なりきり姫とS王子
佐藤結衣とは、私のことである。
日本一多い苗字によくありそうな名前。成績は普通。運動も少し足が速いくらいと、極々平凡な女子高校生。
自分は「特別」だと思いたかったのかもしれない。とにかく、他人とは違う自分でいたかった。
だから――――変わった『自分』を作り出した。
屋上に呼び出されて行ってみると、そこには隣のクラスの男子がいた。私を見るや頬を赤く染める。告白なのは一目瞭然だった。
向かい合い、沈黙が落ちる。やがて、男子がすぅっと息を吸い込んだ。
「すっ……好きです! 付き合ってください!!」
「ねぇあなた。キスしたことある?」
「……へ?」
ぽかんと男子が口を開けた。
私は小さく息を吐いて、言葉を繰り返した。
「キスだよキス。ないの? ほら、こうやって距離を縮めて……」
言いながら私は少しずつ歩み寄り、後退する相手を屋上の端のフェンスに追いやった。フェンスの穴に指を引っ掛け、体を前へ倒して更に距離を縮める。
相手の顔が真っ赤なのを知っていて、私は色っぽい声で囁くように言った。
「唇を……奪う」
耐え切れなくなったのか、男子は「う……うわぁー!!」と叫んで、逃げるように屋上から走り去った。
私は静寂の中で数秒かけて身を起こし、それから腰に手を当てた。
「……ふぅ」
今回も上手く出来た。反応も予想通り。やったね!
達成感と満足感に身体を満たされ、階段を下る足取りが軽くなる。絵にするなら、私の周りには楽しげな音符が飛んでいるだろう。
――変わった『自分』。それは、少女漫画の主人公になりきり、男子に自ら迫ることだった。
中学生の時からやり始めて、思った通りにいくのが面白くてついつい続けてる。本当に楽しい。さっきの人も、顔トマトみたいだったし。
「……ん?」
階段の踊り場に、カッコ良さげな雰囲気を纏った人を発見した。
程よく切ったクセのない茶髪。太くなく細すぎない抜群のスタイル。加えて遠目でも分かる高身長。
後ろ姿だけで決めるのは初めてだけど――――この人にやってみよう。
「こんにちは」
背後から声をかけると、その人が私を振り向いた。
やはりイケメンだった。というかイケメン過ぎだ。言うなれば、漆黒の夜空で圧倒的なまでに煌めく一等星ような。
髪の色より少し明るい瞳が印象的だった。
「…………」
何も喋らない。ただ静かに見てくるだけ。
そろそろいっていいかな。校章の色が違う……先輩か。
私はニコッと愛想よく笑って、壁を背にして立つ先輩へ一歩踏み出した。
先輩の体の横に右手をついて顔を見上げる。
そう――壁ドンだ。
「イケメン先輩、キスはお好きですか?」
不敵に口角を上げて問いかけた。
先輩は無言のまま私を見つめ返した。そして――ふっと表情を緩めた。
「……好き、って言ったら?」
「――え」
刹那、私は唇を塞がれた。視界が目を閉じた先輩の顔で埋め尽くされる。
キスされているのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「……!? ん!?」
反射的に先輩の胸板を押した。が、全く動かない。そのうち息が足りなくなって焦っていたら先輩の方から離れてくれ、私は自由になった口から出来る限り空気を吸い込んだ。
「ふーん。自信満々だった割には下手だね、キス」
私を見下ろす先輩が、からかうような馬鹿にするような笑みを浮かべた。
……初めてなんだから息の仕方とか分かるわけないじゃん!! と言いたかったが、プライドが喉でストップをかけて外に出さなかった。
「あ、もしかして初めてだった?」
「!?」
思わず体全体で反応してしまった。
まずい。今のでバレた絶対。
「ふーん……そうなんだ」
ニヤニヤと笑いながら先輩が見てくる。悔しくて、私は嘘を言った。
「ち、違います。久しぶりだったからやり方を忘れてただけで、別に初めてじゃ」
「じゃあ感覚取り戻すためにもう一回する? 君結構綺麗だし、俺は何回しても構わないよ」
「っえ、遠慮します!!」
頬に添えられた手に顔が熱くなる。先輩は楽しむような含み笑いをして「そう」と言い、手を離した。
弄ばれてる……!!
