プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
海斗は全身を襲う強烈な痛みによって目を覚ました。その痛みに堪えつつ目を開く。しかしその目に映ったのは、全く知らない光景だった。
薄暗くて少し埃っぽい。右手の方から僅かに入る光を頼りに辺りを見回す。……どうやらドーム状の中にいるらしい。匂いから察するに木の中をくり抜いたかのような。
元々着ていたTシャツの代わりに、包帯が巻かれた上半身を起こす。肋骨と臀部にズキっと鋭い痛みが走り思わず床に手をついた。
カサカサとした乾いた手触り。手元に目をやると、そこには枯葉があった。海斗を取り囲むように枯葉が敷き詰められている。……寝床、なのだろうか。それにしてはあまりにサバイバル的過ぎるけれど。
それから首だけで右を向くと、人一人がギリギリ通れそうな穴があった。ここから光が入って来ているが外も薄暗いためあまりあてにはできない。というか霧がかかっているようで、外は何も見えない。その微かな光も海斗の元に届く頃にはさらに細く、糸のように落ちるだけで、それはあってないようなものだった。
薄暗い中、動くと全身が痛むので再び仰向けになり、じっと考える。どうしてここにいるのか。この全身の傷はなんなのか。
…………分からない。分からない、というより知らない。何があったのか、何が起こったのか。思い出すとか以前に知らないものは思い出せないのだ。
いや、今の状況に思い当たる節がある、というか類推くらいは出来るのだけれど、あまりに可能性があり過ぎて、どれも違う気がする。もっと他に可能性が、海斗では考えられない可能性こそが答えだという気がする。
まあ今のこの状況自体予想通りの想定外、って感じではあるけれど。
……これくらいは覚悟していた。海斗の命くらい容易く狩られる、と。けれど、この怪我をするまでの過程が分からないというのは、奇妙というか気味が悪いというか、いや、単純に怖い。敵の姿が分からないというのは。
そもそも敵がいるのかどうか、この怪我が人為的なものかどうかすらも分からないところだけれど。案外すっ転んだだけなのかもしれない。どれだけ派手に転べばこれだけの怪我ができるのか、想像もつかないけれど。
ただ、一つ確かなことがあった。こんな何処かも知らない場所で、何が起こっているのかも分からない状況で、それでも揺るぎのない事実。
この包帯。全身を締め付けるこの包帯。どこかの誰かが巻いてくれた包帯。少なくとも、海斗の身を案じて介抱してくれた人がいるのだ。
海斗の身を案じての行動かは分からないけれど。人かどうかも分からないけれど。やはり何もかも分からないけれど、それでも海斗を助けてくれたことは紛れも無い事実だ。
いや、可能性の話をするのなら、ただの捕虜、ということもあり得るのか……。ほんと、どういう状況なんだ。
そんな謎が謎を呼ぶみたいな、もつれ合って絡み合って、全くスッキリとしない海斗の思考を嘲笑うように、外の霧が晴れた。ドーム状の側面に、ポッカリと空いた穴から入る光量が増え、目の前を漂う埃がハッキリと見えるようになる。
その穴の外には緑色の世界が広がっていた。というより雑草で穴が覆われていた。
海斗は全身の痛みに耐えつつ、カサカサと落ち葉の擦れ合う音を聞きながらその穴に這い寄る。そしてその穴に手をかけ、雑草を掻き分け、外の様子を確認するため顔だけを出す。
ふわっと穏やかな風が海斗の頬を撫でる。それと同時に甘酸っぱい、柑橘類のような匂いが海斗の顔の周囲を包んだ。雄の本能に訴えかける良い匂い。無意識に、その匂いに引っ張られるように顔が前に出る。
その匂いの出どころを辿って。遡って。
お掃除ロボットは何かにぶつかると動きを止めて進行方向を変えるけれど、今の海斗の動きはそれと全く一緒だった。
呪いを受けたかのように首を伸ばし続けていた海斗は、鼻先にコツンと当たった何かによって動きを止めた。我を忘れて本能のままに嗅覚を働かせる、という呪いも同時に解けたらしい。
そこには人の顔があった。鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離に色白な少女の顔があった。というか鼻での初ちゅーを、絶賛奪われ中だった。いや、奪っているのか……?
