01 恋のはじまり
「それは、恋の始まりですね!」
最近隣に越してきた男が異様に男前なのだが、無愛想だわ深夜早朝に出入りするわで得体が知れなくて不気味なんだよな。
千早が授業前の空き時間に雑談混じりにそうぼやくと、大学の課題を広げていたリナが両の拳を握りしめて断言した。十代特有の水気を多く湛えた瞳が、蛍光灯の下できらりと光る。
この生徒はまた不可思議な妄想の世界に旅立とうとしているらしい。相手にするまいと、千早は教材に目を落とした。リナは不服そうに頬を膨らませる。
「ちょっと先生、無視しないでよ」
「おまえの腐った世界に俺を引き込まないでくれ」
「先に話を振ったのは先生でしょ! その隣人の美人さんは、先生がタイプなものだから緊張しちゃってきっと上手く喋れないんですよ」
どこをどう解釈すれば、無口で職業年齢不詳の隣人男性が恋する美人に変幻するのだろうか。
呆れを通り越して笑うしかない。
授業開始まで後5分、クラス一番の常識人であるソンさんが早く来てくれないだろうか。
窓の外を見やると、糸のような雨がまっすぐに降り注いでいる。風のない土曜の昼下がり。すかした窓から感じられる外気はじっとりと重い。
「この先の展開としては、泥酔して鍵を失くした隣人さんを先生が部屋に泊めるパターン希望です。あ、それよりも! 先生の方が泥酔してお泊まりして、湯上がり卵肌の隣人さんを我慢できずに襲っちゃうパターンもありかも。先生、飲み会の予定はありますか? 是非盛大に泥酔して鍵を落としてきてください!」
夢見るように両手を組んで話し続けるリナは、競争激しい韓国芸能界でも十分食べていけそうなレベルの美少女で、行儀悪く足を組む姿さえグラビアのようだ。こんな場末の語学学校に通っているのが不思議でしかない。
「俺を鍵なしっ子の強姦魔にしないでくれ。大体、美人だの卵肌だの言ってるが、ただちょっと顔がいいだけの男だぞ。挨拶しても能面みたいな顔のままで、愛想の欠片もないし」
喋りながら、千早は件の隣人を思い浮かべる。服装は大抵ジャージかスウェットだし、髪はセットされず自然のまま。顔立ちが良くともあれでは色気の欠片もない。
「先生。それは、お酒が入るとふにゃふにゃ可愛くなるパターンですよ」
口を挟んだのは、リナの隣でタブレットを開いていたマークだ。マッシュルームヘアの大学生で、手元の液晶画面には人体の構造的にあり得ないほど大きな胸に最小限の衣服しか身につけていないアニメキャラが上目遣いでこちらを見上げている。
「マーク、分かってるじゃない! それよそれ、いつもつんつんクールなのに、カレピの前では無防備で子供みたいなのよ!」
リナは年上のマイクの肩を遠慮なしにバシバシと叩いた。
「王道ですから。ちなみに僕のかつての嫁の亜実ちゃんも、外ではクールな優等生なのに家ではぬい好きのファンシー少女でした」
「ギャップ最高! 俺以外にそんな顔見せんなよ、とか言われてるの見てみたい! 尊すぎてしんどい」
リナは机に突っ伏して何やら悶えている。
最早ついていけない。そもそもこいつら、これだけ日本語で喋り散らせるなら、語学学校に通う必要ないんじゃないか。
千早が大きく溜め息をついた時、始業を知らせるブザーが鳴った。同時に、事務員が教室に顔を覗かせる。
「先生、さっき明洞で人身事故があって3号線が止まってるそうですよ。社会人組の皆さんは授業に遅れると連絡がありました」
腐女子の美少女とオタクのソウル大生。今日のレッスンはいつもより疲れそうだと、千早は肩を落とした。
***
仕事を終えると雨は上がっていて、雲の隙間から夕焼けが差し込んでいた。
アパートの外階段に足をかけると、濡れた鉄錆の匂いが立って、手元のプルコギの匂いと混じり合う。植え込みの紫陽花はしっとり濡れそぼり、花弁も葉も日の光に輝いている。花壇に植えたラベンダーの色も鮮やかで、今日は水をやらなくても良さそうだ。
