蛇とダークヒロイン
『手の甲 キス 意味』
気まぐれで検索窓にそう打ち込み、右下の検索ボタンを軽く押した。それはあの日彼が私に取った行動で、日本人で学生で恋愛と無縁な人間からすれば極めて非日常的で、非常識な行動だ。
複数のサイトを見て回ったが、どこにも『本来は尊敬・敬愛を意味する』『目上の女性に対し敬意を払う』『本気でその女性を愛している』などと、私とは縁のなさそうなワードが散りばめられている。そんな文章を最後まで読むのが億劫になって、すぐに画面を閉じた。
「女性なら誰しも憧れる、ねぇ…」
ならば私は女性ですらないのか。誰しも、とは何なのか。憧れとは、尊敬とは、敬意とは…。
悩んでいるわけではなかった。不可思議な世の中にツッコミを入れているだけだったのだろう。私は自分の趣味嗜好や性癖、性別や恋愛対象で悩んだこともなく、それがとても恵まれていることだと気付いたのは最近だ。
もう一度スマホの画面に目をやった。眼鏡にツインテールの美少女が映し出されたロック画面には、『6:50』と表示される。早く起きすぎたわけではない。寧ろ起床時刻としては適切だが、いつも7時半に起き、10分ゲームをして、5分で朝食を摂り、10分で身支度を済ませる人間としては、とても時間に余裕があると感じる。私はベッドからミニテーブルに置きっぱなしになっていた100円玉4枚を眺めながら、昨日の出来事を思い返した。それは私が平和の為に、命をかけた対価だ。
「サイ…とか言ったっけな」
目はすっかり冴え、再び眠りにつくには時間を要するだろう。数分ほどゲームをして完全に目を覚まし、紺色のブレザーに着替え、リュックを持って1階へと降りた。
「あれ、お姉ちゃん早いね」
「なんかたまたま目ぇ覚めた」
「珍しいね。あ、朝ごはんそのパンだから」
「うぃっす」
2つ年下の弟・稔は、制服のシャツにエプロンを着て、朝食と弁当を作っている。全く出来過ぎた女子力の高い弟だ。
「弁当さ、さっき作ったチーズハンバーグと昨日のカレーコロッケだったらどっちがいい?」
「絶対カレーコロッケ」
「だよね。チーズハンバーグはママに食わせよっか」
「お母さん何してんの?」
「朝帰りして寝てる」
「へえ」
弟の用意したチョコクロワッサンを一口食べる。余裕の朝に食べるだけでいつもより美味しく感じて、その美味しさを噛みしめるかの如く必要以上にゆっくり食べた。
「稔、牛乳ある?」
「昨日間違えて買っちゃったから、2本」
「分かった」
冷蔵庫から牛乳とコーヒーを、食器棚からねじれた長いスプーンと大きめのコップを出し、コップにテーブルに置きっぱなしの砂糖入れから大さじ2杯の砂糖を入れた。並々牛乳を注ぎ、コーヒーを少しだけ注いで飲む。そしてまたクロワッサンを、こんどは豪快にかじった。
「ごちそうさまでしたー」
「もう出る?」
「うん」
「弁当箸付けて包んどいて」
「わかった」
弟の分は青い弁当包みで、私のはオレンジ色の包みで適当に包んで口を縛る。自分の分をリュックに突っ込み、軽快に玄関へと向かった。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい」
ああ、何と幸せな朝だ。
ここまではな。
家から歩いて15分の、そこそこ大きな公立中学校。1学年8クラスという人数の多さを誇る至って普通の中学校で、私はそこの学校に通う3年生だ。
おはよう、と挨拶を交わす相手もいない為、いつもは無言のまま教室まで向かうことが多いが、この日は例外だった。
「紗千、紗千?僕のこと、忘れてない?」
「ん?」
呼ぶ声が聞こえて振り返るが、誰もいない。しかし視線を落とすと、そこには昨日出会ったクマのマスコット…クリストがいた。
クリストはあの後、『行く場所がないから泊めてくれ』と言って私の自転車にしがみつき離れないので、仕方なく家に入れた。部屋には個人的に入れたくなかったので、リビングのソファで寝させている。
「指輪、部屋に忘れてたから持ってきたよ。」