当惑する海斗の視界にくりっとしたエメラルドグリーンの大きな瞳が映る。
「わあっ!」
そう叫んでその少女は尻もちをついた。またも甘酸っぱい良い匂いに襲われる海斗。しかし、美少女と鼻先を小突き合うという展開についていけず、首を動かすどころか固まってしまった。
尻もちをついた少女の傍らに、元々少女が持っていたであろう木の籠が落ちてきた。その中から青い木の実が飛び出し、海斗の方に向かってゴロゴロと転がって来る。その木の実を呆然と眺めた。
それから、体の後ろに手をついて開脚させている少女を眺める。こちらも尻もちをついて動けなくなっている。目を見開いて今もなお固まったままだ。海斗と鼻キスをしていることに気づき、驚いて叫んだ時に撮った写真を未だにその顔に張り付けている。
……どうやら同時にこの穴を覗いたらしい。
ようやく落ち着いて来た海斗はそう結論づけた。
しかし、出した首を使って見回す限りジャングルの中のようだけれど、海斗が今いるところが木の中であることの確証が取れたけれど、それなのに。
その少女はタンクトップにミニスカートという格好で、純白のパンツと併せて手足の大部分をさらけ出している。それは長いツタや草木が生い茂る風景とはいかにも不釣り合いだった。というよりあまりに無防備だった。衛生的にも倫理的にも……。
「えっと、大丈夫? 手首とか捻ってない?」
まだ硬直している少女にそう言って穴から出ようとしたけれど、
「いってええ!」
再び海斗の全身を激しい痛みが襲った。他人の心配をしている場合じゃない……。
しかし、その叫び声で尻もち少女の意識も戻ったらしい。
「あ、私は大丈夫ですので! 無理しないで下さい!」
わなわなと不規則な円を描く手の動きに合わせて長い銀髪も上下左右に揺れる。結ばずに垂れ流している髪も、とてもじゃないけれどジャングルに適しているとは思えなかった。
それにしてもエネルギッシュな子だ。静と動、どちらのリアクションにしてもいちいち動きが大きい。単に、笑い上戸ならぬリアクション上戸というだけの話かもしれないけれど。
それから銀髪の少女はすぐに木の実を拾い集め、
「それよりあなたの方こそ怪我は大丈夫……じゃなさそうですね……」
パタンと倒れ伏し、顔だけ少女の方に向ける海斗に向かって言った。
「ヤバい、体のあちこちが痛い。もげそう」
今感じている痛みを正直に告げた。トンカチやハンマーで骨を直に殴られているかのような。
それでも銀髪の少女の方に顔を向けることはできるので首回りは大丈夫らしい。
「わあ、それは大変ですね! 早くこれを食べて下さい!」
急に動きが俊敏になった銀髪の少女は拾い集めた木の実を差し出した。
まあ、痛いことに変わりはないけれど、もげる、は言い過ぎだったかな……。ここまで心配されるとは。
少し大げさに言ってしまったことを後悔しつつ素直に木の実を受け取った。
「っ?!」
というより口に無理矢理ねじ込まれた。皮ごと、ヘタごと、種ごと。
しかし、へたり込んでいる海斗にそれを拒む力はなかった。
「ちょっ、そべぶごごごご!」
『それさっき落としてたよね?!』という意思が伝わったことを祈る。まあ今更伝わったところで、腹の中にすっぽりと収まった後なので、だからなんだという話だけれど。
それから木の実の感想を言うなら、果物として致命的なくらい苦くてすっぱかった。熟していないグレープフルーツというか漬け過ぎた梅干しというか……。
そんな海斗の不快そうな顔から察したのか、銀髪の少女が木の実について懇切丁寧に教えてくれた。
