ゴール
今日も俺は真夜中の道を、街灯頼りに帰路に着く。
大家がケチって直してくれない暗い共用廊下を歩き、自分の部屋の鍵を手探りで開ける。
最初の頃は手間取っていたが今では慣れたものだ。
部屋の電気をつけると6畳1Kの部屋が姿を現した。
俺はどさりと荷物を放り投げ、机の上に転がっていた煙草に火を点ける。
肺一杯に煙を吸い込み、勢い良くフゥッと吐き出す。
頭がクラクラするが、疲れた体に鞭を打つ感覚が止められない。
35歳、独身。
大学生の頃、必死になって就活して、決まったのはガチガチのブラック企業。
入ってすぐに後悔し、同期は次々と辞めていったが、一から仕事を探す度胸もなく、俺は耐える事を選んだ。
そうこうしてるうちに早十数年。
それで特に変わった事もなく、毎日のように終電近くまで残業し、家に帰ると死体の様に眠り、朝の6時には家を出る。
最初は苦しかったが、今では何も感じない。
陸上に明け暮れていた学生の頃に比べて、肌にハリは無く、目の下のクマは染みつき、宝だった肺を傷つける事に快楽を覚える。
――そんな男に、俺はなった。
つまらねぇ。つまらねぇ。つまらねぇ。
そう思いつつも、何も変えられないのが俺なんだ。
俺は無駄な思考をさっさと放棄し、冷凍庫から冷凍パスタを取り出すと、そのまま電子レンジに突っ込んだ。
タイマーを適当に設定し、開始させる。
完成を待つ合間にノートPCの電源を入れ、適当にネットニュースを漁る。
テレビは何年も前に壊れたっきり買い直してはいない。
今はネットがあれば特にテレビなんて見る必要ないしな。
ネットでトップニュースを飾るのは芸能人の何とかって奴と何とかって奴が結婚しただの離婚しただのそんな話が多い。
「こんなクッソ下らねぇ話ニュースにするなんて俺が言うのもなんだが、頭イカれてるよなぁ」
有名かなんだか知らないが、見たことも聞いたことも無い奴の結婚や離婚に何のニュース性があるんだ?
『おめでとうございます!』とでも言えば良いのか? 勝手に言ってろ。
何か有名になったからって偉くなったと勘違いしてんのかねぇ。
――ま、結婚にも離婚にも縁がない俺のような奴が愚痴ったって唯の僻みにしかなんねぇけどよ。
俺は詰まらない情報を頭から消し去るかの如く、もう少しアングラな情報を探しにネットの海を潜る。
そして、俺は出会ったのだ。
久方振りの興味の湧く、面白い情報に。
それは簡単に言うと、イベントの告知だった。
『○月XX日、○○駅で陸上競技イベントを開催します。
競技内容は至って簡単。スタート地点から障害物を躱し、ゴールに辿り着ければアナタの勝ち。
参加資格は不問。誰でも参加可能です。
得られる報酬は、鬱屈した日々からの開放、”自由”です。
連絡先は……』
俺はこの告知に異常なほどの興味を掻き立てられた。
このクソつまらねぇ毎日から開放される”自由”だって? これこそ俺の望んでいたものじゃないか。
もう暫く陸上競技から遠ざかっていたが、久し振りに俺の心に火が灯った。
灰皿から紫煙を燻らせている煙草を捻り消し、すぐさま俺はスマホを取り出して主催者に電話をかけた。
後方で微かに『チンッ』と電子レンジが俺を呼ぶ音を鳴らしたが、俺にはソレは聞こえていなかった。
-----◆-----◇-----◆-----
イベントの告知を見た数週間後。
俺は、目的の〇〇駅の近くの公園にジャージ姿でスタンバっていた。
此処が主催者から告げられたスタート地点だ。
この数週間、走る勘を取り戻すために貯まりに貯まっていた有給を無理やり消化し、トレーニングに努めてきた。
すぐ息が切れるので走るのに邪魔だったから煙草も止めた。
寝不足だと身体の動きが悪くなるので早めに寝るように心がけた。
そのお陰か、俺は久し振りに健康的な身体を手に入れていた。
自分の歳もちゃんと理解しているので、準備運動は念入りに行う。
元陸上選手として、準備不足で脚の腱が切れたり肉離れする、なんてプライドが許さないからな。
ストレッチをしながら周囲を確認すると、公園にはおそらく俺と同じくイベントに参加するであろう人達が続々と集まってきていた。
中年太りしたおっさん。
ベンチでお茶を楽しんでいる老人。
10-20年台の若者も性別関係なしに参加している。
俺を含めて8名ってとこかな。
「やぁ、あなたもイベントに参加されるんですか?」
そのうちの中年のおっさんが俺がストレッチをしている姿を見つけて声をかけてきた。
「えぇ、あなたも?」
「はっはっは。そうなんですよ。いやぁ、一週間ほど昔に戻った気分で鍛えてみたんですがね、これがなかなかうまく身体が動いてくれなくて!」
俺が参加者だとわかると笑いながら話をするおっさん。
そうしていると、周囲の人達が集まってきた。
「なに? おっさん達もイベントに参加するのか?」
「じゃあ、仲間ですね! 完走に向けて頑張りましょう!」
「ふぉふぉ、若い子らに負けんようにせんとなぁ」