…のにも関わらず、何故お前が指輪を持っている。
クリストは私以外には見えない。見えない何かと会話しているようでは周りに不審がられるだろうと、なるべく言葉を発さないようにした。指輪を受け取り、スカートのポケットに仕舞う。校則でアクセサリー類は禁止されている為、身につけて没収でもされようものなら面倒だからだ。
「学校でゾンビギークが出る確率だってあるからね。寧ろ人が多いところでは注意が必要だ。」
「へぇー…」
適当に返事をし、早足で学校へと向かう。時々後ろを振り向くと、クリストがちょこちょこと歩いてついてきている。
「学校まで来んのかよお前」
「学校でゾンビギークが…」
「お前別に戦うわけじゃねぇだろ」
特に意味はないがクリストを巻いてやろう、と競歩並の速さで歩く。ただでさえ余裕を持って家を出たのに急ぐものだから、校門にかなり早く着いてしまった。門を過ぎ、3階の教室へ入り、前から3番目の窓際の席に座った。
「そんなに急がなくても…いいでしょ…」
開いた窓からクリストが這い上がってきた。ここ3階なのに。
「…やべぇなお前」
「ただのマスコットじゃないからね、僕。あ、この鞄で寝ていい?」
「…うん。」
リュックの中身の教科書類を全て抜き取り、机に突っ込んだ。空いたリュックにクリストはすっぽり収まっている。
教室の掛け時計は8時過ぎを指す。教室にはクラスの3分の1程度の人数がいて、廊下では何人かの生徒が他クラスの生徒と談笑している。ホームルーム開始まで寝ようと机に突っ伏した瞬間、遠くで何かの音がした。
「…ん?今なんか、音しなかった?」
「そう?」
リュックの中からクリストの間抜けな声が聞こえる。そしてその直後に、先程と同じ音がした。先程よりも、更に大きな音で、私はそれが爆発音だと気付いて思わず立ち上がった。
「紗千!遠くからゾンビギークの気配が…!!」
「お前、気付くのおせぇよ…」
遠くからは爆発音だけでなく、悲鳴までもが聞こえる。教室や廊下の生徒たちはざわつき、パニックに陥る。
「クリスト、行くよ」
「僕も連れてってくれる?」
「オッケー。場所は分かる?」
「多分校庭だろうね。朝練してる運動部がいるし…」
ブレザーを脱いで机に置き、スカートのポケットから指輪を出し、中指にはめた。机によじ登るクリストを肩に乗せ、教室の外を出る。
「恵己さん、どこ行くの?」
一言も会話を話したことのないであろう女子生徒が、私を呼び止めた。それも当然だ、災害時に単独行動する奴は死ぬ。それを私に忠告すべきだと思ったのだろう。
「…ウォータークーラーに、水飲みに行ってくる。」
きっと私は、世界一嘘がつけない。その嘘と彼女の視線を振り切って私は走り、下足室で上履きをスニーカーに履き替えてから校庭へ向かった。
「あれ、ゾンビギーク…多…くね?」
ブレザーを置いてきたことを後悔するほど肌寒い。雲が太陽を隠すのが、不穏な前兆みたいで腹立たしくなった。校庭には、3体のゾンビギーク。先日倒したものより大きく、3mほどに見える。怖気づいたわけではないが、今の自分で勝てる戦力かどうかを考えた。しかし基本的に、戦うという選択肢しかないのだから、考えたところで仕方ないだろう。
「アイン…何だっけ…」
「アイン・ジー・ギン・フズィー」
「あ、そうそうそれそれ。早いとこ覚えないとなぁ、それ…」
変身する前に、校舎と校舎の隙間に隠れ、なるべく人に見られないようにする。別にバレるなとも言われていないのだけど。クリストを肩から降ろし、指輪に触れ、右腕を前に突き出した。
「アイン・ジー・ギン・フズィー!!!」
狭い校舎と校舎の間で突風は私を取り巻き、一瞬にして白と赤の衣装に変わる。校庭に一歩踏み出し、舞い降りた槍を掴んで深呼吸した。
「槍…新しくなってるね。」
「前、折れてたからね。もう少し強いものにしてみたんだ。ついでに少し短く。」
「…あっそう。」
相変わらず木製で少し安っぽい感触がするが、これも低級魔法少女を脱却すれば直るのだろうか。
「ビームってさ、初っ端から撃てる?」