「尋常じゃないくらい苦くてすっぱいと思いますが、それには痛み止めの効果があるので我慢して飲み込んで下さい。あ、ですがそれはあくまで痛み止め。ただ神経を麻痺させているだけで傷はなんら変わりないので無理に動いたりしないで下さいね」
「分かった」
確かに銀髪の少女の言う通り痛みは引いていった。正確には麻痺していった。体の表面がピリピリして、地面を掴む感覚がなくなったせいか浮遊感も少しある。
それから、海斗は一つ、他にも訊きたいことは山ほどあったが、とりあえず一つだけ、恐らく味方の銀髪の少女に訊いてみた。
「もしかしてこの包帯巻いてくれたのも君?」
「はい、そうです。あ、申し遅れました、私、彩葉と申します」
ぺこりと頭を下げて銀髪の少女は下の名前だけ言った。
とりあえず、この怪我の原因ではなく、この包帯の原因が先に来てくれたことに胸をなでおろした。今、追撃にあったら確実に死ぬ。そもそも何かしらの敵に襲われたとして、どうやって逃げ延びたんだろう。案外、この彩葉がそれすらも含めて助けてくれたのかもしれない。
しかし、まずはその確認ではなく、自己紹介だろう。先に名乗られた以上こちらも名を提示しないわけにはいかない。
「僕は加藤海斗、まあ僕のことも名前で海斗でいいよ」
「はい、では海斗さん、早速ですがいくつか質問してもよろしいでしょうか?」
彩葉は先ほどまでの慌てふためいた態度とは異なって、妙に真剣な面持ちになって、海斗の答えを待つことなく続けた。
「海斗さんはあの落とし穴の落下地点であるこのジャングルに傷だらけで横たわっていました。そこをたまたま通りがかった私が手当をしたわけですが……」
「ちょ、ちょっと待って!」
いきなりわけの分からないことを言われ、困惑した海斗は思わず彩葉の言葉を切った。
「どういうこと? 落とし穴って何?」
「特定の地面に一定以上の負荷をかけると作動する自然現象のことです」
頭が回らず、反射的に訊いた海斗に対して、辞書を音声ソフトが読み上げるように彩葉は言った。
色々と予想していたけれど、全く別の方向からの解答にたじろいでしまった。落とし穴? 公園の砂場とかに掘るあれ?
いや、それでこれだけの傷は負わないだろう。しかし、本当にそれが原因なら相当な規模のものになるけれど……。
予想通りの想定外とはいえ、想定外に変わりはない。驚きもするし、わけも分からなくなる。むしろ明後日の方向に想定外を想像していたので倍増、という感じだ。
何が敵だ。何が捕虜だ。まあそれらの可能性が否定されたわけではないし、海斗がただ墓穴を掘ったというだけの話だけれど。落とし穴だけに……。
それに彩葉の言った『自然現象』という部分に引っかかったけれど、今はそこに疑問を挟むべきではない。それより、落とし穴ということは……。
「いや、落とし穴自体が何かは分かるんだけれど。えっと、そうじゃなくて……」
上手く思考がまとまらない。まとまらないけれどそれでも何とか言葉を紡いだ。
「君の言うことを信じるとして、ここが落とし穴の落下地点だったとして、この怪我がその大規模な? 落とし穴によるものだったとして。それなら落とし穴の入り口は、僕が落とし穴に嵌ったのは、ここより上ってことになるよね?」
「ええ……そうなりますね」
彩葉も少し困ったような表情を浮かべた。しかし、事態についていけなくて困惑している海斗とは違って、『そんな当たり前のことをなぜいちいち訊くのか』という疑惑に近い困惑だった。
この場にいる時点で既におかしいと思っていたけれど、おかしいというよりあり得ないと思っていたけれど、
「それなら、もしそうなら」
海斗はここで一旦言葉を区切った。次に発する言葉を頭の中で唱え、次に発する言葉に対する彼女の返答に備えるために。
