Fight 10. MMA復帰
今回は一話分の下書きを書いたら長すぎたので二話に分割した結果、中途半端なところで終わってます。
慧秀が黎命流に入門してから二ヶ月半が経った。現在、彼は週3~4の頻度で道場に通っており雫子から指導を受けている。
黎命流の稽古は特殊な鍼施術から始まる。
筋肉と骨の成長を促すツボ、心肺機能を向上させるツボ、成長ホルモンの分泌を活性化させるツボ、"気"を練るための丹田を覚醒させるツボ、"気"を身体中に行き渡らせるための神経を刺激するツボ……。
ありとあらゆる秘伝のツボを点いていく。
それが終われば整体だ。組手の前の柔軟も兼ねているが、黎命流の整体法もやはり普通のそれではない。
黎命流の整体はありとあらゆる関節の可動域を極限まで広げる事を可能とする。指圧と同時に施術者の"気"を相手の体内に送り込めるため、普通の整体では届かない奥深くをも刺激する事が出来るのだ。
長く継続的に行えば行うほど関節や靱帯が柔らかく、かつ強靱になるこの施術。幼い頃から受けている涙霧は既に並のバレエダンサーや新体操選手よりも遙かに柔らかい身体を手に入れている。
それらを終えてから、ようやく形や組手など武術らしい練習が始まるのだ。
「シッ!」
バシッ、と鋭い音が道場内に響く。
慧秀がサンドバッグを叩き、蹴る様子を横で雫子が見守っていた。その動きは伝統的な日本武術のそれではなく、現代格闘技的なそれだった。
「よし、基本的な殴る蹴るのやり方はもう大丈夫そうだ」
雫子はそう呟く。最初の一ヶ月間、彼女はまず慧秀のバック・ボーンである総合格闘技の基本をひたすら反復させた。
曰く、「現代である程度強い奴と喧嘩するなら、現代格闘技の基本は出来ていないと不味い」らしい。
ボクシング的なフットワークと打撃、レスリングやブラジリアン柔術的な寝技が基本のレベルまで出来るようになってから黎命流独自の技を教える。それが雫子の方針だった。
「うん、寝技の方もバッチリだ。勘は取り戻せてる」
サンドバッグ打ちの次は雫子と寝技のかけ方、対処法の確認だ。30代後半とは思えないほど若く見える美女と密着し合うのは思春期の慧秀としてはなかなか大変な思いをしたが───。
「お前が倒そうとしてる連中は性行為の技術で相手を痛め付けるふざけた競技に精通した淫売共なんだろ? 異性と密着する程度の事でいちいち硬直してたら命取りだぞ」
雫子にそう諭された事で意識を変えたのだった。
「良い感じだ。やっぱりMMA経験者は違うな」
通常なら現代格闘技の基本を教えるだけでも相当な時間がかかる。完全な素人の状態で入門した涙霧も黎命流の技を教え始めるには結構かかった。
しかし、慧秀は数年間やってた事をただ思い出すだけでいいため、最も時間のかかる第一段階をある程度省略出来るのだ。
「さて、”気”の方はどんなものだ?」
「”気”を練り、身体に溜めるのは慣れてきました。練った”気”で皮膚や内臓を覆って衝撃を和らげる防御法も掴めてきています。ですが───」
慧秀は再びサンドバッグの前に立ち、拳を叩き込む。
バシン、と音が鳴るが、彼の顔は浮かない。
「"気"を体外に打ち出すのが、どうにも上手くいきません」
涙霧がやっていたような、当てると同時に相手の体内に気を送り込み直接内部を攻撃する「浸透系の打撃」。慧秀はまだそのやり方を上手く掴めずにいた。
「焦る必要はない。二ヶ月で気を纏うとこまでいけるのは充分天才だよ」
雫子はそう諭す。
「どんな物事も一寸光陰では身に付かない。躓くなんて当たり前だ」
ましてや、慧秀は初日に荒っぽいやり方で丹田を覚醒させられて暴走した影響で、三週間ほど常に多少の疲労を感じた状態だったのだ。
そんな頭も身体も万全には働かない状態で休まず稽古を続け、基礎的な部分をちゃんと習得している。雫子はそんな健気な弟子を褒めずにはいられない。
