最終回 「逃避の代償」
両手に抱えたトロフィーが、かつて経験したことがないほど重く感じたのは、はたして重量のためだけだったろうか。
男は結局、最後の一回を自分のために使った。
後悔はしていない。ライバルに勝利し偉業を達成することが、妻に「自分も負けていられない」と病魔に打ち勝つ力を与えるのだから。逆に、もし敗れたなら、彼女は「やっぱりダメなものはダメなのね」と思うだろう。
医者は言っていた、本人の生きようとする強い意思が大切であると。だからこの決断は正しいのだ……
が、男の予想――実際には願望なのだが――に反して妻の容態は急速に悪化する。夫の偉業を見届けたことで、かえって「もう思い残すことはない」と、生きる気力を失ってしまったのである。
選択肢を間違ったことに気づいてももう遅い。ほどなく妻は死んだ。
高額の賞金を稼ぐ男のパートナーであり、確かに経済的には恵まれていた。が、もし消しゴムの件を知ったとしたら、彼女は自分の人生を幸せと言っただろうか。
男は酒に溺れるようになった。
睡眠薬を酒で流し込み、死んだように眠る。
むろん翌年の戦績は目を覆わんほどのものであったが、周囲の反応は同情的であった。最愛の妻の死にショックを受けたせいであろう、と。
確かにそれもなくはない。
しかし、男を追いつめていた要因は他にあった。
欲のために詭弁を弄し、妻を見殺しにした罪悪感。
消しゴムの力を借りねば、ライバルに勝てないと思った敗北感。
自分の領域に若くして辿り着いたライバルへの嫉妬。
消しゴムを無闇に使わず、温存しておけば良かったという後悔。
誰それがいなければあの時消しゴムを使わなくて済んだのに、という怨嗟。
そういったどす黒い感情が、絶え間なく脳裏をよぎるのである。酒でも飲まねば耐えられるものではなかった。
度を超えた飲酒のせいかは不明だが、やがて男は幻覚を見るようになった。恨み言を述べる妻が、母を見捨てたことを詰る子供らが、消しゴムの力に頼った自分を嘲笑するライバルが、いつでもどこでも何度でも現れては消える。
男は表舞台から遠ざかっていった。
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ショッピングモールのベンチで呆けたようにしている、くたびれた初老の男性。この姿を見て、かつてひとつの分野で頂点を極めた人物と分かる者がどれほどいるだろう。
幸いにして子供らは独立し、それぞれ上手くやっている。男はもはや惰性で生きているに過ぎなかった。医学的に生命活動が持続しているというだけだった。
しばらくして、男が億劫そうにベンチを立つ。
向かったのは例の文房具店だった。まだ同じところにあった。世間はペーパーレス化が進んでいるが、それでも決して需要が尽きることのない業種である。
言うまでもなく、あの消しゴムがまた入手できないか、と期待しての行動である。自分に都合のいい考えへの逃避は、この歳になっても変わっていなかった。
藁にもすがる思いで、何度も訪れた売り場。だがこの日、男は目を見開いた。
全身の血液が沸騰したように熱くなり、心臓は早鐘のように鼓動した。久しく忘れていた感覚だった。
あの消しゴムだ!
帰宅した男は、すぐさまノートに「妻が病気で死んだ過去」と書いて、消しゴムをかけた。
その夜、男は数年ぶりに酒の力を借りず眠りについた。きっと目が覚めたら、妻が横ですやすやと寝息を立てているだろう。いや、彼女に起こされるかもしれない。久しく忘れていた、深く、安寧な眠りであった……。
妻の遺影は、変わらず美しかった。
取り扱い説明には、「大抵のこと」は消せるとあった。「なんでも」ではないのだ。
生かすのは殺すより難しい。病気を防げなかったのと同様、死んだ人間を生き返らせるのは、さしもの消しゴムも力が及ばないのだろうか。
もう二度と、美しく優しかった妻を抱きしめることは叶わないのか。もっと話したかったこと、行きたかった場所、してやりたかったことがあったのに。
いや、違う。きっと書き方が悪かったのだ。
そうであってほしい。
そうに決まっている。
そうでなければおかしい。
男は言葉を変えて、同じ内容を何度も書いては消しゴムをかける。なにひとつ変わりはしない。
気がつけば眼前には、無数の文字を消した跡が残るノートと、山のような消しカスが散乱していた。そして仏壇には相変わらず、美しかった頃の妻の遺影があった。
男は慟哭し、のたうち回った。望みの結末が得られなかった憤りと、こんなことになるなら自分のために使えばよかったという後悔が狂おしいほどにこみ上げ、全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。正気を失っていた。
何もかもが厭になった。消えてしまいたかった。しかしもう消しゴムはない。
そこではたと思いついた。そうだ、消しゴムなどなくても、自分を消すなどいとたやすいことではないか……。
男はキッチンからコップを二つ持ってきた。そして個包装になっている睡眠薬をすべて開けて片方のコップに満たし、もう一方のコップには、なみなみと酒を注いだ。
【完】