「撃てるよ」
「じゃあここから撃ってみるか」
校舎の影に隠れ、ビームを準備する。影からこそこそ遠距離攻撃など正義の味方らしからぬ卑怯な戦法だが、勝つために必要なのは騎士道精神よりも知恵である。
「よっしゃ喰らえビーム!!」
赤い光は1体のゾンビギークに命中し、弾け飛んだ。…弾け飛んだのはビームであって、ゾンビギークではないのだけど。
「…あんま、効いてなくね?あいつビームが効きにくいタイプの敵だったりするの?」
「いや?ただ君は近接攻撃に優れすぎるあまり、遠距離攻撃が不得意みたいだからね。」
「ああ、そうなの…」
ならばもう一発食らわせようと槍を構えるが、何やらゾンビギークの様子がおかしい。いや、おかしいというかそれが普通だろう。ビームを撃たれたゾンビギークが私に気付き、こちらに向かって…全力で走ってくる。
「…うっそあいつ走れんの!?」
「寧ろ走れないゾンビギークのほうが少ないと思うよ?この間のを普通だと認識しているならそれは大間違いだ。あれは400円クラスの弱いゾンビギークだけど、今回のは多分…1200円ぐらいだね。」
「それって3体合わせて3600円ってこと?10連引いてお釣り出るね!じゃねぇわ!!そんなん倒せんの!?」
校庭を横断し、巨体に見合わないスピードでこちらに向かってくるゾンビギーク。その速度は普通の人間よりも早く、瞬く間に私の目の前にまで到達した。
「喋ってないで戦ったらどうかな?」
「お前は何か援護とかしないの?」
「僕はね、弱いから。頑張って。」
「クソか、お前…」
いつまでも校舎の隙間にいても仕方ないだろう。一歩踏み出し、槍を構えると、助走をつけて跳び上がり、ゾンビギークを頭から斬った。
『ヴヴァ…』
微かにだが、唸る声が聞こえる。再び槍を握り締め、斬り上げた後に敵のど真ん中を槍で貫いた。
「…意外といける。」
そのまま槍を思いっきり振り上げた。ゾンビギークは真っ二つになり、そこから裂けてどろどろと溶けていく。とどめにかなりの近距離でビームを撃つと、ゾンビギークは白い煙と赤い光を纏いながら溶け、中からは男子生徒が出てきた。
「…あ、こいつ陸部の3年生だ。どうりで足速いわけだよ…」
1体倒して一安心し、ふぅ…と息を吐く。しかし、まだ敵は残っているということに気付いたのは、目の前にゾンビギークが2体揃って現れたからだ。
「うおわぁっ!?忘れてた!!」
ゾンビギークが2体同時に私に襲いかかる。今まで基本、一方的に攻撃して倒していたから、攻撃を受けたことはまずない。それはそれは、こんなのに襲われたら痛いだろうなぁ…なんて考えている場合ではない。ドッジボールでボールを避けるかのようにギリギリでかわし、一瞬の隙を見てゾンビギークを槍でぶっ刺した。
しかしその程度では倒せない。2体のゾンビギークは、こちらを向いてさらに攻撃をしてくる。刺さった槍を抜き、私は奴らに背を向け、全力疾走した。
「こんなん無理に決まってんだろうが!!!!!!」
槍を後ろに向けてビームを撃ちながら、たいして速くもない足でとにかく逃げる。50m10秒台の私の痛みが分かるか、俊足ゾンビギークめ。
「逃げてても…倒せないから…戦わないと…それに校舎のほうに誘導したら…被害広がるし…ああめんどくせぇ」
校庭の隅、緑色のフェンスの前で立ち止まり、後ろを振り返る。巨大な化け物がこちらに猛スピードで走ってくる様は、さしずめ…主人公が名前を奪われるアニメ映画に出てくる顔がないアレのようだ。しかも2体。恐怖も2倍、給与も2倍。これで倒せば10連か、ゲーム筐体36回。そう自分に言い聞かせ、目を閉じて深呼吸、目を開いて槍を握り締める。このまま突進しよう。1体目を突き、上に斬り上げからの突き刺し…襲いかかる2体目を薙ぎ払う…片方が怯んだ隙にもう片方を攻撃…そう頭で考え、実行に移そうとしたそのときだった。
「…弓…矢?」
それは私の視界の右から勢い良く飛び出し、ゾンビギークの頭を貫く。幻覚かと思った。それほどまでに予感していない出来事で、そして何よりも、美しかったのだ。青い光を纏った矢を射る、彼女の姿は。
