04 たんこぶとホットドック
千早が講師を務める語学学校は明洞の複合ビルに居を構えている。英語、日本語、中国語、スペイン語、イタリア語と扱う語学が多いので、講師室の顔ぶれもインターナショナルだ。
千早が次の授業の準備をしていると、スマホがメッセージの受信を知らせた。
「おまえのお隣さん、早速店に来てくれたぞ」
アジュンからのメッセージを見て、千早は「はあ?」と声を上げた。
何事かと顔を上げた隣席の英語教師に手刀で大声を詫びる。
なんで俺がいない時に来るんだよ。
前髪に指を突っ込んでタイミングの悪さを嘆くが、ソヨンにバイトのシフトを教えたわけではないので仕方ないといえば仕方ない。
ロマンス詐欺師事件の後、アジュンには、ソヨンは最近越してきた隣人で料理をお裾分けしたことがあるのだと説明してあった。
ソヨンがひとりなのか誰かと一緒なのか何を食べたのかを知りたかったが、それをアジュンに尋ねるのは何故か悔しい。少し考えてから、「よろしく伝えといて」とだけ送る。
既読はすぐに付いた。「もう帰ったよ」の返信に、なんだよそれと呟く。
もやりながら特Aクラスの講義を終えてホワイトボードを消していると、リナが講義中のように「先生、質問です!」と右手を挙げた。
「おう。今日の長文読解は結構難問だったからな。細かい解説は来週もやるけど、どこが分からなかった?」
テキストを捲りながら問うが、リナから返ってきたのは「先生、今日はなんだかそわそわしてるけど、お隣さんと何かあったんですか?」と授業に全く関係がない質問である。
「講義の質問じゃないのかよ。大体、どうして俺がそわそわする原因がお隣さん限定なんだ」
「先生、最近よくお隣さんの話してるし、女子の勘です」
「残念ながら何もないよ。今日は楽しみにしてた映画の封切りだから早く帰りたいだけだ」
前半は嘘だが後半は事実である。
「映画デートですね!」
「寂しくおひとり様だよ。ほら、学生は早く家に帰れ」
「はーい」
テキストをバッグに仕舞うと、リナとマークは机と椅子の位置を綺麗に整え始めた。社会人連中がそそくさと帰路を急ぐ中、学生二人はいつも自主的に後片付けを手伝ってくれる。
好奇心が旺盛すぎるが良い子の二人に、千早は少しだけサービスすることにした。
「そういえば、お隣さんの正体は警察官だったぞ」
それを聞いた瞬間、リナは大きな目をこぼれそうなほど見開いて千早に詰め寄った。
「何それ詳しく!」
だからどこでそういう言い回しを覚えるんだ。
「続きは来週な。気を付けて帰れよ」
「ちょっと先生! 気になって眠れないじゃない!」
派手に騒ぐリナを置いて、千早は笑いながら教室を後にした。
***
一度アパートに戻りシャワーを浴びて私服に着替えてから、千早は隣室の扉の前に立った。
指がブザーの前を行ったり来たりすること数分。
何緊張してんだよ、俺は。
ただ挨拶をするだけだ。
店に来てくれてありがとう。店に来いよって言ったのにいなくて悪かったな。
それを伝えるだけだ。
平日の夕方だが、ベランダを出入りする音が聞こえたのでおそらく非番なのだろう。
だが、わざわざお宅訪問までされたら迷惑だろうか。また今度偶然会った機会にするかと腕を下ろした時、ガチャリと扉が開く。額に衝撃が走った。
***
「ごめん。本当に、冷やさなくて大丈夫か」
「これくらい何ともない。気にするな」
ほの赤く夕日を反射するアスファルトに二人の影帽子が長く並んでいる。
したたかにぶつけた額はうっすらたんこぶになっているが、千早の頭は痛みどころではない。
ソヨンの目的地である最寄りのセブンイレブンまではあと2ブロックだ。誘うなら今しかないのに、口の中が乾ききってどうにも言葉が出てこない。コンビニまで数メートルというところまで来て、千早はようやく口火を切った。