ストリートミュージシャンのような髪型の青年、清楚な長袖を着て文学少女然とした高校生ぐらいの女の子。そしてニコニコ笑う好好爺。
何とも和気あいあいとした雰囲気だ。
それもそのはず。このイベントは別に参加者達が競うものではまったくない。
むしろ逆。障害物を超えていくための仲間みたいなものだ。
若い頃の陸上競技では余り味わえなかった感覚に、俺の頬も自然と緩んでくる。
しばし会話をしていると、俺のスマホがブルブルと震えだした。
見ると他の人達も同じようにスマホを取り出して画面を確認している。
――さぁ、イベント開始の時間だ。
「では、途中までは一緒に軽く流しますか。障害物のゾーンに到達したら各自頑張るってことで」
「いいぜ!」
「分かりました!」
「ふぉふぉ」
おっさんの意見に賛同した俺達は、ゆっくりと目的に向かってジョギングを開始した。
周囲の参加者もそれに合わせて、同じように走り出したようだ。
「いっちに!いっちに!」
「「「「ファイオー!」」」」
掛け声に合わせて皆が声を出している。
なんか学生時代の部活をしてるみたいな気分になってきた。
「私、部活とかって参加したことなかったので、こういうのちょっとだけ憧れてたんです!」
文学少女は少しはにかみながら、そう俺に話しかけてきた。
「ははっ、そりゃ良い経験になったな」
「はいっ!」
文学少女がとても楽しそうで何よりだ。
俺達はそのまま掛け声を出しながら駅の改札口に到着する。
ジロジロと見られているが、周囲から見れば奇妙なサークル活動にも見えてるかな。
「それじゃあ、障害物ゾーンのスタートです! 皆さん、ゴールへ向けて頑張りましょう!」
「「「「おうっ!」」」」
そして、それは唐突に開始された。
俺たちは駅の構内に向かって勢いよく走り出した。
まずは、ハードル走だ。
俺は改札口に向けて突っ走り、改札口を通らずにその上を飛び越えるように通過する。
『ビィー!!』という音が後方から聞こえるがそれは俺が上手くハードルを超えられた事を意味している。
駅員が声を荒げて停止するように叫んでいるが無視だ。
俺の後ろからも同じようにハードルを越えてるのだろう。喧々囂々とした騒ぎになっているがそんな事お構いなしに俺は駅の中を突っ走る。
人々はコースを塞ぐ障害だ。
俺は華麗に躱しながらゴールへ向かって突き進む。
おっと、厄介な駅員による妨害だ。
俺はフェイントを交えながら捕まらないように障害物を躱してゆく。
ハハッ! 身体が軽い! まるで十代の頃に戻ったかのようだ。
『まもなく、列車が通過します。白線の内側までお下がりください』
俺はホームへ通じる階段を一足飛ばしで駆け下り、ゴールを目指す。
「はなしてッ! 私は完走したいの!」
その途中、文学少女が階段を降りようとする直前で駅員の1人に捕まっているのが見えた。
ミュージシャン風の青年が掴んでいる手を払いのけようとしているが、障害物が集まってきて難航している。
俺は軽く舌打ちして下りた階段を駆け上がり、その勢いで障害物を殴りつけた。
ピシリッ、と殴り慣れていない拳の骨にヒビが入った感触を感じながら、俺は文学少女の腕を掴み階段を駆け下りる。
「俺の分までッ! ゴールしてくれッ!!」
後ろから青年の声が聞こえてくる。
振り返る余裕の無い俺は後ろ手にサムズ・アップをし、文学少女と共にホームへ降り立った。
『列車が通過します。白線の内側までお下がりください』
「はぁ、はぁ」
「休んでる暇なんか無いぞ? もうゴールは目の前だ。行けるな?」
俺が手を差し出すと、文学少女はしっかりと俺の手を握り返した。
長袖が捲れ、一瞬彼女の勲章が露わになった。
「は、はいっ! あなたについていきます!」
「よし! いくぞ!」
距離にして100メートルもないゴールまでの道程を俺たちは手を繋いで駆け抜ける。
汗が滲み、息が上がる。肺が破裂しそうだ。
それでも、俺達は今、生きている!
「「ゴールだ!!」」
俺達はゴール地点の目印である白線を越えて――線路に飛び出した。
物質的入れ物である身体が地に堕ち、魂のみが浮き上がる。
そんな浮遊感を感じながら、妙にゆっくりとした刻を過ごす。
ほぼ同タイミングで中年のおっさんもゴールをしていたのか、俺の視界に同じように線路に身を投げ出しながら最高の笑顔のやりきった姿が映った。
「ああ――これで”自由”だ」
俺は文学少女を抱きしめ、疲れと高揚感の中、崩れ落ちた。
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『――本日午前8時頃、〇〇駅のホームで集団投身自殺が発生。6名が亡くなられました。通報を受けた警察が現場を検証していますが、身元調査は難航しているようです。
警察は事情を知ると思われる男性老人から聴取を行っていますが、『アイツらに最高のプレゼントを送ってやっただけだ』という意味不明の供述を繰り返すのみで――』
「……次は俺の番だ。ゴールの先で待っててくれよな、おっさん」
※ この物語はフィクションです