「魔法、少女…私以外の」
矢はひとつ、ふたつとゾンビギークに命中し、3発当たったところで弓は幻影のように消え、彼女の前には、分厚い本が浮かぶ。魔導書のようなそれを彼女は手に取ると、ページを開き、邪術を扱うかのように不気味に微笑んだ。ページからは蛇の形をした杖が飛び出す。その杖を握りしめると、2体のゾンビギークに向けて構えた。
「煩わしいですね」
杖から放たれた、青い蛇の幻影がゾンビギークに向かっていく。噛み付くかのように咆哮し、威嚇し、そしてそれがゾンビギークに命中したその瞬間、2体ともが唸り、叫び、黒い煙を発しながら溶けた。煙の中から出てきたのは、陸上部の男子2人だ。
走り過ぎて未だ整わない呼吸、危機から救われた安心感…そんな感覚の中、青いマントがなびくのが視界の隅に映り込む。いつのまにか晴れた空から日の光が注ぎ、彼女を照らしては神々しさを演出した。私からしてみれば救世主だし、魔法少女として戦う彼女は正義の味方だ。しかし、その称号に相応しくない…と言っては語弊があるだろうが、彼女の衣装や立ち振舞い、表情までもが正義の味方と相反する。ダークヒロイン、そう呼ぶべきだろう。
「あ、あの…」
その場を速やかに去ろうとする彼女を、私は呼び止めた。今後魔法少女として戦う為には同じ敵と戦う人については知るべきだろうし、情報交換だってできたほうがいいと思ったからだ。それに助けてもらった身だし。
「助けてくれて、ありがとう。ここの学校の人?」
数メートル先で、彼女は静かに振り返った。冷めきった目、やる気のない表情。私とは正反対の、黒と青を基調とした衣装、武器、マント。校庭を風が吹き抜ける度に、彼女の肩まで伸びた黒髪はふわりと揺れる。黒いブーツが土に刺さる音を数回鳴らして、私と彼女ははっきり顔が見える距離まで近付いた。
「馴れ合うつもりはありません」
たった一言、ただそれだけで彼女は、私との間に壁を隔てた。どういう意図かはそのときは分からない。でも本当に、ただそれだけだった。
「…あなたが馴れ合いたくなくても、魔法少女同士の情報交換とか…必要だと思う。それに、強い敵は1人じゃ倒せないことだってあるかもしれない。」
こんなに学校で、饒舌な喋りをしたことは初めてかもしれない。いつも教室の隅で黙りこくっていたから、自分がこんなに喋れるということも、私は知らなかった。
「あなたは弱い。私は強い。協力したって、私が損をする。」
そう言い捨て、去ろうとする彼女を呼び止めるかのように、私は話を続けた。
「戦闘能力は、強い、弱いと単純に分けられるものじゃないよ。例えば私は近接攻撃が得意。だけど遠距離ってなると苦手。そういう風に、それぞれが得意なことっていうのは違う。見たところあなたは、遠距離攻撃は得意だけど、近接攻撃はそうでもないんじゃない?」
あくまで理論的に、と思って話をしたが、彼女からしてみればそれは挑発に近いものだっただろう。彼女は振り返り、魔導書を開き、右手を上に上げた。ページから剣を取り出し、魔導書を投げ捨て、両手で剣を構える。
「近接攻撃は、そうでもないって?」
「何、戦う気?私、敵じゃないけど…」
こちらも槍を構える。正直彼女と戦ったところで一銭も手に入らない為、そんなに戦う気はないのだが…向こうから仕掛けてくるのならば、と、そのときを待った。
「見てもいないのに、そんなことが分かるんですか?」
「勘だけど」
「低級魔法少女が、よくもそんな大口を叩けますね」
言葉を言い終えるのと同時に、彼女は剣を振り上げた。一歩下がってその攻撃を避け、槍で剣の持ち手を突いて怯ませる。彼女は手放しかけた剣を再び握り締め、再び私を斬りつける。
当たったら死ぬものを、よくもそこまで躊躇なく斬りつけられるのか。私のしょぼい槍でも、例えば心臓を突けば死ぬ。頭に当てれば死ぬ。どこを斬っても血は出るし、怪我をする。相手がこの学校の生徒ならば、私と同じ中学生だ。少なくとも、人を殺す覚悟で剣を振れるような年齢ではないだろう。