信じられないことを信じる、と言わないまでも少しは理解し、受け入れられるように。
「雲の中に位置するこのジャングルのさらに上に、まだ土地があるってこと?」
口に出すと、より一層疑わしいというか、馬鹿らしいというか、現実味が無さ過ぎる。先ほどまで立ち込めていた霧は、同じ水蒸気でも雲そのものだった。霧が晴れて、もとい、雲が移動して視界が晴れて、辺りを確認したから間違いない。下からでは絶対に見えない雲の上部が見えた。飛行機の窓から見下ろしたかのような。そんな雲が地面に浮いていた。
この標高一万メートルは超えているであろう、既に地球では考えられないこのジャングルの、さらに上に地面があると言うのだろうか。
しかし海斗の葛藤など知る由もなく、彩葉は口を開いた。
「はい、そうですが」
木の枝から離れた林檎は地面に向かって落ちる。それと同じくらいの常識だと言わんばかりに、またしてもあっさりと、彩葉は肯定した。
「というか、あなたはそこから落ちて来たんですよね?」
「え? ああ、そういうことになるのか。そういうことになるんだろうけれど、君の言うことを疑うわけじゃないけれど、さっぱり覚えてないんだ。その……落とし穴のこととか」
気づいたら全身の痛みを抱え木の中で寝転がっていた。
大規模な落とし穴に落ちる際にこれだけの傷を負い、その衝撃で記憶も失ってしまったということだろうか。
一応辻褄は合っているけれど……。
「だからこの上に何があるのか、落とし穴がどういうものなのか、一切分からない」
彩葉は落とし穴は自然現象だって言ってたけれど、海斗が知っているのは人為的に穴が掘られたものだけだ。しかも子どもがふざけて砂場に作るようなやつ。
それに今は感じないけれど、少し体を動かしただけで全身に鋭い痛みが走るほどの怪我。部位によっては単純な骨折では済んでいないだろう。それだけの怪我を負わせられる規模の落とし穴。大規模と一口に言っても、想像はできても身に覚えは一切なかった。
「でも、落とし穴に嵌る前後の記憶が無いとはいえ、そのさらに前のことなら覚えていますよね?」
彩葉は容疑者に詰問する刑事のように訊いてきた。
海斗を助けたのはその記憶を引き出すためだ、吐くまで逃がしはしない、とその目は語っているように思えた。
しかし、首より上しか動かない海斗はその目に従うしかない。というより命の恩人であるはずなのだ。その対価はきっちりと払うべきだろう。海斗の記憶がその価値に見合うのかは分からないけれど。
そのさらに前……。
海斗は心の中でその言葉を反芻する。
「私はそれを訊きたかったのです」
「ここに落ちてくる前、落とし穴に嵌る前……」
記憶を辿る。あるかどうかも分からない記憶を辿る。
「はい、このジャングルより上空に位置するあの土地、雨が降れないあの土地は、十メートルを優に超える巨大な、強大なモンスターの巣になっているはずなのです」
十メートルを超えるモンスター。本当に現実味がなくなって来た。
君はなんでこんな天空のジャングルを通りがかることがあるの、とか。君はなんでそんな軽装なの、とか。君はなんで僕に親切にしてくれるの、とか。彩葉について色々と訊いてみたかったけれど、どんどん疑問は増えていくばかりだけれど、彩葉は海斗に口を挟む暇さえ与えず続けた。
「だからあの地は特別な許可を得ないと入れません。しかし、あなたの態度を見る限り、とてもその手順を踏んだとは思えません。そもそもその手順さえ知らないですよね? そんな人が標高二万メートルの登山に挑むとも思えないですし……あなたは一体、何者なのですか……?」
彩葉のことを知る前に、まずは自己紹介をしないといけないようだ。