「弟子が壁にぶつかった時のために師匠がいるんだ。慧秀がどうすれば『浸透系の打撃』の打ち方を理解出来るか、私がちゃんと考えておく。だから今は焦らず、分かるところから身に付けていけばいい」
そう言って彼女は慧秀の頭を撫でる。思春期真っ盛りの彼としては大人の女性から子供扱いされるのは気恥ずかしかったが、同時に嬉しくもあった。
「それに、慧秀の本分は中学生として青春を満喫する事だ。あまり黎命流一辺倒にならず、起居動静を大事にしな。なんだかんだ、強い奴っていうのは心に余裕を持っているものだからな」
「……はい!」
元気よく返事をする慧秀を見て雫子の顔が思わず緩む。
慧秀はとても素直な性格をしており、言われたことはちゃんと取り組んでくれるのだ。その上飲み込みが早く教えた事をすぐに身に付けるし、たとえ分からない事があってもすぐに相談しに来てくれるから雫子としてはかなり印象のいい弟子だった。
休憩時間の彼を観察してみれば、涙霧以外の門弟とも問題なく良好な関係を築けている様子がわかる。コミュニケーション能力が高く、素直な性格も相まって人とすぐ仲良くなれる気質の持ち主のようだ。天性の人間的魅力というやつだろう。
(入ったばかりの弟子に入れ込みすぎるのはよくないが……慧秀には何故だか色々な事を教えたくなってしまうな)
並外れた“気”の才能を持ち、吸収力も高く、若さ故の無限の可能性がある。そんな弟子をどこまで強く出来るのか見てみたい、そう思わない指導者などこの世にはいないだろう。
◇
その日の帰り道、慧秀は涙霧と共に駅まで歩いていた。
二人の距離感もかなり縮まってきており、今では部活の先輩後輩くらいの仲だ。放課後道場に向かう途中の道や、稽古の後に駅まで向かう道で一緒に歩きながら他愛のない話もするし、この前など二人で遊びに出かけた。今では互いに気を遣わず会話できる。
「橋爪くんは凄いねぇ……。週三、多いときは週四で稽古してるのに、部活や友達付き合いまでこなしてるなんて」
「いやあ……。その代償で勉強の方は結構ピンチになってまして……」
お世辞ではない。涙霧の目から見ても、慧秀の姿勢はかなりストイックに感じた。
この二ヶ月半、彼は稽古の参加を一度も欠かした事がない。道場にいる間の彼は雫子や涙霧の言う事をよく聞き、彼女らの技術を一つでも多く吸収しようと熱心に励んでいる。時には幼い小学生である零花にすら先達として敬う姿勢を見せ、教えを乞う。
(本人は零花師匠って呼ばれるのはむずがゆい、と言ってたっけな……)
ちなみに涙霧の事は「涙霧師匠」ではなく「涙霧先輩」と呼んでいる。
おそらく、彼の中での冴木涙霧は黎命流の姉弟子より学校の先輩という認識の方が強いのだろう。涙霧としても正直そっちの方がありがたい。
とにかく、道場にいる間の慧秀はかなり貪欲な姿勢を見せている。教える側としても彼の素直な性格と飲み込みの速さ、そして滅多に見れない才能がかなり魅力的だ。どんどん教えたくなってしまう。
一方で、涙霧は彼のそのストイックさに危うさを感じていた。
「それより聞いたよ橋爪くん、あなたお昼はサラダチキンとかブロッコリーとかゆで卵とか……そういうのしか食べないんだって?」
涙霧が少し厳しい口調で慧秀に問いかける。
彼はいきなり言われた故か、それともまさか自分の食事事情がバレてるとは思ってなかったのか鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せた。
「流石にどうかと思うよ、それは」
「……いやー、ははは。まさか学年が違う涙霧先輩にまでその話が伝わるとは」
「本間先輩から聞いたんだよ。橋爪くん、この二ヶ月でかなり“知り合い”を増やしたでしょ? それで私のところまで君の話が流れてくるようになったんじゃないかな」