「私と戦ったって、何も得はないけど」
「口を動かす暇があるなら、その槍で攻撃したらどうなんですか?」
「そもそも何でそこまで対立したがるの?」
「何も質問しないでください、鬱陶しい。」
「ちょっと理不尽過ぎない?ねぇ、理由聞くだけ聞きたいんだけど」
彼女は絶え間なく剣を振り続ける。だがその全ては私に掠りもせず、空気を裂き、その場に残像だけを残す。私はただ避けたり槍で受け流したりするだけで、敵意は彼女に向けないようにしていた。
「思い切りはいいけど、軸がぶれてるよ。冷静さにも欠けてるというか…いや口調はすごい冷静だよね。ポーカーフェイスってか」
「反撃しないんですか?」
「少年院は嫌だしなぁ…怪我さして先生沙汰も嫌かなぁ…」
私がひとつ発言する度に、彼女の表情が険しくなっている気がする。言うこと全てが腹立たしいとか、いちいち発言が鼻につくとか、一言どころか全部余計とかはよく身内にも言われるが、彼女もそう感じているのだろう。その冷静さは失われ、立派な剣は段々弱々しくよろめくだけとなる。そうして一瞬動きが止まった剣を、私は思い切り蹴った。
「ひゃっ!?」
そう、まるでチアリーダーの如く。或いはキックボクサーの如く。若しくはめっちゃ動くダンサーかのように、彼女の剣を蹴り飛ばす。弧を描き空中を飛んで行く剣は、5メートルほど飛んだところで小さな煙にまみれ、どろんと消えた。
「もう一回言うけど、近接攻撃はそうでもないんじゃない?」
先程の蹴りの反動で後ろにこけ、尻もちをついたまま立ち上がることのない彼女はなんだか可哀想に見える。やったのは私なんだけど。彼女は私の問いには何も答えず、ただただ目線を遠くにやった。
「聞いていい?なんでそんなに対立したがるのか」
しばらくの沈黙が続いた。校庭に風が吹き、鬱陶しい土が舞う。彼女に目線を合わせるように、少ししゃがんで話を聞こうとした。
「魔法少女になったばかりのときは、他の複数の魔法少女と行動していました」
少しの音にもかき消されそうな、かなり小さな声で彼女は話し始めた。
「しかし彼女たちは、魔法少女を小遣い稼ぎとしか考えておらず、真剣さに欠けていた。日常生活でも人徳に背くことを平気でやり、人を見下し、力の弱い者を仲間外れにし、そうして自分達の居場所を守った。」
彼女はゆっくり立ち上がる。服についた砂埃を払い、どこからともなく魔導書を呼び出してはそれを両手で抱えた。
「そして彼女達はある強大な敵に敗れる。その瞬間感じた命の危機に、彼女達はすぐに逃げた。そしてその敵に敗れた原因を、全て私に押し付け魔法少女を辞めた。」
冷静で淡々とした喋りは段々怒りの篭ったものへと変わり、魔導書をきつく抱える。
「私は彼女達のような人とは関われない」
俯いてその表情は伺えないが、その一言には彼女の全ての怒りが込められているようだった。もういいでしょう、と吐き捨てるように言い、私に背を向けた。
「あの、ちょっと…」
彼女の小さくなる背中を追いかけて、呼び止める。
「あっのー…ああそれすごい、分かるなぁ〜?なんかさ、スクールカースト一軍系女子的なアレ?そう分かる、私全然友達いないんだけど、女子同士のめんどくさ〜いトラブルとか見てたら友達いなくて良かったなぁ〜って思うもん。いやマジで。」
私の語彙力が年々低下している気がする。それはもう、分かるとすごいとマジだけで生活できそうなレベル。
されど、伝われば問題ない。
「あの…こんだけ喋ってたらもう分かると思うけど、私ってめっちゃ喋ってるだけで苛つくとか言われんの。友達いないのも当然だよね。魔法少女も成り行きでなっちゃったし、お金目当てなのも否定できないし…自分のこと、善人だとは絶対思えない。あなたの嫌いなタイプかもしれないね。」
彼女は振り返らない。私は彼女の前に回り込み、俯く顔を見つめて息を吸った。
「でもさ、その…あなたとは、あんまり敵対したくない。なんだか、私とあなたで同じものが通ってる気がするんだ。」
