に過ぎない涙霧が否定する事は難しい。
ならばどうするか?
「橋爪くん、あなたの強さへのストイックな姿勢は尊敬するし、凄いと思う」
まずは一旦、彼を肯定する。慧秀を否定する気はないと示す事で冷静になってもらう。
「けど、バトル・ファック部に用があるのはあなただけじゃないって事を忘れてない?」
「あっ……」
慧秀は涙霧に指摘され、鳩が豆鉄砲を打たれたような顔を見せる。
「一年後、乗り込む時は私も一緒。というか、むしろ連中との因縁自体は私の方が長いって事を忘れないでほしい」
そう。最初からバトル・ファック部との戦いは慧秀一人のものではないのだ。
むしろ、最初に始めたのは涙霧である。慧秀は偶然そこに巻き込まれ、偶然涙霧に助け出され、成り行きで彼女と共に戦う事になったに過ぎない。
己が強くなる事に囚われるあまり、慧秀はそんな基本的な構図すら忘れてしまっていた。
「だから、橋爪くんには知ってほしいの。私が戦う理由を」
「涙霧先輩が、戦う理由……?」
バトル・ファック部を倒したいのは慧秀だけではないと理解してもらった次は、涙霧自身の話に関心を向けるよう話を誘導する。
そして知ってもらうのだ。
「私はね、橋爪くんみたいに直接あいつらに何かをされたわけじゃないの」
「じゃあ、なんで───」
その問いに対し、涙霧は自身の拳を握りしめ、慧秀の目の前に突き出して答える。
「この拳に背負っているのよ。力無き被害者達の無念を」
涙霧は自身ではなく、他者の想いを背負って戦おうとしているのだと。
「力無き被害者達の想い……!?」
「明日、駅の近くの喫茶店に行きましょう。紹介したい人達がいるの」
そう言うと涙霧はスマホを取り出し、メッセージアプリである者と連絡を取り始めた。
この翌日、慧秀は知る事になる。
涙霧の戦う理由を。
そして彼女に託されたものの大きさを───。
涙霧の戦う理由とは───!?
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