従兄弟の経営する食堂でテイクアウトした夕食は、食い切れなかったら朝飯に食えと存分にサービスしてくれたので、ずしりと重い。階段を昇りきったところで、千早は足を止めた。
隣室の前で男が佇んでいる。柄もワンポイントもない白いだけのTシャツに、黒のキャップ。例の隣人だ。
まさか泥酔して鍵を失くしたんじゃないだろうなと思いつつ横を通り過ぎると、男はスマホの画面を注視している。
「よお、仕事帰りか?」
立ち振る舞いから同年代か年下だろうと見込んで気軽に話しかけると、男は素早くスマホをスリープにした。
「帰ってきたところなのに、また呼び出された」
いつもは挨拶と会釈だけだったので、センテンスで会話をするのは初めてだった。
男にしては高めの綺麗なアルトは疲労が滲んで覇気がない。土曜の夕方に仕事かつ呼び出しとは、医療関係者か何かだろうか。
想像を巡らせる千早の横で、男はポケットから鍵を取り出した。それを見て、千早は口元だけで笑う。
残念だな、リナ。鍵のドリームは起こりそうもない。
「そっか。大変だな、お疲れさま」
労いの言葉をかけて自室のノブに向かおうとした時、男の腹が盛大に鳴った。
恥じる素振りもなく、男は腹を押さえて「そういえば昼飯がまだだった」と独りごちている。
時刻は夕方5時を回っている。いつ挨拶をしてもおざなりに会釈をするだけの人形のような男だと思っていたので、腹の音になんだか人間味を感じた。
「部屋、食いもんあんのか?」
問うと、男は少し考えて「ブルダックがある」と答えた。
韓国の国民食であるインスタントラーメンは千早も好物だが、仕事前の食事としてはいかがなものか。
「キンパとチキンとプルコギ、どれが良い?」
ぶら下げたビニールの中身を見せるように開くと、男は首を傾げた。なんだかぼんやりしている。目元にはクマが浮いており、相当お疲れのようだ。
「一人分には多すぎるから分けてやる。従兄弟の店のだ。汚い店だが味は一級だぞ。あ、ベジタリアンとかじゃねえよな」
勢いで勧めたものの、よく知らない男から食べ物を与えられるのはどうなんだろう、断られたら若干気まずいななどと考えていたものだから、妙に早口になってしまった。
しばし黙してから袋を覗き込むようにした男は、「いい匂い」とすんと鼻を鳴らした。キャップから零れ落ちるまっすぐな髪が耳元ではらりと揺れる。
「いただいてもいいのか?」
「そう言ってるだろ。ちなみにキンパはスパムと卵入りだ」
遠慮しているのか決めあぐねているのか、黙してしまった男がじれったくて、千早はその手にキンパとプルコギの袋を握らせた。空いた手でポケットから財布を取り出そうとするのを、右手の仕草で止める。
「金はいらねえよ。押しつけみたいなもんだし」
「ありがとう。君の夕食を奪ってしまってすまない」
男は丁寧な口調で礼を言い、名はイ・ソヨンだと自己紹介をした。
千早も名乗って、その名に耳慣れない様子のソヨンに、韓国人だが日本とアメリカの血が混じっているのだと説明する。よろしくと握手を交わしたソヨンの手は、長い指の節にタコがあった。
「仕事、頑張れよ」
「ありがとう。お礼は必ず」
ソヨンは二度目の礼を述べるとキャップを取り、千早と視線を合わせた。疲れを滲ませつつもなお涼やかな瞳が千早を捉え、やわらかく微笑む。
無機質な男だと思っていたのに、それだけで二人の間の空気がほころんだ。小花がゆっくりと花開くような静かな微笑に、千早のこめかみがつきりと痛んだ。血の巡りが、なんだかおかしい。
その場にいるのが急にいたたまれなくなって、千早は「じゃあな」と無理矢理に声を押し出して、自室に足を向けた。