図々しいと思われても仕方がないほどの鬱陶しさと意味不明さだろう。彼女の暗い顔は呆れ顔に変わり、私の真剣な顔を見るなりため息をついた。それはもう、相手を本気で馬鹿にするような大きなため息。
「先程から何を言っているのか、全く理解できません…」
彼女は頭を抱え、鬱陶しそうに私を見下した。今度こそ帰る、と言わんばかりに私を避けて通ろうとする彼女を何としてでも引き止めようと、思わず私は彼女の左腕を掴んだ。
「…離しなさい!」
私は彼女の左手を引っ張り、人差し指に光る銀の指輪を見つけて思い切り引き抜いた。その場が青白い光に包まれる。
「卑怯な真似を…!!」
彼女は溢れかえる光の中、驚いた顔で私を見つめたが、その次の瞬間には仕返しと言わんばかりに、私の右腕を力づくで掴んで指輪を強引に奪う。
その場が一瞬の沈黙に包まれた。2つの光が同時に発生し、あまりの眩しさにぎゅっと目を瞑った。光が収まるのを待って、目をゆっくりと開く。ぼやける視界が、だんだん明確になっていき、しばらくしてようやく元の視界を取り戻した。
「…ん?」
「えっ…?」
その場の顔面偏差値が一気に10ぐらい下がった気がする。少し前までは正統派魔法少女とダークヒロインが争っていたのが、今ここにいるのは垢抜けない女子中学生2人。
しかし問題はそこではない。今私の目の前にいる、先程まで魔導書を抱えていた彼女は…
「紅葉さん…だよね?」
「…恵己さん」
私と同じクラスの生徒、紅葉彩葉。いつも教室の隅で読書をする、私同様目立たない生徒だ。
眼鏡をかけ、ブレザーのボタンをきっちりとめ、少しも着崩すことのないそれが真面目を演出している。先程より短くなった髪は太陽に当てられ焦げ茶色に光り、肩より上で静かに揺れた。
何を話せばいいのか分からなくなって、一気にその場が静まり返る。その沈黙を破ったのは私でも紅葉さんでもなかった。
「あ、いたいた!おーい!紗千〜!!」
ちょこちょこ、という効果音が似合いそうな走り方で、遠くからかなりゆっくり走ってくるクリスト。
「あれクリスト、どこ行ってたの?」
「君達の姿を見られていたみたいだから、全員の記憶を消して眠らせてきたんだ」
「いやいやいや強いなお前」
「まあね…って、そこにいるのはパーシーのとこの…紅葉彩葉、だっけ。」
クリストは私の目の前で立ち尽くす紅葉さんを見るなり、どうも、とお辞儀した。パーシー…とは誰なのか分からないが、彼もクリストと同じような存在だろうか。
「…あなたのところの魔法少女だったんですね、恵己さんは。」
「ああ、ただ昨日魔法少女になったばかりだけどね。彼女は強いだろう?」
えっへん、と子供が自慢するかのように威張るクリスト。彼の口調や言動からは大人のような雰囲気を感じ取れるが、見た目の影響でかなり子供っぽい印象を抱いてしまう。
「彼女を弱いと侮っただろう。でも、紗千の戦闘能力は並のものじゃないよ。君とも肩を並べられる程だ。」
「あ、まじ?私そんな強いの?」
「…まぁ、近接戦闘に置いては、そう認めざるを得ないでしょう。」
紅葉さんは私の顔を見て、ため息をついた。人の顔を見るなりため息とは失礼極まりないが、今はそこに突っ込むべきではないだろう。
「あなたと戦ってみて…これ以上争ったところで、無駄だと分かりました」
「近接戦闘だと勝てないもんね」
「…まぁそうです。あなたは弱い、と言ったことは訂正しましょう。」
彼女は握り締めた右手を私の前に突き出した。思い切り、私の心臓の前に。その目つきは鋭く、敵意は消えていなかった。
「あの…私が何か気に障るようなこと言ったら、次から言ってもらっていいよ」
「…いいえ、面倒ですし、もう恵己さんがどれほど口が軽くて正直で、更に口が悪いということも、とても分かりました。」
「めっちゃボロカス言われてる」
ひっくり返して開いた手のひらには、翼の巻き付いた銀の指輪。私はその指輪を手に取り、スカートのポケットに仕舞う。
