第一話 「不思議な消しゴム」
一見して、その男に好感を持つ者はそう多くなかろう。
決して醜面ではない。美男とまではいかずとも、贔屓目に見れば平均よりほんの少し端正な部類ではある。しかし、清潔感に欠けるだらしない服装と、何よりその仕種が、わずかな長所を台無しにしていた。
不機嫌そうにしかめた眉はどことなく世を拗ねたような陰気さを感じさせ、ねめつけるような眼差しには行き場のない不平不満をぶつける相手を探しているかのような剣呑さがある。
見た目からして警戒心や嫌悪感を抱かせる男であった。
ショッピングモールに入った男は、スマホを手に取った。近くで見れば無数の細かい傷があり、端っこも欠けているのが分かるだろう。
そしてすぐに電源を切る。見えるところに時計がなかっただけらしい。
男は不機嫌そうに、また周囲を威嚇するように、どかりとベンチに――周囲には女子供しかいなかった――座った。弁当や惣菜に値引きシールが貼られるには、まだかなりの間があった。時間を潰さねばならない。
人は腹が減れば怒りっぽくなる。加えて、生活の困窮が心の余裕を奪っていたのだ。
新型感染症の流行によって父が失業。経済的理由から大学進学を諦め、今は某大企業の自動車工場で働いている。
それとて非正規雇用、契約を打ち切られる恐怖は常にある。追い討ちをかけるのは、果てしなく繰り返される増税と値上げ……
明日が見えない。
真綿で首を絞められるように、じわじわと体力を、気力を、命そのものを削り取られる毎日。
他人の都合ひとつで、いつギロチンの刃が落ちてくるか分からない人生。
まだ若く、本来なら希望にあふれた年齢のはずなのに。
なぜこうなったのか。
なぜ俺がこんな目に遭わねばならぬのか。
世の中には家柄や才能など、生まれつき恵まれた者もいるのに……!
そんな鬱憤が、隠しようもなく溢れ出ていたのである。
男は作業服のチェーン店で買った安物のバッグから、ノートと百均のペンケースを取り出した。小さな亀裂が走った蓋を開けて、はたと男の手が止まる。
消しゴムがない。切らしたのを失念していた。男は舌打ちしてノートとペンケースをバッグに戻し、文房具売り場へと向かう。棚を見たとき、あるものが男の目に留まった。
新製品だろうか、見たことのない消しゴムであった。陳列ミスか、誰かが手に取って戻したのかは知らないが、小サイズの消しゴムの中にひとつだけ大サイズのが紛れていたから目立ったのだ。蛍光オレンジの紙ケースに、最近よくある手書きふうのフォントで、
「何でも消せるわけじゃないけど、大抵のことは消せる消しゴム」
と黒い字が印刷してあった。レスキュー隊員の防護服や悪天候時に使用するサッカーボールにも使われる視認性の高い色のケースに加えて、大抵の「もの」でなく「こと」と書かれていたのも目を引いた一因かもしれない。
側面には七十七円との表記があった。ラッキーセブン? えらく半端だがお試し価格だろうか。
まあいい、この大きさでこの値段ならお得だ。どうせ消しゴムなどどれも品質的には大差ない。男はレジへ向かった。
再びベンチに戻り、ノートを手に取る。
包装を解くため消しゴムをくるりと回すと、紙ケースの裏面が目に入った。
「特殊な消しゴムです! 使う前に必ず検索してください! 検索→『何でも消せるわけじゃないけど、大抵のことは消せる消しゴム』」
男はスマホを取り出した。ゲームソフトを買ったら、プレイする前に説明書を全部読む質である。
なんのことはない。いわゆる都市伝説を装った宣伝だった。いわく、
「ノートに『消したいこと』を書いてから、この消しゴムをかけます。消せることなら消えます」
「消しゴムの効果は一回だけです。消しカスを集めてもう一度使おうとしても効果はありません」
「文字をわざと大きく書いたり小さく書いたりしても効果はありません。あなたの自然な字で書いてから消してください」
など、他愛もない文言が踊っていた。おおかたメーカーにオカルト好きなスタッフでもいて、ジョークのつもりでこんな広告を思いついたのであろう。
そのとき、男の脳裏に、ふとひとつの考えが浮かんだ。冗談には冗談で返す……という訳でもないが、ほんの気まぐれ、ちょっとした現実逃避の気晴らしであった。男はノートに、
「俺が経済的に困窮している現状」
と書いて消しゴムをかけた。
文字は消えた。当たり前である。シャーペンで書いたのだから。もし広告が「本当」なら、これで経済的困窮から解放されるはずだった。ある種の空想遊びである。
そこで男は「猿の手」の話を思い出した。
三つまで願いを叶える猿の手。しかしその願いは、必ず思いもよらぬ不幸を伴って実現されるのだ。
なので、男は宝くじ売り場へと向かった。だが財布の中身という意味でも、くだらぬ現実逃避にかける捨て金という意味でも、十枚一組のくじを買う気にはなれない。買ったのはサッカーくじを一口だけ、三百円。週末の対戦カードと、どちらが何点差で勝つかがランダムに記されているものだ。それにはこう印刷されていた。
アンフィニ名古屋とジュラーレ仙台の試合は名古屋が二点差以上の勝利。
ブラオヴィーゼ札幌とコルミージョ大阪は引き分け。
東京エスパーダと静岡フェリスは静岡が一点差で勝利、などなど。
男はJリーグ関連のサイトを覗いてみた。このくじは試合前におおよそ予想がつく。
男の顔が、またぞろ不機嫌そうに歪む。
記事をいくつか見てみよう。さて名古屋のコーナーは?
「泥沼の六連敗……。J2降格の悪夢再び!?」
「水谷監督の采配に疑問符。サポーターが更迭の署名運動を開始」
「中盤の要エジウソンが負傷。復帰は二ヶ月後」
一方、二点差以上で負けるとされている仙台は。
「ウルグアイ出身エストラーダ、得点王争いトップを独走!」
「MF倉木、欧州挑戦秒読み。ドイツの名門クラブが接触を公式発表」
「若手GK佐々木が好調。四試合連続無失点。代表入りを強烈アピール」
なるほど、これで前者の勝利を予感できる者は少なかろう。他の記事も似たり寄ったりで、最初から当たらないよう細工でもしているのかと疑いたくなるほどだった。
もともと気晴らしの言葉遊びであり、当たることを期待してくじを買ったわけでは無論ない。が、だからといって当たる可能性がほぼないと知って面白いはずはなかった。
男はそれっきりこの件を頭から追い出し、食料品売り場へと足を向けた。そろそろ値引きシールが貼られる頃だ。
数日後……
スポーツ新聞には「アンフィニ、4ー1で快勝! J1残留へ大きな勝ち点3」の文字が踊っていた。
新型感染症云々は話の題材として少し古いが、下書きのまま放置してただけで書いたのはだいぶ前だから仕方ない。