確かに、筋肉をつけるにあたりタンパク質を多く含み脂質の少ない食事を摂ることが効果的なのは有名な話だ。
しかし、まだ中学一年生の慧秀がそんな偏った食事をする事はとても健全とは言えない。そもそも糖質も脂質も炭水化物も、身体にとって必要な栄養である。
流石に家で摂る食事は普通にしているのだろうが……。
「あと、他人から人付き合いに関してあまりとやかく言われたくはないかもしれないけど……。友達作りももっと普通にやるべきじゃないかな? 損得勘定じゃなく、純粋に自分が仲良くしたいと思える人と接した方がいいと思うよ」
そして、彼のストイックさは稽古や食事に留まらない。
人間関係までも自分が強くなるかどうかを基準にして構築しているのだ。
素直で明るく人が良い慧秀は基本誰とでも仲良く出来るが、一定以上の友人関係を築くのは決まって何かしらの武道や格闘技の経験はある者ばかりだった。
慧秀が最初に親しくなったクラスメイトは柔道部の森吉、そしてボクシング部の宇喜多という者だった。
彼は中学生活が始まって最初の一週間でクラスメイト全員に軽く話しかけ、その中から何かしらの武道や格闘技の経験がある者に限って友人関係を築いたのだ。
格闘技経験者というものは繋がりが意外と広い。その伝手を使えば他のファイターと知り合う事が出来る。
例えば、最近では実家が由緒ある薙刀の道場をやってる本間という先輩とも仲良くなれたが、それも前述の森吉が柔道部の先輩から聞いた情報を慧秀に提供した事が始まりだ。
彼はその情報があったからこそ、委員会選びの際に本間と同じ図書委員を希望した。そして目論見通り委員会を通じて本間と親交を深め、仲良くなれたのだ。
いずれは彼等にスパーリングや組手を頼めるくらい仲良くなり、対人経験を積ませて貰う予定なのだろう。
「殺人拳にどっぷり漬かってる私が言えた事じゃないだろうけど、橋爪くんの姿勢は正直異様だよ」
涙霧は思わずそう言った。
既に殺人拳の使い手として相当鍛えられている彼女だが、流石に友達を作る事すら自分の強さへの糧にしようなどとは考えた事もない。
「部活だって、“戦いで役に立つ動きが身に付けられそうだから”って興味もない体操部に入ったようだけど……。もっと本当にやりたい活動が出来るところに転部した方が橋爪くんのためになると思うよ」
日々の練習で行う柔軟は関節可動域を広げられるし、腕の力も鍛えられる。体操で身に付く非日常的で特殊な動きを応用すれば実戦で相手の意表を突けるかもしれない。それに体操部の活動で身体を柔らかく出来れば、黎命流の稽古で整体に使う時間を短縮し、その分でもっと技や戦い方を教えて貰える。
慧秀はそう考えて体操部に入部していた。
その考えも、涙霧にとってはあまりいいとは思えなかった。
一生に一度しかない青春の時間なのだから、ちゃんと自分の好きな事が出来る部活に入るべきだと涙霧は思う。実際、彼女もその考えから文化部である英会話同好会に入っているし、時には黎命流の稽古を休んでそちらを優先する事さえある。
涙霧はバトル・ファック部との戦いや黎命流の修行一辺倒の生活を送る事が自分らにとって良い結果になるとは思えないし、慧秀にもそんな風にはなって欲しくなかった。
「……確かに、正論ですね」
慧秀は素直な性格だ。姉弟子である涙霧からの言葉はちゃんと受け止める。
「でも、そうでもして自分を追い込んでいないと気が済まないんですよ」
その上で彼は自身の胸の内を語り始める。
彼は決して自分の考えを隠すタイプではない。最初に雫子に強くなる目的を聞かれた際、素直に「殺したい奴がいる」と答えた事からも分かるように、彼は自分の考えを包み隠さず明かす事を師や仲間への誠実さだと考えているのだ。
慧秀が語る胸の内───。




