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あの日の、海。

作者: 小石川太郎

幻は、辛い心を救ってくれる、魂の救済者。

魂は、永遠に消えることのない、家族の絆。

海は、そのすべての、源。

あの日の海は、いまもそこにある。

 拓海は海を見ている。僕はまだ幼さの残るその拓海の横顔に、日奈子の面影を見ている。親子二人だけで迎える二度目の夏。あの日と同じ海からの風に吹かれながら、僕達はこの浜にいる。

僕と日奈子が出会ったのは、今から十五年前の夏、この海だった。その記憶は今も鮮明に蘇る。あの日、僕は沖に浮かぶオレンジ色のブイを目指して泳いでいた。白砂の海底に自分の影が映るほど水は透明で、水面から顔をあげると、視線の先には、海と空だけのブルーの世界が、どこまでも広がっていた。

 沖に向かうにつれ水温が下がっていくのを感じながら、僕はクロールでゆっくりとブイを目指して泳いだ。しばらくすると、海底に

もう一人、別の誰かの影が現われた。影の方向に目をやると、黒いビキニ姿の女性が、美しいクロールで泳いでいた。二人はそのまま並ぶようにして、沖に向かって泳ぎ続けた。

「きれいな海ですね」たどり着いたブイに掴まりながら、僕が彼女に言った。

「まるで宙に浮かんでいるみたいでしょ」と、同じブイに掴まりながら、彼女は僕に応えた。ここまで来ると浜辺の喧騒は消え去り、聴こえるのは、ブイに打ち寄せる小さな波音と、入江を囲む森から届く遠い蝉時雨だけだった。

「地元の方ですか?」彼女のその巧みな泳ぎに、僕は訊いてみた。

「いえ、東京からです。忙しいお盆の時期だけ、親戚の民宿を手伝いに来ているんです」彼女はゴーグルを額に上げながら、端正な顔立ちに美しい笑みを湛え、僕にそう言った。それが僕と日奈子の、最初の出会いだった。

 短いバカンスから東京へと戻り、その夏が終わりを告げる頃、僕と日奈子は東京で再会をした。マーメイドは陸に上がっても美しく、僕を魅了した。やがて、冬の訪れを待つことなく、二人は恋人と呼べる関係になった。

大学を卒業して社会人になり、その後の幸福な数年間を経て、ごく自然な流れとして、僕達は結婚をした。

 あの海での出会いから始まる日奈子との時間は、今も僕の中で宝石のように眩しく輝いている。大切な人達に祝福され挙げた結婚式の日のこと。最初に暮らした川辺の街での生活。拓海が生まれた時の歓喜。その拓海の成長とともにあった、幸せな時の数々。そして、突如として見舞われた病。それを克服するために日奈子が重ねた勇気ある戦いの日々。そのひとつ一つは、そこに居た彼女の姿とともに、僕の心の中で生き続けている。

 日奈子、僕と拓海は、君と出会った海に来ているよ。ここに来るのは正直怖かった。君の居ないこの海を、僕は受けとめる自信がなかった。でも、拓海が来てみたいと言ったんだ。君と僕が出会った海を、見てみたいと。

「ねえパパ、あの沖に浮かんでいるブイなの?パパとママが知り合ったのは……」拓海が僕に訊いた。

「そうだよ。あの左から三番目のブイに向かって泳いでいる時に、ママはパパの前に現れたんだ」真っ青な海に並んで浮かぶオレンジ色のブイを見ながら、僕は拓海にそう言った。

「あのブイまで、僕も泳いでみたい……」僕は、拓海を見つめた。訪れる風に揺れる彼の柔らかな巻き髪が、日奈子とあまりにも似ていて、僕はうっかりと、その拓海の言葉をやり過ごしてしまうところだった。

「ねえ、ダメ?」拓海が僕の方に顔を向けながら訊いた。幼い頃からスイミングスクールに通っているとはいえ、拓海はまだ小学校四年生だ。僕は返事に迷った。しかし、

「ママの泳いだ海を、僕も泳いでみたい……」そう言った拓海の気持ちを思いとどまらせる言葉を、僕は持ち合わせていなかった。

「ちゃんと、準備運動をしてからだぞ」僕がそう言うと、拓海は、「うん」と言って頷き、砂浜に立ち上がった。

 日奈子が突然の病に倒れたのは、拓海が小学校に入る直前のことだった。入学式に向けて、拓海の持ち物に名前をつけていた深夜のリビングで、日奈子は身体の不調を訴え、総合病院に緊急搬送された。そのまま入院となり、繰り返し行われた検査の結果、僕だけに告げられた病名は、想像すらしていなかった、辛く、厳しいものだった。