いやいや、落ち着け佐藤結衣。ヒロインになりきれ! こういう状況の場合、主人公は……。
「ん、何か来た。里佳ちゃん? ……会いたい、か。いいよ、会いに行ってあげる」
スマホの画面を見て薄く微笑むと、先輩は私の横を通り抜けて階段を下り始めた。
…………え?
行っちゃうの!?
「そうだ、君。あんまり男を舐めない方がいいよ。俺じゃなかったら襲われてた」
「っ……! 襲われそうになったことないので、ご心配なく!」
「心配じゃなくて忠告。君いろいろと勘違いしてそうだから。じゃ」
後ろ手でひらひらと左手を振って去っていく先輩。右手はスマホの操作に使っているようで、腕が僅かに動いていた。
踊り場に一人取り残される私。
何これ。……えぇ……!?
◇◆◇
放課後、私は憂鬱な気分で帰路についた。
……初めて、思い通りにならなかった。屈辱だ。
ふと前を誰かが横切った。あの先輩には劣るけど、普通にイケメンな男の人。
「……よし」
リベンジしよう。今度は完璧に成功させてみせる!
「イケメンさん、キスはお好き?」
相手の肩を叩いてこちらに気付かせ、いつもの台詞で誘いをかける。
今朝告白してきた男子に言わなかったのは……うん、察してください。
「……逆ナンか。今は断る理由ねぇし、乗ってやる」
嗤ったかと思うと、男の人は私の手首を引っ張って壁に押し付けた。私がそれを認識した時には、既に両手を頭の上で一つにされて身動きを取れなくさせられていた。
――え、待ってこれ私……まさか……。
先の展開が脳裏に浮かび、ぞくっと寒気がした。
「やっ……やめてください!」
「ハァ? そっちから誘ってきたくせに、その気にさせといてとか都合良すぎねぇ? こっちはムシャクシャしてんだよ。大人しくしろ」
「っ、それは謝ります……すみません、だから……!」
「……ハァ。ホテル連れてくか」
『ホテル』。そんな所に連れていかれたら逃げ場がない。いよいよ犯されて終わりだ。
――あんまり男を舐めない方がいいよ――
――俺じゃなかったら襲われてた――
嘘……このままじゃ、本当にあの人が言った通りになる……!?
「オラ、行くぞ」
……誰か……助けて…………!
「――あー、こんなとこにいた。もう、俺から離れるなっていつも言ってるでしょ?」
聞いたことのある声がした。
私の腕を無理やり引いて歩いていた男の人が立ち止まって後ろを見る。私もその声に振り返った。
あのイケメンな茶髪の先輩が、呆れたような表情で通路に立っていた。
「……せ、んぱい……? なんでここに……?」
「そんなの、君を捜しに来たに決まってるでしょー。ほら、行こう?」
笑顔で手を差し出される。戸惑っていれば、それまで呆気に取られていた男の人が叫んだ。
「オイ、何なんだよお前! いきなり入ってきやがって!」
「んー……この子の彼氏?」
「えっ……」
「ハァ?」
堂々と嘘をついた先輩に驚きの声を漏らしてしまった。聞こえなかったらしい男の人の眉間に皺が寄る。それでも先輩は笑顔だった。
「ていうか、『何なんだ』? ……それはこっちの台詞なんだけど」
突然鋭くなった先輩の目つきに、男の人はビクッと肩を揺らした。
「っ、男いんなら誘ってくんな!!」
乱暴に突き飛ばされ、後方に倒れかけた私を先輩が支えてくれた。
「大丈夫?」
「……はい……あの、助けてくださって……ありがとうございました」
感謝の気持ちを込めて頭を下げると、先輩はニコッと笑った。
――それから、私の頭を「べしっ」と音が出るほどの強さで叩いた。
「いたっ!!?」
「いずれこうなるのが分かってたから忠告したのに。無視するからだよ。馬鹿だな」
「うっ、うるさいです! そもそも先輩が……」
「何?」
「……何でもないです」
言い返しても勝てる気がしなかったので、私は文句を飲み込んだ。
何なのこの人、優しいと思ったらひどかった。まだ頭ジンジンしてる……痛ったい。
叩かれた箇所をさすりつつ先輩を睨む。目の前に立つ先輩は下を向いて話した。
「ま、君が傷つけられる前にたまたま通りかかれてよかったよ。後で里佳ちゃんにお礼しないとだ」
顔を上げた先輩は、本当に安心したような、すごく優しい表情で笑いかけてきた。
「……!」
ドキンッ、と心臓が大きく跳ねた。
……どういうつもりなの、この人……。素? それとも計算?
