紫陽花が泣いてるよ
放課後の教室で一つの机を囲むように、俺と彼女は向かい合っていた。
俺は自分の机だから真っ直ぐに座っているが、彼女は俺の前の席に腰を下ろし、窓の方へと体を斜めにして座っている。
背もたれが丁度良い肘置きになっていた。
虚ろな瞳の向けられた先、窓の外には重たい灰色の雲が空を覆い尽くしており、ザァザァと大粒の雨が落ちている。
ノンフレームのすっきりとした眼鏡が、彼女の鼻筋に沿って下がっていた。
「未来の見える眼鏡と未来の見える目。どっちの方が本物らしい?」
視線は窓の外に向けられたままで、規定よりも少しだけ短いスカートから伸びる足が、ゆっくりと組み変えられた。
それと同時に投げられた言葉に、直ぐに反応することは出来ずに、彼女の足を見ている俺。
その視線に気付いたのか、片手でスカートの乱れを直す彼女は、何も言わない。
視線を彼女の顔に向け直してみても、こちらを見る気配すら感じさせず、背もたれを肘置きにして頬杖をついていた。
「……どっちも偽物。フィクション」
「何で?」
待っていた答えを返したのに、間髪入れずに返ってくる言葉に息を呑む。
喉仏の辺りがキュッと締まったような気がした。
ゆらりと向けられた黒目には生気がない。
元々何を考えているのか分からない奴ではあったが、今日は一段と分かりにくい。
頬杖を崩し、眼鏡を押し上げた彼女は、生気のない目を細めて俺を見据える。
日に当たることが極端に少ない白い肌は、不健康な青さを含んでおり、この天気のせいで余計に見栄えが良くない。
真正面から突き刺さる視線を受け、リアリティに欠けるからと答えれば、オウム返しにリアリティ、と呟く彼女。
言葉が紡がれる薄い唇だけは、何故か綺麗にほのかに色付いている。
僅かに開いた唇から細い息が漏れて、きゅっと真一文字に結ばれた。
それに釣られるようにして、彼女の眉がきゅっと眉間に寄せられ、細かなシワが刻まれる。
「抽象的」
「でもリアリティがないだろ」
今度は俺が細い息を吐き出す番だった。
抽象的と言われようと漠然としていると言われようと、実際のところリアリティに欠けている。
未来の見える眼鏡?そんなもの、漫画やドラマのフィクションの世界にしか見たことがない。
未来の見える目?そんなもの、持ったこともなければ持っていると言った人間に会ったこともない。
不満そうな彼女を説き伏せるように、つらつらと言葉を並べ立てれば、眉間に刻まれたシワはどんどん深くなっていく。
俺が否定的な言葉を紡げば紡ぐほどに、比例してシワが深くなっていく仕組みらしい。
「誰だって自分の目で見て、感じて、事の本人になる以外で信じられないだろ」
信じる信じないは個人の自由だとしても、本当だったんだ、となるのはいつだって事の中心にいて、事の本人になるしかないのだ。
知識と経験は別だろう、俺の言葉に彼女は下唇を噛み締めた。
白い歯がチラリと見えて、皮膚を噛み切るような音がする。
「それに、未来なんて変わるだろ」
血の滲み出した唇を見て、俺は手を伸ばす。
唇に触れるよりも先に、彼女の方が俺の言葉に反応して、皮膚を傷付ける歯を引っ込めた。
ほんの少し開いた唇からは、真っ赤な舌が覗く。
「……どういう意味」
「だから、未来ってつまり過去と現在が重なって出来るものなんだろ?過去は変えられなくても、未来は変えられる!とかさ、良く漫画とかであるでしょ」
「あぁ、週刊ものとかね」
緩く頷いた彼女の言う週刊ものとは、一体どの週刊ものを指しているのだろうか。
少なくとも俺は月曜日発売のものだが、彼女はどれも読んでいた気がする。
全て近所のコンビニでの立ち読みだが。
「例え眼鏡でも目でも、未来が見えたとしても、直ぐに変わっちゃうことなんてザラにあると思うから、別に、無駄な行為だろ」
折角自分で悩みながらゲームをすることが出来るのに、攻略サイトを見ているのと同じだろ、なんて微妙な現代的な例えを繰り出す俺に、やっと、彼女の眉間のシワがなくなり、表情が浮かぶ。
華奢な肩を揺らしながら、くつくつと声帯を震わせて笑う彼女は、俯いてしまってその表情をよく見せてはくれない。
湿気で跳ね返るアホ毛が、ひょこひょこと動くのを眺めていると、満足したのか、彼女が顔を上げた。
ほんのりと上気した頬は、生きている人間のものらしくなっている。
それから目尻に溜まった涙を指先で弾いた彼女は、血の滲む唇を三日月に引き上げ、笑う。
「……そうだね。うん、そうなら良いよね」
組んでいた足を解き、彼女は立ち上がる。
長く座っていたからか、立ち上がっても直ぐには動かずに、その場で体を伸ばしていた。
小さく骨の鳴る音がして、深く息を吐き出した彼女は、ゆっくりと床に置いてあった鞄を持ち上げる。
ぺったりとした鞄にはまともな勉強道具は入っていないのだろう。
雨の日は持ち帰らないのだと、前に聞いたことがあった。
濡れるの嫌でしょ、と真顔で言った彼女は、どんなに晴れていても折りたたみ傘を常備するくらいには、鞄の中身を気にしている。
何でも濡れてシワになったノートは二度と使いたくない上に、濡れた教科書は買い換えたくなるから、らしい。
「今日は傘持って来た?」
「朝は晴れてたろ」
俺のその言葉だけで充分だったらしい彼女は、ふはっも息を吐き出して、鞄の隣に置いてあった傘を拾い上げる。
細身の傘は女性らしいデザインのようで、薄い青紫だった。
「貸してあげる」
そう言って差し出された傘を、ほぼ反射的に受け取ってしまった俺。
慌てて立ち上がろうとするが、彼女は眼鏡を指で押し上げながら、急ぐから、なんて言い出して、言い終わるのとほぼ同時に床を蹴り上げた。
プリーツスカートの裾が翻るが、そこから伸びる足しか見えない。
急ぐならなんで教室に残っていたんだろう、とか、普通は折りたたみ傘を貸すだろう、とか、思うことは色々あるが、今日は一緒に帰れないのか、と傘を見下ろした。
ザァザァ、雨はまだ止まずに、大きな音を立てている。
玄関まで向かい、一人で帰ることになった俺は、借りた傘を開いて苦笑した。
細身のデザインだと思い、薄い青紫はギリギリ許容範囲だと思い、咲き乱れる紫陽花の花にこれはちょっとなぁ、と思う。
派手ではないが男が使うには可愛らし過ぎる。
借りたものに文句は言えないのだろうし、文句を言う相手もいないのだが。
手の平でくるりと傘を回せば、紫陽花の花も回り、降り止まない雨を弾く。
雲一つなく晴れた翌日に、この傘を持って登校した俺が、彼女と会えなくなってしまうのに気付くまで後十五時間後。
未来が見えたなら、なんて考えてしまうまで後十五時間後。