「なんか、ちょっと自信がなくなっちゃったな。拓ちゃんが大人になるの、見られるのかな……私」二週間に及ぶ入院の末、ようやく仮退院の許可が下りた日、自宅に向かう車の助手席で、日奈子は小さな声で、そう言った。

「先生も、新しい薬が出てきているから、じっくり病気と向き合っていきましょう、と言っていただろ。大丈夫、考え過ぎだよ」僕はそう言って日奈子を見た。彼女は手の甲を口に押し当てるようにして、泣いていた。五月晴れの下に広がる眩しい街の風景が、今は心に痛く映り、僕達は沈黙のしじまに身を寄せあうようにして、拓海の待つ家へと向かった。

 日奈子の病状は、最初のうちは一進一退を繰り返した。しかしゆっくりと確実に、病は日奈子の身体に重くのし掛かり始めていた。

 拓海が二年生になる頃には車椅子が必要になった。それでも日奈子は体調と相談をしながら、可能な限り学校行事にも参加して、拓海の成長を心にしっかりと焼きつけようとした。家族で旅行にも出かけた。

日奈子の両親が、拓海を遊園地に連れて行ってくれた秋の一日、僕達は二人だけで、この海を訪れた。日奈子はその時、「私、あんな遠い所まで泳いでいたのね……」と、沖に浮かぶブイを見ながら、僕に言った。

「病気が治ったら、今度は拓海と三人で行ってみよう」僕のその言葉に、彼女は淡く微笑んだだけで、何も言わなかった。

弱音を吐くこともなく、目の前にある一瞬一瞬を全力で生きる日奈子の姿に、僕は奇跡を信じ続けた。しかし、拓海を抱きしめるその指先の力は、日に日に衰えていった。

「拓ちゃんのことを、よろしくね」拓海が主役を努めた小学校の演劇会の帰り道、車椅子を押す僕の手にそっと指を乗せ、囁くように、日奈子はそう言った。隠し通してきたつもりでも、彼女は、もはやすべてを知っていた。

「日奈子も一緒に居てくれなきゃ、だめなんだよ……」その僕の言葉に、日奈子はまるで気のせいのように、小さく頷いた。

その年のクリスマスの夜、日奈子は神の元へと旅立った。

「ママ、少しだけ眠るね……」僕と拓海に最後にそう言って、日奈子は静かに目を閉じた。そして、二度と目を醒ますことはなかった。

ブイを目指して泳ぐ拓海は、知らぬ間に逞しく成長していた。親の心配をよそに、いともたやすく、拓海はブイまでたどり着いた。

「ここなの?パパとママが知り合ったのは……」あの日の日奈子と同じように、オレンジ色のブイに掴まりながら、拓海が僕に訊いた。

「そうだよ。この場所だよ」

「ママもこの海を泳いで、ここまで来たんだ

ね」ブイに寄せる小さな波音。遠く聴こえる

蝉時雨。時が巻き戻ったような錯覚を覚えた。

「僕、来年もまた、ここに来るよ」あの日、日奈子が見ていたのと同じ景色を眺めながら、拓海はそう言うと、くるりと向きを変え、再び浜に向かって泳ぎ出した。

 大きなうねりの中を泳ぐ拓海のフォームは、日奈子とそっくりだった。僕はすぐそばに日奈子が居るのを感じた。その時、海底に映る自分の影の横に、誰かの淡い影がそっと寄り添うようにして現れた。その影は僕と並ぶように泳ぎ、どこかへと消えていった。周りに人影はなかった。気のせいだったのだろうか。もう一度視線を海底に戻すと、そこには、海に漂う自分の影があるだけだった。

「また、拓海と、来るからね」僕は心の中で日奈子に約束をした。拓海は眩しい夏の浜を目指して、泳ぎ続けている。その姿を見失わぬように、僕は海に射し込む陽光を懸命にかきわけながら、その後を追いかけた。


そこにあった魂は、永遠に消えることはなく、この宇宙のどこかで存在しつづけているではないかと感じます。そしてまた、自分の魂も再び、その場所へと戻っていく気がしています。だから、今という時を、楽しみ、慈しみながら、私は生きるべきだと、日々思っています。

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