「あなたとは、必要以上に関わるつもりはありません。恵己さんとお話するのは、ゾンビギークが出現したときのみです。」
私は指輪を握ったままだった左手を見つめる。右手に取って少し眺めた後、それを差し出された彼女の手のひらに乗せて握らせた。彼女のものであるその指輪は、蛇が巻き付いたような形をしていて、青い宝石が蛇の目の部分になっている。その指輪を彼女は奪うようにブレザーのポケットに仕舞った。
「…分かった。じゃあ、そういうことで。あ、ゾンビギークが現れてないときでも、情報交換したいときとか話しかけていい?」
「…どうぞご勝手に。」
そう言い捨て、静まり返る校舎のほうへ歩いていく。段々小さくなる背中を黙って見つめ、見えなくなったところでクリストのほうを向いた。
「紅葉さんってあんな厨二病みたいな人だったっけ?」
「彩葉と面識があるのかい?」
「あるよそりゃ。あるって言っていいのか分かんないけどあるよ。去年もクラス一緒だったし。ほら、校外学習って去年あったんだけどね、それ自由班だったんだけど、お互い友達いないから余り物〜みたいな感じで同じ班になったわけよ」
「…なるほど」
ゾンビギークも紅葉さんもいなくなり、緊迫感のなくなった私とクリスト以外誰もいない校庭。妙な開放感が感じられて、呑気に欠伸をした後ひとつ大きな伸びをする。だがそれと同時に冷たい風が通り、私は思わず寒さに驚いて震えた。
「寒っ!!今本当に春か!?」
「そんなに寒くもないと思うけど…」
「お前は全身モコモコだからこの苦しみは分からんだろうな!!私は寒がりな上に今薄着なんだよ!!あー何でブレザー置いてきたんだろ!!」
「何で置いてきたの?」
「そら走るとき邪魔だからだよ」
ああ寒い寒い…と自分の腕をさすりながら、先程紅葉さんが帰っていった道を歩き、教室へ戻る。クリストもその後をちょこちょこついて来るのだが、あまりにも遅い。私もそのペースに合わせ、ゆっくり歩いた。
「あのさクリスト、さっき全員記憶消して眠らせてきたとか言ってたよね」
「ああ、変に騒ぎになっても面倒だしね」
「今も寝てる?」
「だと思うけど、それがどうかした?」
「いや、いつまで寝てんのかな〜って思って。もう1時間目始まってる時間だし…」
みんな、というのは全校生徒と教職員全員だろうか。それをあの短時間で眠らせたというのが恐ろしいし、やったのがこのクマのぬいぐるみもどきだというのが更に怖い。
「まぁまぁ、少し授業が遅れる程度だから大丈夫だよ。」
「あっそう…」
私としては幾ら授業が遅れたところでどうってことないのだが…寧ろ一仕事終えてもう既に帰りたいモードなので、授業を受ける気がない。
「はぁ…帰りたい…」
「まぁまぁ、頑張りなよ紗千。勉強と魔法少女の両立だって大事だよ。」
「お前はお母さんか」
「君の母親は、こんな風に口うるさく言う人なのかい?」
「いいや、全く。私は軽い育児放棄って呼んでる。」
「軽い育児放棄…?」
「仕事終わりに彼氏と遊んでるし。ちなみにその彼氏を私と弟は怪獣と呼んでいる」
「怪獣…?」
困惑と疑問を足して2で割ったような顔でこちらを見つめるクリスト。
「まぁそういう家庭もあるってことよ。にしても授業めんどくせぇ」
「話題の変え方が凄く雑だね」
私は歩くのが遅いクリストに段々腹が立ってきて、抱え上げて速歩きで帰る。途中クリストを床に起き、靴箱でスニーカーを上履きに履き替えながら、先程の出来事をひとつひとつ思い返した。今思えば、なかなかの命の危機だったのではないか。あのとき、紅葉さんが来ていなければどうなっていただろうか。
怪物と戦ったり、怪物に追いかけられたり、死にかけたり、かと思ったら助けられて、なのにその後助けられた人と戦って、しかもその人がクラスメイトだったり…。普通では起きることのない、濃厚で非日常的な出来事。思い出すだけでどっと疲れが出て、この後の授業が余計に憂鬱さを増した。
「今日の授業、全部寝るか…」
間抜けな欠伸をしながら、私は授業がもっと遅れることを願った。