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弧を描く鍵  作者: ナムラケイ


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03 テンジャンチゲとロマンス詐欺師

 市井しせいの語学学校は、大学の語学堂とは異なり趣味半分の生徒も多いので、教える側もそれなりに気楽なものだ。楽な分、講師の給料も知れたものなので、千早は従兄弟の店を手伝ったり翻訳や通訳の仕事を請け負って生計を立てている。


「千早、これ三番によろしく」

「あいよ」


 カウンタ―越しに渡された熱々のトゥッペギ鍋の中では、チゲスープが煮えたぎっている。味噌の良い香りが立ち、ふっくら水気を含んだ豆腐はふるふる揺れていかにも美味そうだ。毎日見ているのに、そして先ほど賄いで同じものを食べたばかりだというのに、また食欲をそそられてしまう。


「デンジャンチゲのランチセットです。お待たせしました」

「ありがとー、美味しそう!」


 千早がスープとごはんをサーブすると、ナムルを摘まんでいた客の女性は早速スプーンを手に取った。

 従兄弟のアジュンが営むこの定食屋は街中から外れているので、ランチタイムの客は近所の勤め人が多い。彼女も2軒隣の不動産屋で働いている常連さんだ。


「熱いから気をつけてな」

「はーい」

「俺もさっきそれ食ったけど、今日のは格別美味かった」

「何それー」


 笑うところでもないと思うのだが、女性は楽しそうに笑ってスプーンを動かしている。

 空になったパンチャンの皿を片付けていると、隣のテーブルの客が「チャミスルもう1本」と声をかけてきた。先ほどまで雨が降っていたので、カウンター7席とテーブル5卓の狭い店内は半分ほどしか埋まっていない。


「はい。ありがとうございます。フレッシュでよろしいですか?」


 フレーバーを尋ねると、男は無言で頷いた。千早の勤務中には見たことがない客だった。

 若くて女好きしそうな甘い顔立ちだが、シャツには皺がよって清潔感がないし、態度もどことなくふてぶてしい。

 木目調のテーブルの上には、空のチャミスル2本に食べかけの海鮮チヂミとポッサムの皿が並んでいる。男の頬には赤みひとつ差していないので、酒が強いのだろう。

 昼間からいい身分だよなと思いながら新しい酒を出すと、客はグラスに注ぎ一口だけ飲むと、席を立った。

 ポケットから煙草を取り出しているので、外で一服するらしい。


「アジュン、あの客、よく来るのか?」


 他の客に聞こえないように小声で問うと、アジュンはフライパンを振るいながら男を一瞥した。


「初めてのお客さんじゃないかな。どうかしたか?」

「いや、どうもしてはないんだけど」

「珍しく歯切れが悪いな」


 昼間から利鞘の良い酒を注文してくれる客のことを、なんとなくいけすかないという印象だけで悪しざまに言うのは憚られた。

 男の様子をもう一度見ようと視線を巡らせると、ガラス張りの店の外に人影はない。灰皿は扉のすぐ横に置いてあるのに。

 食い逃げか。

 思い当って無意識に舌打ちが出た。

 千早が店を飛び出して左右を確認すると、足早に角を曲がろうとする男の姿が視界に入る。


「あの野郎っ!」


 スタートダッシュと共に脚さばきの邪魔をする前掛けを脱ぎ捨て、男を追う。足音に気づいた男が振り返り、ぎょっと音が出そうなほどにぎょっとして走り出す。


 逃がすかよ!


 こちとら元サッカー部だ。スピードを上げると小さかった男の背中はすぐに目の前だった。手を伸ばして首根っこを掴むと、男はそれでも逃げ出そうと暴れ出す。甘いマスクが台無しのひどい形相だ。


「何すんだよ、放せよおっ!」


 闇雲に振り回される腕が頬を掠める。もう一度舌打ちをして、千早は男の足元を払うと体重をかけて雨上がりの地面に押し倒した。喚き続ける男の額に伝票を叩きつける。


「お会計、3万7千ウォンです。あ、その前に警察か」 



 アジュンの通報で店にやって来た警察官は、銅雀トンジャク警察署の捜査課所属だという若い男女の二人組だった。

 ミン巡査だと名乗った女性警察官の方は、化粧っけはないのにここは韓国ドラマの世界かと思うような凛々しい美人だった。男性の方、イ巡査部長はすらりとした体躯で姿勢が良く、目元はサングラスで見えないが、すっと通った鼻筋と薄い唇は品よく整っている。