「ソヨン」
「うん?」
ソヨンが見上げてくる。下ろした髪は洗いざらしなのか毛先に少し水気を残している。相変わらずのTシャツにスウェット姿で、あの華麗な蹴りを繰り出した男と同一人物とは思えないくらい緩やかな歩き方だ。
「あー、その。映画の前に、駅前のカフェで軽く食べようと思ってたんだ。良かったら一緒に行かないか?」
それを聞くと、ソヨンは視線を地面に落とした。
何かまずかっただろうか。
不安になる千早に、ソヨンはぼそりとこぼした。
「俺は、食べるのが遅い」
「うん。それで?」
「誰かと食事をすると待たせてしまう」
これは遠回しに断られているのだろうか。けれど、嫌がってる感じではなさそうだ。
「8時の回の映画を観る予定だから、1時間は時間を潰したい。おまえ、パン食うのにそれ以上時間が必要?」
「そんなにはかからない」
ソヨンは相変わらず無表情だったが、声には笑いが滲んでいた。
夕暮れのカフェは混雑していて、ようやく見つけた席は店内のど真ん中だった。テーブル間隔は狭く、両隣のテーブルの女性陣がちらちらとソヨンを盗み見ているが、当の本人は意に介さずホットドッグを頬張っている。
頬を膨らませていると上品な顔立ちが幼く見える。食べるのが遅いというより、一口が小さいのだろう。ソヨンの三口分の量を一口で齧りつき、千早はコーヒーを啜った。
半分ほど食事を終えると、ソヨンは顔を上げた。
「それで、何の用だったんだ?」
「何の話だ?」
とぼける千早に、ソヨンは淡々と答えた。
「うちの前にいたんだろ? 通りすがりなら、扉は額の真ん中にぶつかったりしない」
さすが警察官だ。
「アジュンから、今日、うちの店に来てくれたって聞いた。それで、礼を言おうと思っただけだ」
「カムジャタンを食べた。とても美味しかった」
「そっか。折角来てくれたのに、いなくて悪かったな」
「別に謝ることじゃない」
千早は韓国と日本と米国のミックスだが、国籍は韓国にある。韓国人である父親の兄の息子がアジュンで、ソヨンは彼の店でバイトをしているということは、無銭飲食の事情聴取の際に話してあった。
「店には月水金で入ってる。夜は11時まで営業してるから、また来いよ」
「ああ。また寄らせてもらう。気軽に昼食を取れる店ができて良かった」
また割引券を渡したかったが、生憎、創業10周年キャンペーンは今週で終わりだ。千早は財布から店のショップカードを取り出すと、ボールペンで「キンパ一皿無料サービス」と書いて自分のサインを入れた。
「じゃあ、これ」
差し出されたカードをソヨンは両手で受け取った。
「いいのか?」
「勿論。うちの店は常連客で持ってるから、是非常連の仲間入りをしてくれ」
おどけて言うと、ソヨンははにかむように微笑んだ。
「ありがとう。嬉しい」
不意に、周囲から音が消えた。
店内のざわめきもボサノバのBGMも、隣の客のあからさまな視線も飲みかけのコーヒーも散らばったパン屑も何もかも消え失せて、世界から二人だけが切り取られた感覚に落とされる。どくりどくりと心臓が跳ねて、その鼓動だけがうるさい。
「千早?」
一瞬の幻覚はソヨンの声に引き戻され、しかし胸の鼓動だけが治まらない。
こちらを覗き込むようなソヨンの瞳に、ひどく動揺した自分の顔が映りこんでいる。
「千早。どうかしたのか?」
自分の名を呼ぶその唇から、なめらかな頬から目が逸らせない。
唐突な、何の前触れもない、この男を抱きしめたいという衝動。
食事中なのに、喉が灼けつくように乾いている。
千早は無言で立ち上がって、トイレに駆け込んだ。個室に飛び込み、扉に背を預ける。
血が巡りすぎて下半身が痛い。
観念して呟いた。
「やばい、好きだ」