そういえば、「里佳ちゃん」って今朝も言ってたよね。彼女なのかな……。
そう考えたら、何故だか胸の奥が締めつけられた。
「…………」
あれ、私このシーン知ってる。少女漫画で一回は必ず出てくるやつだ。
主人公が嫉妬する――――ん? 待って、“嫉妬”?
じゃあ私――……。
「?」
私の視線に気付いた先輩が、にこ、と口元で軽く微笑む。
高鳴る鼓動が全身に響く。頬が熱を帯びてだんだんと朱に染まっていく。
私は……誰かも知らない、今朝出会ったばかりのこの人に。
「……好き、になっちゃいました……先輩」
――恋してしまったのか。
先輩が虚を突かれたように目を見開いた。恥ずかしくて俯いた私の耳に、クスッと小さな笑みが届いた。
「いいよ。付き合おっか」
「……え!?」
いいの!? と先輩を凝視する。先輩は「うん」と頷いてにっこり笑った。
「27人目の彼女ね」
………………は?
「27人目!?!?」
「そうだよ。何驚いてるの? 俺が好きってことは、俺と付き合いたいんでしょ君。よかったじゃん」
「それ、はそうですけど……」
まさか先輩が26人の彼女持ちだとは思っておらず、しかし付き合えることには変わりないので、私はとても複雑だった。
煮え切らない態度の私を見て、先輩は言った。
「嫌なんだったら、告白はなかったことにするよ。どうしたい?」
「……私は……」
口を噤んで考える。その間、先輩は何も言わずに待っていてくれた。
私が今したいと思うのは。
「……先輩の」
「俺の?」
「名前が知りたいです」
先輩から飄々とした雰囲気が抜けた。まさに、きょとんって言葉がぴったりな顔をしていた。
「……確かに、言ってなかったね。でも俺が訊いたのは……。まぁいいか」
妥協して笑った先輩に見とれかけて、慌てて目を逸らした。
――でも、すぐにまた先輩を見てしまった。
「加賀里柊。加賀里が苗字で柊が名前。珍しいから覚えやすいんじゃないかな」
加賀里、柊。
カッコイイ苗字に優しい響きの名前。両方を兼ね備えた先輩そのものだと思った。
「君は?」
「……佐藤結衣、です」
「何か今ちょっと躊躇った?」
その問いに答えるのは抵抗があった。しかし先輩は純粋に疑問を感じているようで、その表情を見たら答えずにはいられなかった。惚れた弱みというやつだろうか。
「……嫌いなんです。苗字も名前もありがちすぎて。しょっちゅう他の人とかぶって困るし……嫌で」
「そっか。でも、かぶるって嬉しいことじゃない?みんなが子供につけたくなる可愛い名前ってことじゃん。俺は好きだよ」
「え!?」
「あ、君の“名前”が、だからね?」
「分かってますよ! 分かってますけど……あっつ」
私は熱を上げている頬を両手で包んだ。
先輩の言葉一つで簡単に赤くなってしまう。なんて単純で正直な頬なんだろう。誰か交換して。
「……柊先輩、って呼んでいいよ。結衣ちゃん」
「!?」
「駄目?」
不意に顔を覗き込まれてびっくりする。先輩が近くて落ち着かないが、動くのも不自然なので、私はその場で首を左右に振った。
「ダメなわけないですよ。……柊、先輩」
途切れ途切れになってしまった。……好きな人の名前を呼ぶのって、こんなに緊張するんだ。
先輩は体勢を元に戻して、私の頭をポンポンと撫でた。
「よくできました」
心臓が一際大きく鳴って、また『好き』が増えた。