 巡査部長は店の床でへたり込んでいる食い逃げ犯の顔を覗き込むと、「パク・ボンギだな」と言った。

 周囲の温度を氷点下にするような冷たい声音に、食い逃げ犯は苦虫を噛み潰したような顔をして「ちげえよ」と吐き捨てる。

 ミン巡査の方も男の顔を確認すると「あら本当だわ。あなた、お手柄だったわね」と千早を見た。


「食い逃げの常習犯なのか?」


 話が見えない千早が問うと、ミン巡査は虫けらでも見るような目つきで食い逃げ犯を睨んだ。美女の蔑みは迫力倍増だ。


「指名手配中のロマンス詐欺師よ」

「ロマンス詐欺師」


 どうりで中途半端にハンサムなはずだ。

 妙に納得してしまう千早の背をアジュンがばしりと叩いた。


「すげえじゃん、千早。犯人逮捕で表彰とかされちゃうんじゃねえの」


 美女と従兄弟に褒められ満更でもない気分でいると、しかしイ巡査部長は冷淡な声で千早を諫めた。


「次に同じ目にあったら、追いかけずにすぐに通報してください」

「いや、でも」

「どんな相手か分からないのに闇雲に追いかけるのは危険だ。下手をすれば返り討ちにあっていたかもしれない」


 反論を許さないというような強い口調に千早はむっとする。


「そりゃあプロレスラーみたいな大男だったら俺だって考えるけど、こんな優男相手に負けやしねえよ」


 千早は上背もあるし体格はいい方だ。毎日の筋トレも欠かさない。

 胸を張って巡査部長を見おろすと、彼は呼吸ひとつ乱さずノーモーションで脚を振り上げた。サングラスで表情は見えないが、弧を描く爪先は間違いなく千早のこめかみをとらえている。


 蹴られる!


 突然の攻撃に逃げなければと本能が警告するが、咄嗟のことに脚が竦んで動けない。

 頭部を庇うための腕さえ上げることができなかった。

 衝撃に備えて唯一動かせた歯を食いしばり目を閉じた瞬間、左耳に切り裂くような風圧が吹き込んだ。が、その後の衝撃はない。

 恐る恐る瞼を開くと、制服の右足が顔の横で静止している。一寸の乱れもない美しい寸止め。文句のつけようがない華麗なハイキックに冷や汗が流れ落ちた。


「……びびった」


 大きく息を吐き出す。心臓がばくついて止まらない。

 巡査部長は振り上げた脚を下ろすと、息ひとつ乱さずに淡々と述べた。


「動けなかっただろう。一般人なら動けなくて当たり前なんだ。頼むから、次からは無茶をしないでくれ。この詐欺男が武道の達人だった可能性もあるんだ。警戒心のない人間は痛い目を見ると相場が決まっている」


 逮捕に貢献した一般市民に警察官がこんな手荒な真似をして良いのかと思う反面、不思議と腹は立たなかった。彼の主張は至極正しい。武道の達人でなくとも、ナイフや銃を持っていた可能性だってあるのだ。


「分かった。気を付ける」


 素直に頷く千早の横で、パクが「あんな蹴りができるなら詐欺なんかやってねえわ」と毒づいて、ミン巡査に小突かれている。


 手早く事情聴取を終えた警察官二人はパクをパトカーに押し込むと「ご協力ありがとうございました」と揃って敬礼をした。ミン巡査が運転席に乗るのを見計らってから、イ巡査部長は千早とアジュンを順繰りに見た。


「キンパ、とても美味しかった。ご馳走様でした」


 3人の間に沈黙が落ちる。


「何の話だ?」


 話が掴めない千早に、イ巡査部長は「気づいていなかったのか」と呟いてサングラスと制帽を取った。

 露わになった涼やかな双眸に千早は息を飲む。長い前髪はすっきりと後ろに流されているが、その整った相貌はよく見知った隣人のものだ。


「おまえ、ソヨン!」

「苗字は名乗ったし、声で分かっているかと」


 しれっと言ってのけるソヨンに千早は、いやいやと首を振った。


「韓国人の苗字は大体同じだし、喋り方だって全然違うだろ。普段着と制服で印象違いすぎだって」


 人間、誰しもオンオフの切り替えはあるものだが、落差が激しすぎる。

 呆気に取られたままの千早に、ソヨンは「印象?」と首を傾げている。自覚があるのかないのか知らないが、俄然、興味が沸いた。

 敬礼をしてパトカーに乗り込むソヨンに、千早は前掛けのポケットから取り出した割引券を突き出した。


「今度、食いに来いよ。アジュンの料理は何でも美味いんだ」

(注釈)

 語学堂:韓国の大学が留学生向けに設置している語学研修機関。

 ポッサム:茹で豚をキムチと一緒に葉野菜で包んでいただく韓国料理。

 韓国警察の階級:実際は日本とは異なりますが、読みやすさ重視で日本の階級と同じ表記にしています。

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